第四回 宮闈 諸媛を擁して計を錬り 外戚 厄禍を畏れて門を敲く
帝国「索」。
五百余年、天下四方を統治する大帝国であった。
創業の戚蓋より、数えること三十四代目、戚旰の御代である。
「索」という大木は、外から見ればなお青々としている。しかし、ちょうど老木が洞を生ずるがごとくに、形骸となりかかっている。
さりとて大木は大木である。そのもとで憩い、とこしえの繁茂を信じている人々がいる。
皇太后・楊聖もその一人である。現皇帝の母――血縁はないが――つまり天下の母である。放縦豪奢を旨とする兄・楊賓には、手を焼いている。兄が楊氏累代の名望を金銀へ換えるかたわら、妹がひっしにそれを保繕しているというありさまである。
あやうい均衡の上に、かろうじて楊氏一門の栄耀は保たれていた。
句修克の頓死には、さしもの楊聖も疑義をさしはさまざるを得なかった。
首都である太妟から、流罪となったこの政府高官が、南都大陽にてとんと消息を絶ったのである。心身壮健であった彼の逝去は、病死というにはあまりに急であり、罪死というには命令がない。
女閲書令の頼礼に命じて実事の解明をいそがせた。
彼女の幸運は、配下の女子に非常に恵まれたところにある。世事に富む頼礼をはじめとして、明察たる審麗皓、技芸に優れる常佳といった嫋媛が左右に侍していた。美貌と才知を妬まず、むしろ虚心にこれを用いたことこそ、楊聖という女性の得難い器量であった。
やがて、頼礼の報告から
「句雲」
という女性の名前が挙がってきた。
句修克の長女であり、今は行方知れずであるという。
常佳は芳茶をくゆらせながら、その名前を思い出そうとする。茶碗をくるくると続けてやや冷めかけたころ、小さく声を上げる。
「一度だけ新年のご挨拶に、お父君とともにいらっしゃったことがあったわ」
3年前程度前の記憶を手繰り寄せる。
父が金崗という地の茶葉が好きだとかなんとか、そういう話をしたのを思い出した。いま常佳の手元にあるお茶が、その金崗茶である。
常佳は茶碗を指先で遊ばせながら目を閉じた。
「それが如何しましたか?」
楊聖の問いに、常佳は杯を置く。
「金茶はいいんです。あの娘がいうには、『父は支津から届く茶しか飲まない』って」
「支津」
審麗皓が地図へ目を落とす。聞いたことのない地名であった。
お茶の銘柄にこだわるならわかるが、なぜ津にこだわるのか。
「なんとかという津となにか関わり合いがあるとすれば……港易の賈人?」
頼礼は静かに竹簡を閉じた。
「まず支津を探りましょう」
「いえ」
楊聖はこれを制する。宮廷やその関連人物をたどるのならまだしも、都の外部まで手を伸ばすのは、女閲書令の掌握範囲を超えている。
息女の追跡は、宮廷外の人物にやらせるべきである。
楊聖の心配はそれよりも兄であった。贅沢三昧は、べつに構わないと思っている。しかし、政敵を枉戮するとなると、それはただちに楊氏一門の破殄にいたり得ることであった。
楊聖はおのずと近づく眉を、指の腹で何度もほぐしていた。これ以上かんばせにしわを刻むわけにもいかない。我ながら佳い齡の取り方をしたものだ、とおのれを何とか納得させてきたのである。
その様子を見とがめ、審麗皓はそっと楊聖の左側に寄り添う。
「妾の妹の二番目の子が、楊賓さまのもとでやっかいになっています。彼に探らせましょう」
「そうね。そうしてくれるとうれしいわ」
楊聖は、左肩に乗った審麗皓のハリのある手に右手を重ね、頬を寄せる。
甘いにおいがした。楊聖が寄越させた甘味が届けられたようだ。常佳は声を弾ませて盆を迎え、
「ほら、来ましたよ」
と三人を手招いた。いつにまにか引っ込んでいた頼礼は、奥から燗された坩堝をだしてきて、改めてお茶を入れていた。卓にはやわらかな笑い声が満ちる。
