第二回 寅氏 哄然として珍客を迎え 句氏 惶乎として洽浦に渉る
「いいのだ、いいのだ」
しばらく悶絶していたが、やがて再起した寅耽は支乾の話を聞き、大いに笑う。
句咸は顔を強張らせ、むっつりと黙り込んだままうつむき、指先をもじもじさせている。句雲がひたすらに謝り倒していた。
「そりゃあ若大将がわるいな」
脂で光る顔をニヤニヤさせて嬉しそうにはやし立てる客が言った。店中は珍事件を肴に上機嫌であった。
支乾は恐縮して小さくなる句咸の頭に手を置き、小さい声で
「それでいいんだぜ。善く動いた」
と、まるで自分の弟にでも言うように、柔らかい調子で褒めているばかりである。
寅耽は奥の方の個室に一行を案内した。戸を閉めると、外のざわめきが薄れる。姉は弟をたしなめるようにその額を小突き、その次に慰め感謝するように頭を抱いた。
「さて、人心地もついたことだ。つまみの一つでも奢ってくれよ」
「そうはいかん。先ほどのおれ無礼は痛恨の清算を済ませたのだ。つまみを食うならお代はいただく」
「じゃあつけといてくれ」
あいよ、と寅耽は奥に引っ込んで、蕪菜の和え物を片手に戻ってくる。
そのまま席の端っこに屈強な臀部をねじ込んで、支乾に正対する。
「事情は、どこまで聞いていい?」
支乾は顧客の名前と、その目的地を伝えた。あとは寅耽のどんぐり眼を見つめ返すばかりである。
寅耽は眉を挙げ、これ以上訊ねようとはしなかった。知らない方が身のため、という経験は寅氏のなかでもしばしばある。
句咸は目の前に置かれた菜っ葉の端っこを、恐る恐るついばむように口に入れると、思った味と違ったのか「げ」と舌を出して顔をしかめていた。
「ちょうどおれも洽浦に用事がある。どうだ、ぜひおれも連れて行かないか。おれなら、蔡朗どのの聞こえもよかろう」
「それは」
非常に助かる。寅耽の関係者ということにすれば、父が守りたがっているであろう姉弟の素性やら秘密やらも、うまく隠し通せるであろう。
本当に寅耽が洽浦にゆく予定があったかどうかはわからぬが、その好意を無駄にする理由もない。支乾は素直にその申し出を受けた。
姉弟の身柄はひとまず居酒屋で預かることとした。「童児むけの、なんか見繕ってくれ」と寅耽は厨房に声をかける。これは奢りらしい。
支乾は寅耽を伴ってそのまま蔡朗のもとに赴く。
蔡朗は寅耽の願いを聞き届け、その同行者二名の同乗も承知してくれた。
翌々日、日も出ぬうちに、支乾は寅耽の店の戸を叩いた。
寅耽はいつにもまして髪の毛が逆巻き、いかにも寝起きという感じであったが、句姉妹は緊張した面持ちで、身だしなみも小ぎれいにし、支乾を待ち受けていた。
寅耽を一足先に津に向かわせ、蔡朗に挨拶をさせた。
「出航前は、みな気が立っている。邪魔にならぬようにな。句雲どのは私から、句咸は姉ぎみから決して離れないように」
道すがら注意をたれながら、薄暗い支津の町を歩く。
「……もとは、支巽さまに小舟を貸してほしいと、そうお願いしたんです。姉弟だけで洽浦に行くって」
句雲はぽつぽつと語りだす。
「もちろん、断られました。しかるべき人物に送り届けさせるから、ってあの蔵にしばらく匿ってもらったんです」
「あんな埃っぽいところにねぇ。ウチのオヤジは頭だけでものを考えるから」
「いえ。あれでよかったんです。だれも、あんなところに人が棲みつくなんて考えないでしょうから……」
「何から逃げてるんです?」
三日前から腹の中とぐろを巻いていた疑問が、思わず口をついて出た。
「敵、です」
「誰の?」
「お父様の……」
句雲どのの父君ねえ、と支乾は考える。その顔を想像するのには、むしろ弟句咸の顔から推測したほうがいいかもしれないが。
「それはつまり、立派な父君ということだな」
句雲は眉を顰める。句咸は、瞳だけで支乾の顔を伺った。
