第五回 吉菓を囲みて 兄妹は陰談し 小人を叱して 権臣は馴教す
「戯れはこれまでじゃ。よいな」
楊賓は威儀を正し、咳払いを一つして仕切り直す。先ほどの品のない視線は引っ込め、代わりに何でもない世間話を始めるような調子で口を開いた。
「そういえば近頃、地方の役人どもの仕事はまったくいい加減で困るんだ」
楊聖の目線は中空を捉え、動かなくなった。緊張が走る。
常佳が、パンと手を叩き、「そうだわ」と声を上げる。
「先日、父上から差し入れで索餅をいただいたんです。せっかくですから、お出ししましょう」
「おお、それはそれは。慶事には吉い案じゃ」
索をねじったような形をしていることからその名がついた。国名と同じ「索」の字を持つため、祝い事や贈答の席には欠かせぬ菓子として、国中で広く用いられていた。
「炸げるのがいいですか? 燙でます?」
「そうだな、じゃあきつめに炸げてくれ。パリパリがいいな」
からりと揚げた索餅は、兄妹二人にとって忘れがたい思い出の味であった。幼い頃、まだ貧しく身を寄せ合っていた時分、母が時折作ってくれた特別な菓子だった。
「ああ、本当に懐かしい」
「昔はいつも、最後の一つをめぐって、死闘を演じたものだ」
柔らかい空気がながれる。
奥の厨房から、やがてこうばしい薫りが届き始める。鼻腔をくすぐるその油の香りは、楊聖の張りつめた心をようやくほぐし、頭をすっきりとさせた。
やがて目の前に差し出された揚げたての索餅をかじりながら、楊賓は思い出したように、さりげない調子で口を開く。
「そうそう、話の続きだ。役人どもの怠慢。直近でも、流刑の途上で囚人が急に病死したという届けが上がってくるが、裏付けが曖昧で、どうにも信用ならん。句…… なんとか」
「句修克どののことですね」
頼礼の指摘をうけ、油でテラつく人差し指を突き付ける。
「よく知っておられる」
「女閲書令の務めですので。報告によれば、長旅の疲れと熱病による逝去とのこと。それ以上の詳しい話は、宮中に伝わってはおりません」
楊聖は親指と人差し指についた塩気と油分をなめ取りながら、兄の眼差しを静かにうかがう。先ほどまでの下品な色気はすっかり引っ込み、代わりに鋭い光が宿っている。その横顔を見ると、幼い頃に見た母の不機嫌な顔が、ふと重なって思い出された。
「ふむ、熱病か」
楊賓は頷きながら、あくまで何気ない調子で続ける。
「そういえば、あの男には娘が一人いたはずだ。年のころは……そなたくらいだな」
そういって次に目線を転じたのは、常佳であった。「十……七、八だったかな」という楊賓の媚びを含む言葉に、常佳は嬌声を挙げて喜んでみせた。楊賓はきゃあきゃあと騒ぐ常佳を嬉しそうにみていた。
楊聖には、その白々しさにいたたまれず、さらに索餅に手を付けた。女にはわかるのである。他二人も、もくもく索餅を食べたり、茶をすすったりしていた。
「護送に随行していたと聞いたが、役人の届けには遺族の行方までろくに記されておらん。結局、あの娘はその後どうなったのだろうな? なあ」
「ご無事ならよいですね」
楊聖は相槌をうちながら、心の奥で警戒心を一気に膨らます。兄の言葉には、死の真相を疑う調子よりも、娘の行方への関心がはるかに強く、何かを探り出そうとする意図が隠れているのを感じ取った。
心ノ臓が早鐘を拊ちだしたのがわかる。
「それは、そうだな。そなたらはどうだ。知っているか」
審麗皓は静かに問い返すように言う。
「閣下がご存じないのに、どうして私どもが知っているとお思いになるのです?」
「女の勘? とかそういうのに、頼りたくなったんだ」
「殿方が思われるほど大したものではございません。せいぜい身近な者の機嫌や、血を分けた者の胸の内が、少しばかり見える程度です」
「そんなものか」
楊賓は口の中で何度か繰り返すようにつぶやき、それ以上は追及せず、まるで気が済んだかのように肩を落とす。だがその目の奥には、安堵とも焦りともつかない色がよぎっていた。
「まあ、そういうことならそれでよい。ただ、余計な噂だけは困ってしまう。口さがない連中は、出まかせばかり。国家の重臣や、国母がつまらん噂話に踊らされたとなれば、威信も地に落ちよう。それだけは避けたくてな」
そう言い残すと、彼は重い腰を上げ、これ以上長居するつもりもないように部屋を辞そうとする。
「では、体を大事にな。また日を改めて参る」
慌てたような足取りで楊賓が去った後、室内には静けさが戻る。
頼礼が楊聖のそばに進み出て、低い声で言う。
「閣下のご様子、不審でございました。句修克の死そのものにはさほど関心を示さず、ただ娘の行方ばかり気にかけておられました」
楊聖は冷めた茶碗を置き、眉間にわずかな皺を刻みながら頷く。
推理に確信を重ねるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「そうだ。亡くなった本人のことより、生きているかもしれない娘のことばかり探りを入れる。役人の報告だけでは満足できず、わざわざ規を破ってここまで来る。これでは、自分たちが行ったことを証言できる者が残っていないか、恐れているようにしか見えない」
審麗皓は静かに楊聖の言葉を承けていう。