楊聖が肩の力を抜けるのは、この時ばかりであった。
さて、楊賓のほうは審麗皓の外甥である存輿に探らせる一方、句雲のほうは掖門令の懐譲に行方をたどらせるよう命じた。
太妟の宮廷では、灯が落ち着いた夜更けになっても、楊聖の居室だけは柔らかな明かりが絶えることがなかった。
頼礼が新たな報告を持って戻ってきたのは、三日後、その夜更けのことである。几の上の杯には、昼に嗜んだ金崗茶がわずかに残っている。すっかり冷たくなったそれを、楊聖は勢いよく傾ける。
頼礼はそれを見とがめ、楊聖はいたずらっぽく笑った。
楊賓・楊聖は、父・楊臨が婢女に手を付けて産ませた兄妹であった。母は賓を懐妊・出産したことで、わずかばかりの支度金を持たされて楊氏邸宅を追放された。しかし、楊臨はその肢体をわすれきれず、人目を忍んで通いつめ、妹・聖を生ませた。まもなくその密会も衆目の知る所となり、楊賓の母子は都を離れざるを得なかった。
兄妹は母の実家でその青春をついやした。そのころのくせを出せる相手は、楊賓には三人の友だけであった。
頼礼の生まれも決して高貴ではない。中級官吏の娘で、勉学好きの少女時代を経、志して後宮に入ってきた女性である。庶民に近い生まれのぶん、楊聖の不作法にはいっそう厳しい目を光らせていた。
「太后さま。句修克の件で、懐譲どのの報告から、詳細が判明いたしました」
楊聖はうなずき、手を上げて続けるよう促す。
「流刑地へ護送する役人の記録を調べたところ、南都大陽に到着する前に、護送団の半数が急病と称してひっこんだので、道中で交替していたことがわかりました。その交替を命じたのは、兄上・楊賓さまの配下が密かに手を回した者たちだそうです」
楊聖の眉間に、わずかに深い皺が刻まれた。
「つまり、病死でも罪死でもなく、その心算で送り出した、ということになりますね」
楊聖とは対照的に、楊賓は庶民の癖をあまり隠そうとはしない。
ただ生来の精悍な、都人受けする爽快な顔かたちは、その不作法をむしろ「豪気」と粉飾してしまうのである。
翌日、昼下がりに楊聖のもとに声を掛け合うこともなく集った三友は、それぞれの成果を持ち寄っていた。
「句修克は生前、国庫の支出記録と地方税の不正流用について、何か重大な文書をまとめていたとの噂があります」
というのは、常佳である。もちまえの愛嬌であちこちに噂を集めまくっていた。
あやしまれることはない。それが彼女の通常運転であった。
「ものは?」
常佳はかぶりをふる。あくまで噂である。物証はなかった。
「でも、やっぱりあの娘の『父は支津から届く茶がすき』というのは、単なる嗜好の話ではないんじゃないかなって」
霊感だけど、と彼女は付け加える。
その言葉に、審麗皓は広げた地図に視線を落としながら、静かに口を開いた。
「『支津』は南の大河・通川が海へ注ぐ河口の奥、干潟と入り江が入り組んだ場所に、古くから存在する港津のことです」
頼礼が竹簡の束を指でなぞり、補足する。
「表向きは農作物や木綿や塩、雑貨の積み下ろしだけで、南都大陽の水運を扼する洽浦とは隣り合っています。湊老は、支巽とかいう人物です」
楊聖は冷めた茶碗を指先で回しながら、眉間の皺をさらに深めた。
「不信な動きは?」
審麗皓は小さく首を振りながら、目を伏せる。存輿からの報告も、目新しい情報はなかった
このとき、彼女たちの耳に残賊を撃退した支某の武名は昇らなかった。宮都人の聾愚というよりも、南都大陽の鄙なることを歎ずるべきであろう。
四人はそれから情報を交換しあい、誰が言いだすでもなく解散した。
何の気なく竹簡をもてあそんでいると、ドタドタという足音が聞こえる。
「太后さま!」
