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第一回 青年 旧廩に奇貨を預かり  寅郎 酒肆に佳人を錯(あやま)つ

 日没。

 大河の上に鮮やかな紅色の帯が広がり、紫雲が流れるようにたなびいていた。

 水面にちりばめられた夕日の輝きは波間に消えかかり、やがて水底は玄色に沈んでいく。

 津場から引き揚げてくる水夫たちの背後で、黒い塊となった船舟が、大河の緩やかな流れに従ってゆらゆらと上下に揺れている。


「若君、もどりますよ」


 門扉の内側から上ずった声が響く。夕闇の中に薄白く浮かび上がる顔は、()(けん)を迎えに来た()()()()だ。


「ほうら、若。あんたのお世話係がなんか呼んでるぜ」


 水夫頭領の(さい)(ろう)が、浅黒い頬に皺を寄せて笑い、ぶっとい指で門の方を示す。河風と汗の匂いが混じる。


「お世話係はやめてくれ」


「やめろったって、旦那がそういうんだから」


 旦那とは、支氏の当主にして支乾の父・()(そん)のことだ。


「おれは(さい)(ろう)船長を師匠だと思ってる。ここで学ぶことが、家の役に立つはずだ」


「そうはいってもなあ……」


 蔡朗が頭をぼりぼりと掻くと、後ろから若い水夫・(けい)(しゅう)が嬉しそうに顔をのぞかせた。


「若、またいつでも船に来てくださいね」


「ああ、景衆。また頼む」


「こいつ、余計なことを言うな!」


 蔡朗のげんこつが景衆の脳天に飛ぶ。「ぎゃあっ」という悲鳴が上がると、門の陰で待っていた書生は苦々しげに眉をひそめた。


「旦那の怒りを買うのは私たちですからね、どうか私たちの身にもなってください」


 支乾が困ったように笑うと、蔡朗もため息をつきながら肩を叩き、「またな」と手を振って宿舎へと去っていった。

 支氏は南都・(だい)(よう)の水運の一端を担う豪族である。祖先には地方長官を務めた者もいるが、支乾の知る限り、今の支家はすっかり商貿の家となっていた。屋敷の門は大人の倍ほども高く、把手には口を開けた鼈魚(スッポン)、枠には怒涛を遡る鯉、扉一面には波濤の模様が彫られている。祖父・()(こつ)(たつ)の代に作らせたそれらは、河運で栄えた昔の威勢を今に伝えている。

 だが、いまや遠目には彫刻と木目の区別がつかず、スッポンの嘴は手擦れで丸くなり、コイの鱗の模様もところどころ潰れている。子供の頃に見た輝きはすでに失われ、その変化に気づくたび、支乾は家の力が衰えていくような寂しさを感じていた。

 父は、おまえが大きくなったのだ、とゆがんだ口で心にもないことをいう。まるで息子ではなく自分自身に言い聞かせるようであった。


「若さま。旦那様がお怒りです。私の身にもなってください」


 書生先生が――(せい)(ほう)が苦々しげに言う。


「それはおかしい。父上に言い渡された仕事と課題はぜんぶ終わらせたのだ。ましてや声方どのが叱責されるというのは、道理が通らない。おれから父に言っておこう」


 声方は、この家の会計事務を統括する事務屋である。会計管理の傍ら、若君支乾の指導教育までこなしているのだから、優秀なのに違いはない。父の命をうけ、声方のもとで経営やら経済やらの手ほどきを受けている。

 屋敷に入ると、老婢女(メイド)が木のたらいに湯気を湛えてを用意して待っていた。支乾の裾からは濃い河風の匂いが漂っており、婢女はあきれたような目を向ける。彼女はすっかり父派の急先鋒で、支乾の「船遊び」をいつも批判していた。


「旦那様が、書斎でお待ちですよ」


 かがんで(くつ)の土泥を払おうとする婢女を制し、支乾は自分で()()()()に履き替え、敷居をちょっと出、沓を打ち鳴らして泥をとる。「まぁっ」とわざとらしく悲鳴を上げた老婢女は、引っ込んだかと思うと、箒をかついで帰ってきた。