「いや、敵がいること自体を褒めてるわけじゃありません。でも、誰からも恨まれず、誰ともぶつからずに何かを成し遂げる人なんて、あまり見たことがない」
支乾は拳を前に突き出す。
「敵がいてこその人生! なんて言ったら乱暴だが」
「……勝てなければ、意味がない」
句咸が目線を落として呟く。みじめさにいら立つ気持ちが、句咸の拳を固くする。
「勝てないときは逃げるんだよ」
「逃げてどうする」
「そりゃまた戦うのさ。生きてなきゃ勝てないだろ」
句咸はまたむっつり黙り込む。
句雲は自分の腕を強くつかみ、顔をそらしている。
「まあ、よそ者のざれごとだ」
支乾は足早に先を急ぐ。
やがて河水の、水のくさったようなにおいが強くなると、津で水夫たちに号令をとばす蔡朗の姿が朝ぼらけにみえる。
傍らには寅耽がひかえていた。
巨漢二人が軽く手を挙げて会釈をした。
支乾は小走りになって駆け付ける。
「船長、急なことで手間を取らせます。よろしくお願いします」
「若のわがままは今に始まったことじゃない。これは前にも言ったが、洽浦との話は若がつけてくださいね」
蔡朗は目を挙げて後ろに小さく歩く姉弟を望んだ。余計な詮索はしなかった。
「さて、若はお客さんがたの相手をしててくれ」
うろうろされても邪魔だからな、と姉弟には聞こえない声で言った。
支乾は友人の水夫景衆を呼び止めて、寅耽を先に船室にゆかせる。支乾は踵を返して姉弟のもとへもどる。「礼儀や挨拶は後回しでいいから、ひとまず甲板の下の船室に入って、じっとしていてくれ」と、簡潔に告げた。
東側の空が白んできて、風がやんだ。水面は鏡のようになめらかに紫色の空を映す。
錨が抜かれた。日出とともにのっそりと出航する船は二隻。支乾らの乗る先導の船の航跡を、ゆっくりたどるように後発船が出る。
支津から洽浦までは、川の流れに従えばよいから、大して苦労はない。
句姉弟を誘って甲板に出、朝日を正面にむかえる。天晴である。
「この様子では、日の高いうちに洽浦に寄港することができよう」
そんな支乾の予感はみごと的中する。
太陽が中天するころ、船は洽浦沖で錨を下ろした。寅耽と句姉弟、支乾を載せた小舟がおろされた。句姉弟には初めての浮遊感であったようで、ひしと抱き合っている。
「水夫たちに飯を食わせて、少し休んだら、出航ますからね。帰ってくるなら、それまでに」
蔡朗のよく通る声が響いた。
着水した後も、姉弟の表情はこわばっていた。
大船に比べ、小舟は河波に簡単にゆすられる。ゆらゆらした感じが恐ろしいようだ。
寅耽は櫂をひっつかみ、ぐわんぐわんと力いっぱいまわす。勢いがつくと、小舟の揺れはかえって収まった。
支乾は船尾について舵をとって、洽浦の町を望む。
ある程度近づき、支乾は右で舵をにぎったまま、左手で手旗をふる。
桟橋では綱を持った水夫が待ち構えていた。手旗に応じて、小舟は岸へ導かれる。
句咸が舟から身を乗り出した。はっとして姉はその襟首をつかむが、一向に構やしない。
「大きい……」
洽浦の楼台のことをいうのであろう。木造で高く組まれたその建物は、港全体を見渡せるように設計されている
あの楼台にはだいたい30人くらいの兵隊がつめていて、水上の安全を見張っている。有事があれば、早馬が飛び出し、ものの半日で内陸の県城から兵隊がすっとんでくる。
支津にはそういった楼台はなかった。句咸には新鮮かもしれない。
洽浦港の規模も支津のそれより一回り大きい。
洽浦の湊老(港湾のとりまとめ役)に、正式に挨拶と入港の届け出をせねばならない。陸にあがると、支乾はその足で洽浦の老肆である和氏の詰め所に出向いた。寅耽ら三人には桟橋から離れないように言いつけておく。
「支津が湊老・支氏の一子・乾でござる。これより入港させていただきたく、お許しを願います」