常佳という女性は、楊聖とは打って変わって、深窓の秘宝として育った。生まれてから一度だって自分で衣を替える必要がないような、まごうことなきご令嬢であった。
三人の中でもっとも小柄で、もっとも門地が尊い代わりに、三人の中でもっともはしたない――もとい明朗活発で礼儀に拘泥しない女性であった。楊聖は常佳がいとおしくてたまらず、常佳はすなおに楊聖を慕っている。
ぴょんと飛び込むように腕の中に転げ込んできた常佳を抱きとめるのに、楊聖には毛筋ほどの苦労もない。
ばあ、と顔を上げた常佳は素早く離れて衣服を整え、急いで来たからなのか、羞恥したからなのかわからない、上気した顔を楊聖にむけた。
「支紇撻って人がですね、句修克と同門生でですね――」
「待って、待って。それは誰なのかしら。支なんとかって」
「さっき話にでてた、支巽という人の父です。私の部下の子の叔父上が知ってるって」
常佳は容婦令である。そのうち衣裳管理をになう女官の一人が、なにやら情報を持っていたようだ。
ようやく手がかりらしい手がかりを得ることができた。同門というのなら、充分に信頼関係を構築していることは想像に難くない。
あとで頼礼に人事記録を調べさせたが、支紇撻なる人物が朝廷に仕えていたのは、わずか二年にも満たない短期間であった。まもなく地元にひっこんで水運業に熱を上げていたのであろう。
「官界と疎遠だからこそ、ということはないでしょうか」
とは、審麗皓の謂いである。
そういう内偵の動きは、多かれ少なかれ疑念を呼ぶ。官界とのつながりが希薄で、遠く都から離れた支津に重要な情報を蔵すというのは、理に適っているのではないか。
そういう推測のもと、懐譲に追加調査を依頼する。
だが、楊聖らの調査はここまでで一時中断を余儀なくされた。
楊賓が、妹である楊聖に拝謁を求めてきたのである。掖門令として宮門の表側をつかさどる懐譲が、さも困った、といった顔で取り次いでくる。
楊賓のその動きは明らかに、こちらの動向に感づき、クギを刺しに来たものに違いない。
兄と妹とはいえ、立場は帝母と臣下である。正式な文書を届け、日時を定め、しかるべき手順を履んで拝謁の運びとなるのが常道である。しかし、今回の謁請はどう考えてもその規を逾えていた。
楊聖は試みに、病を称して面会を謝絶してみた。
「太后さまが病? ならばなおさら兄であるわたしが看てやるのが道理ではないか」
楊賓はそう言い放ち、なおも宮門の前で待ち続けた。
楊聖は報告を聞いて、眉間に深い皺を刻む。
審麗皓も顔を曇らせる。
「警戒を厳しくしていたつもりでしたが…… 隙間はあるものです。ここは一度会って、相手の出方を見るしかないでしょう」
楊聖はため息をつき、やがて頷いた。
「わかった。通します。兄上おひとりで罷り越させよ」
太后宮の一室、楊賓は着崩した着物の襟元からは肌が覗き、威張った足取りで部屋に入る。審麗皓は湧き出る嫌悪感を必死に胸のあたりで抑えていた。
楊賓は楊聖の前に立つと、表面上は礼儀正しく頭を下げる。
「太后陛下、ご無沙汰しております。体調がすぐれないと聞き、見舞いに参りました」
「お戯れを、兄上。いじめないでくださいな」
楊聖は表情を変えず、声だけにわずかな皮肉を混ぜて応じる。手元の茶碗を指先でなぞりながら、相手の次の言葉を待つ。
楊賓はにやりと口の端を上げ、礼を解くと大儀そうに席に腰を下ろす。襟元はなお大きく開いたままである。かれは、妹の前で、かしこまることなど馬鹿馬鹿しいと思っている。
「戯れではない。かわいい妹が体を悪くするのは望む所ではない。ほら、こうして兄がきたらすっかり治ったじゃないか」
そう言いながら、腕を広げてわざとらしく笑う。彼は部屋の中をちらりと見回し、頼礼や審麗皓、常佳らの姿を順に眺める。視線はどこかなれなれしく、品のないまなざしである。