「お待ちって、また何か叱られるのか」


 支乾は足を湯につけ、自分で足の指の間を布巾で拭きながら、父の真意を推し量る。今日までに課題も仕事もすべて終えている。叱られる理由はないはずだ。

 小走りで書斎に向かった。扉の前で服装を整えていると、中から不機嫌そうな声が漏れてきた。


「走るな」


 支乾は聞こえなかったふりをして、「入りますよ」と声をかけ、扉を押し開けた。

 支巽は威儀を正して座り、片目で支乾を睨むように見ると、小さくため息をついて顎を動かした。そこに座れ、という合図だ。


「心当たりはないのか。言い訳があるなら聞こう」


 支巽の声は低く、厳しい。彼は帳簿と算盤で事業を管理することこそ、拡大した家業を支える道だと信じている。


「いえ。ひとつ、声方どのを叱ってやらないでください。今日の私は、まじめにこなしましたよ」


 支巽の思惑は手に取るようにわかっていた。支乾を船着き場から引き離し、机の前に縛りつけたいのだ。

 だが支乾には納得がいかない。


「父上。支氏の本分は何だと思いますか? 船ですよね。風を読み、河の流れを見極め、舵を操り、水夫たちを率いることです。算木を並べ、数字とにらめっこしているだけでは、船は一歩も進みません」


 興奮のせいで頬が熱くなるのを感じながら、支乾は言葉を続けた。祖父の代から、事業が大きくなるにつれ、船の上の経験よりも陸上(おか)の管理が重視されるようになった。やがて、船を使うための帳簿から、帳簿を維持するための船へと本末転倒し、河の匂いも知らない者たちが航路を決めるようになっていた。

 支巽は長い間黙っていたが、やがて姿勢を崩し、あぐらをかいてため息をついた。


(わたし)もこの歳だ。いまさら自分を変えることはできない。(おか)ばかりにいては、水の上のことは分からないものだと、ようやく身に染みてわかった。(おまえ)(おか)の知識は十分に学んだ。これからは…… 船のことを任せよう」


 そう言って差し出された書簡には、積み荷の置き場所、出発日時、予定された航路が細かく記されていた。支津から大河を下り、対岸の入江「(こう)()」までの道だ。何度も蔡朗の隙をついて船に乗り、通い慣れた道筋である。

 だが支乾は違和感を覚えた。書簡には、荷の内容も、誰から預かったものかも、一切記されていなかった。


「明日、蔵に行って引き受けにあがれ」


 支巽の最後の言葉に、支乾は胸の奥にわだかまりのようなものを感じながら、書斎を辞した。

 翌朝、支乾は日が昇りきらないうちに屋敷を出た。指定された場所は、支津の市街地の外れにある、支氏の私有倉庫だった。


「こんな場所に、一体何があるというのだ」


 支乾が「人夫を数人つけてください」と願い出たが、使いの者には「旦那様の言いつけで、お前一人で十分だ」と冷たく断られた。

 手入れのされていない茂みのなかに、人跡が縫うように延びていた。悪い予感が背中を走る。盗賊だろうか。中身が古い船具や帳簿ばかりだと知っているのは支氏の者だけで、外の者から見れば豪族の蔵には必ずお宝が眠っていると想像するものだ。

 古びた木戸は建付けが悪く、手で押してもぎしぎしと軋むだけで開かない。

 支乾が戸を押したり引いたりしてガタガタと音を立てているうち、内側からかすかな衣擦れの音と、息を潜めるような人の気配が伝わってきた。

 支乾は手近に転がっていた青銅製の鋤を右手に握り、一気に力を込めて戸を蹴り開けた。


「何者だ!」


 下段に構えた鋤の先が捉えたのは、暗がりの中で身を寄せ合う二人の影だった。

 一人は支乾と同じくらいの年ごろの少女。擦り切れた粗い着物を着ているが、黒い髪には不釣り合いなほど美しい翡翠の髪飾りが冷たい光を放っている。もう一人はまだ十にも満たない少年で、姉に庇われてその背中にすっぽりおさまっていた。わきの下から覗く目は、鋭く支乾を睨みつけていた。

 風体から見て、盗賊というよりは、何者かに追われて逃げてきた逃亡者のようだった。


「ここで何をしている」


「盗人に、名乗る名などありません」


 少女の声は凛乎としていたが、よく聞けばわずかに震えが含まれている。


「まもなく支氏の若君がここに来ます。大陽でも名の知れた豪傑だと聞いています。すぐに逃げなければ捕まりますよ」


 支乾は思わず吹き出しそうになった。


「それは……どんな男だ」


「屈強で、腕力に長け、どんな悪党も恐れると……」


 少女が言葉を続けるうち、支乾は失笑を漏らした。

 むっと眉を吊り上げる少女に対し、支乾は鋤を打ち捨て、自分の胸元を指さす。


「おれはそんな評判か」


「何を言って――」


 そこまで言って、ようやく相手の()()がだれか思い当たったようだ。口はそのまま半開きになって言葉を継がず、瞳が目まぐるしく泳ぎ、顔は怒りではなく羞恥で紅色になってゆく。