「……肆主さまからは支氏の者が来たら、これを聞けと言われていてな」
応対に出たのは、背が低く痩せ型で、いかにも書類仕事だけを任されているといった風体の男であった。支乾に一枚の紙片と筆を差し出す。
――足下与誰具来。
紙片を裏返し、一文字を書いて、突き返す。
懐から取り出した竹簡の封印をパキリと割り、几の上に広げ、紙片の裏側と突き合わせた。
「句」
符合した。
目線だけで支乾を見上げ、男は、
「善し」
とだけ言った。
つまり、句姉弟の身柄は和氏が引き取るということであろう。これ以上は何も言えない、という拒絶の雰囲気を感じ取り、支乾は踵を返した。
姉弟がどういった理由でことほど左様にややこしいことになっているか、難しいことはわからないし、わかったところで、支乾の手には余るであろう。余計なことを考えるまえに、みずからのできる最大限のことをした方がよい。
和氏の連中の顔を見るに、長居は歓迎されていないようである。句姉弟を引き渡してその安全を確認したたら、とっとと引き返すが吉であると思う。
和氏の水夫とともに桟橋のほうにもどった。この愛想のない男は、和氏の水夫で、是挙という。支乾は陸から手招きする。
句雲は状況を察すると、すぐに進み出て是挙と短い言葉を交わし、何か確認を取っている。寅耽はその様子を横から睨むように見て、支乾の耳元に低い声で囁いた。
「雲どのをこいつらにまかせていいのか」
と支乾に耳打ちした。支乾は肩をすくめてみせるしかない。
句咸は一人、少し離れたぽつんと後ろに控え、心細げに周囲を見回していた。支乾は少年のもとに歩みを寄せ、頭に手を置いて言う。
「あの時は、よい拳だった。忘れるなよ。おまえが姉ぎみを守るんだ」
横目で寅耽を見てみる。ふんと鼻を鳴らし、拳を握って見せた。「いいもの持ってたぜ」ということであろう。
「ただ、振るう相手は見極めろよ」
と、寅耽はおどけてみせた。
句咸は姉に手招きされ、その傍に控えた。
「支乾どの、寅耽どの、この度は大変お世話になりました。この御恩は決して忘れません。いつか必ず、形にしてお返しする日が来るはずです」
謝辞を述べ、深々と拝礼する。弟もそれに倣う。
寅耽は照れ臭そうに頭を掻いた。
「必ず生きて返してください。商売人は、貸しも借りもキチンと書きつけておくんです」
支乾はそれだけ言い残し、未練を断ち切るようにすっと踵を返した。
「行こう、寅耽」
「おう」
二人は小舟へ向かう。
背後では句雲が是挙に導かれ、町の奥へ歩き始めていた。
母船に寅耽・支乾が帰る。蔡朗船長は寅耽の顔を見てちょっとおどろき、
「ご用はすまされましたかな」
「おかげさまで、すぐすみました」
蔡朗はそれ以上は追及しようとしなかった。素性のしれぬ、どこか品のある若いあの姉弟がいない。彼らに関することであろうことは、さすがに想像がついていた。
蔡朗の号令でふたたび錨が上げられた。出航である。
二人は残っていた箪食にありつく。寅耽が水瓶を手に取ろうとしたその時であった。
――カン、カン、カン。
非常事態を告げる――外敵の襲来を示す鐘が、洽浦の楼台から鳴り響いた。
船内がにわかに色めき立つ。
「河賊か!」
「船影は? 後船はどうなっている?」
「弓とれ、弓」
「矢筒ないよ!」
「登れ! 昇れ!」
水夫の景衆は長い手足を巧みに繰り出し、するすると帆柱を登攀した。四方を眺めまわす。
「船影なし! 船影ありません! ありません!」
後船に号令をだすための信号旗が忙しく舞った。もう一度、緊急事態を報せる鐘の音が甲高い音が耳をつんざく。
支乾・寅耽は弾かれたように立ち上がって、無言で顔を見合わせると、すぐさま甲板へと飛び出していた。
洽浦の町から、黒煙が一筋、空へ立ちのぼっていた。