「つまり、句修克の死は病ではなく、何者かの手が加わったもの。そして兄上が最も恐れているのは、その現場にいた句雲殿が生き延び、真実を語ることなのでしょう」
「ええ」
楊聖は遠く南の方角を見つめ、声を落とす。
「兄上がここに来た真の目的は、句雲の行方を確かめることだった。生き証人がいるかどうか、また私たちがそのことに気づいているかどうかを探っていたのだ。これ以上は油断できない。盧枢には、何よりも句雲殿の安全を最優先に、支津方面への探索を急がせよ」
三人の側近は深く頷き、それぞれに警戒を強めるのであった。
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慌てて馬車に乗り込み、自邸に着くと、楊賓はまだ胸の鼓動が収まらないまま、自室へと足を運んだ。だが戸を開けるなり、すでに二人の男が、床に額を擦りつけるようにして待っていた。
いずれも地方の税務を預かる官僚で、長年にわたり上納金を横領し、私腹を肥やしていたところを、厳格な句修達に目をつけられ、まさに摘発されようとしていた張実・文襄の両名である。
「殿、殿。 お待ちしておりました!」
文襄が震える声で訴える。
「句修達の件、実は我らが手を回しました。もしあのまま都に戻り、調査が進めば、一族もろとも罰せられると恐れ、護送の途中で役人を買収し、南都に着く前に始末いたしました。事前にご相談する暇もなく、事後になってしまい、誠に申し訳ありません! どうかお力添えを、お救いください、お救いください」
隣の張実も同じように頭を垂れ、涙まで浮かべて謝罪を重ねる。無計画に先走り、ただ自分たちの保身だけで事を運んだ愚かさは、明らかなものであった。
だが楊賓は、彼らの姿を見て怒りを露わにするどころか、むしろ深く頷き、満足げな雰囲気をそのまなじりに滲ませた。
「おぬしら、なかなか大胆なことをしでかしたらしいな。わざわざ妹のもとへ探りに行ってみれば、案の定、何やら勘づいておった様子だ。こういう大事は、もっと早く相談せよ」
二人は顔を上げ、驚きと困惑に満ちた目で楊賓を見つめた。
「…… まあよい。おぬしら、自分の身を守るために動いたのであろう。わしの名前を勝手に使ったのも、別に咎めるつもりはない」
保身こそ人間の自然な摂理である―― 。楊賓はそう固く信じて疑わない。自分が可愛くない者など、この世にいるはずもない。むしろ「滅私奉公」などという言葉を掲げる者こそ、不自然であり、裏に何か企みがある。
わが名が隠れ蓑になるほど大きくなっていることに、楊賓はむしろ奇妙な喜びさえ感じていた。
「わしを頼ってきたのは正しい選択だ。困っている者を見捨てるような真似はせぬ。なあ」
楊賓はむしろ膝をついて、二人の肩に手をかける。
両名ははいつくばって恐縮する。
「安心せい。これからはおぬしらも、わしの仲間であり身内だ。もう決して見捨てはせぬ」
ぐっと両手のひらに力を込めると、張実も文襄も感涙にむせび、命に代えても忠誠を尽くすと誓うように、何度も叩頭した。
「殿のご恩、死ぬまで忘れません! 今後は何なりと、命に代えても殿のために尽くします!」
楊賓は満足げに頷き、やがて表情を引き締め、次の指示を口にする。
「よし。だが、まだ安心はできぬ。句修克の娘が、どうやら逃げおおせているようだ。あの娘が生きている限り、おぬしらの身に嫌疑が及ぶのは、時間の問題に過ぎん」
「承知しております。ゆえに句女の行方には懸賞金をかけ、南都大陽の手の者にも命じ、兵乱にでも見せかけて始末するよう手配しております」
そこまで聞くと、楊賓は卓の上の杯を高い音を立てて置いた。張実ははっと体を硬直させ、慌てて言葉を飲み込む。納得していない眼差しに、文襄は張実のかわりに言う。
「承知いたしました。 すぐに剣客を遣わして――」
楊賓は答えず、右手で右脇に置いた剣の柄を掴み、鞘を指先で後ろへ弾き飛ばすと、居合いの要領で一閃の速さで抜き放った。刃の閃きすら見極める間もなく、鋭い切っ先が二人の眼前に突き立てられる。
「おぬしらがやるのだ」
鋭い眼差しを向けられ、張実と文襄は顔面から血の気が引き、慌てて額を床に擦りつける。
「は、はい! 承知いたしました! すぐに支度を整え、南都へ向かいます!」
「必ずや、あの娘の行方を突き止め、手落ちなく事を収めてみせます!」
二人は震える声で誓い、楊賓の許しを待つように身を縮める。
「よし、行け。手配は早いほどよい。何かあれば、またわしの名を使っても構わぬ。だが――」
楊賓は剣をゆっくりと鞘に収め、冷たい声で念を押す。
「今度だけは、先走りも中途半端も許さぬ。結果だけを持って戻ってくるのだ」
「はっ! 心得ております!」
二人は這うように部屋を辞し、慌ただしく自邸へ戻ると、すぐに旅支度を始めた。都の役人としての体裁を整えつつ、密かに護衛の者も選りすぐり、夜が明けきらぬうちに南へ向かって馬を走らせる。
都を出て、幾日も道を重ねるうちに、見慣れた街並みは遠くなり、緩やかな丘や広がる田畑が続く地方の景色へと変わっていく。やがて港町「支津」へと続く道筋が、彼らの前に現れるのであった。
二人はただ己の保身のため、句雲の行方を追って南の地へと降りていった。