「それに、こうして顔を合わせる機会も少なくなった。兄妹として、近況を語り合うのも悪くないだろう」
「あらかじめお知らせくだされば、兄上のためにもっと華々しくお迎えできましたのに」
楊聖の言葉に、楊賓は肩を竦める。
「いやあ、充分に華やかだ。とくにその、そちらの」
楊賓は頼礼の目を、いや、やや顔からやや下がったところを注目し、口元を緩める。
兄妹だけあって、顔つきに似たところのある二人ではある。しかし、楊聖に慈しまれるのとは大違いであった。頼礼には不快感ばかりが募る。
「義姉上にいいつけますよ」
楊聖は頼礼をかばい、兄をにらみつける。その声は低く、静かながら刃のような鋭さが潜んでいた。
言われた瞬間、楊賓の肩がぴくりと跳ねた。先ほどまでのなれなれしい笑みが、一瞬にして引きつり、目がおもしろいくらいに泳ぎ回る。襟元の開いた着物も、無意識のうちに片手で引き寄せて合わせようとする。
「いやいや、それは……。 待てよ聖、そんな大げさな」
恥も礼儀もない。楊聖は、何年かぶりに自分の名前を呼ぶ兄の声を聞いた。
両手の汗をなんども膝で拭う。
「ただ……そう、褒めただけだ。品がないのは許してくれよ。そんな真に受けることでもない。わが妻にかけて、おれの名誉にかけて、そんな不埒はしないからな」
彼の妻は蘇正慧という。いまの左相・蘇閏の甥である。楊賓の豊満好みを知った蘇閏はわが女たちを並べてうんうんと唸っていたが、ふと思いつき、弟の蘇餘を説得して正慧をこれに嫁かせた。
なにもかもが突然にすべて決まってしまった正慧にとって、この成り上がり者の夫を繋ぎとめることをその一生涯の義務であると決め込んでしまった。他の女に少しでも色目を使おうものなら、家中を引っくり返す癇癪を起こす。
特に、彼女は彼女の持つ二つのそれだけが羈縻であると思い込み、入念に手入れをし、みずからより豊かな女を見つけるたび、権勢と陰謀の限りを尽くして楊賓の周囲から排除する。
この狂気的な愛情に戸惑いながらも、「みやこの貴婦人は、こんなものか」と納得し、楊賓は豊かで高貴な妻を享楽した。彼は情多くの女に惹かれる性分ではあったが、そのたびに正慧の激しい不安と独占欲が爆発し、彼を再び妻のもとへ引き戻すのだった。
楊賓には、そんな妻がいとおしくも、うとましくもあった。そしてそれ以上にいっとう懼れていた。
「知っていますとも。義姉上が頼礼を見れば、どんな手荒な真似をなさるか。この宮のものに手を出してしまえば、それは皇帝陛下の威光を損なうことになりますよ」
楊聖はなおも睨みを緩めない。
その言葉に、楊賓は青ざめたまま、慌てて頭を掻きむしる。
「わかった、わかった。謝るから」
普段は威張り散らし、宮廷でも傍若無人に振る舞う男が、この一点だけであっさりと尻尾を巻く。その情けない姿を見て、頼礼は胸の奥の不快感がすくのを感じた。審麗皓や常佳も、顔には出さないものの、互いに目配せしている。
「戯れはこれまでじゃ。よいな」
楊賓は威儀を正し、目を吊り上げて妹に何も言わせない、という顔をして仕切りなおす。
楊聖は再び茶碗を手に取り、表情を元の冷静さに戻した。
正念場は、ここからなのである。
今回の用語
・女閲書令……文書の管理をつかさどり、そのうち特に皇后・皇太后に捧げられる陳述書ほかを掌握している女官。もっとも外部の文官と接触する機会が多い。
・掖門令……掖門をつかさどり、防衛や管理を担う。掖門とは、宮殿の門。
・容婦令……宮廷に仕える女性たちの化粧・髪型・衣装の調達と管理を掌る女官。
・左相……左宰相の略。主席宰相(首相)、右宰相(右相)に次ぐ。