 彼女の目には、ボロ蔵を狙いつける小盗賊に見えていたようだ。そんなに迫力がないのか、と支乾はひそかに落胆する。


「ま、まあ、早まって戸を壊したのはおれだから……」


 むしろ支乾のほうが所在なさげに少女をなだめる。

 少女はふうっと大きく息をつき、ひゅるひゅると音が聞こえてきそうなほどにしぼんでいった。

 うっすら涙を浮かべ、恨めしそうに支乾をにらみつける。

 庇われていた少年は、少女の背中にピッタリとくっついて、全身で彼女を慰めていた。


「積み荷というのは、つまりこの二人のことだったわけか」


「……何も聞かされていないんですか」


 少女は少年を膝に抱き、支乾を見上げる。

 支乾はどかっと胡坐をかいてその場に座り込み、目線で答える。


「支巽さまがそう判断したというのなら、私から何か若君にお伝えするのは道理に合わないですね」


「そうは言ったって、積み荷の内容くらいは知っておきたい」


()?」


「……お客様の」


「あら、それも知らされていないの」


 (こう)(うん)

 少女はそう名乗った。

 真黒の髪は緩やかにうねり、肌は玉雪のように滑らかで、怯えと疲労に翳ってなお、その双眸は秋水のように澄んでいた。支乾は、こんな暗い蔵の中でこの顔を見るのが惜しいとさえ思った。

 塵埃や粗衣も、句雲のもちまえの美しさを覆い隠すには不十分であった。

 句雲はさらに膝の上にのった()を紹介して、「(かん)」という名前であることを教えてくれた。年のころは、十も数えないくらいか。肌の白さは姉によく似ているが、むっすりと結ばれた口元や、きりりと濃い眉は、たしかに男のそれである。敵愾心に満ちた目線を送られ、支乾はいい気がしない。


「すぐに、今日中に出発できますか?」


 句雲の問いに、支乾は腕を組んで考え込む。父が何も説明せずにこの仕事を任せたのは、よほど表立って扱えない事情があるからだろう。荷物ならまだしも、逃げてきた人間となれば、危険も手間も桁違いに大きい。


「今日すぐにとなると、小舟で川を渡るしかない。だが今は水かさが増えている時期で、流れも速い。慣れない者には死にに行くようなものだ。三日後に支氏の定期輸送船が出る。それに乗せて行くのが最も安全だが、待てるか?」


「…… 待ちます」


 句雲は覚悟を決めたように頷く。


「なら、宿はどうする。こんな蔵に三日もいるわけにはいかないだろう」


「ありません。なんとかしてください」


 あまりにあけすけな物言いに、支乾は思わず眉を上げた。追われる身でありながら、根っからのお嬢様育ちのような気高さが言葉の端々に滲み出ている。


「わかった。支津の東の端に、(いん)(たん)という友人がいる。寅氏はこの辺りの豪農で、飲食店も経営している。部屋の一つや二つ、空いているはずだ」


 東の端、と聞くと、こんどは句雲が顔を曇らせる。

 支津の街をほとんど横断せねばならないからだ。句咸は


「えーっ、歩くの」


 と不満を隠そうともしない。


「おぶってやろうか、孺子(ぼうず)


 支乾を一瞥もしない。無視とはいい性格をしている。

 さて、文句ばかり垂れていても仕方がない。とりあえず一行は目的の邸宅へと向かうこととした。

 少し進むと、句咸は疲れと不満でますます()()()返っていく。

 休憩がてら、機嫌取りに茶屋に立ち寄る。

 木製のテーブルに腰を下ろすと、支乾は「截餅(ほろほろもち)を三つ、熱い茶も頼む」と注文した。ほろりと崩れる甘い餅は、旅の疲れを癒すにはちょうどよい。

 姉弟もようやく人心地ついたらしい。

 句雲は指先で丁寧に餅を持ち、上品に口へ運ぶ。唇についた油を指でそっと拭う姿に、支乾は思わず見とれてしまう。粗末な着物でも、所作の端々に育ちの良さが現れていた。

 一方の支乾は疲労困憊の句咸に、アニキヅラで膝を寄せる。


「どうだ、孺子(こぞう)。不満なのか、それとも不安なのか?」


 句咸はプイと顔をそむける。この少年は、空腹も手伝って餅を掻き込むように食べていた。頬には餅の()()がついたままだ。


「句咸どの」


「…… どっちもだ。この先、何があるかわからない」


「怖くはないのか?」


「…… 怖くなんかない。私が、姉上を守らなきゃならないんだ」


 その言葉に、支乾は声を上げそうになった。見上げたものである。真剣な顔で身を乗り出した。


「偉い心がけだ。だがお前はまだ小さい。力では大人には敵わない。だから、弱い者が強い者に勝つための『秘伝の技』を教えてやろう」


 支乾は周囲を見回してから、声を潜めて指で下腹部を指し示す。


「命懸けの時には、遠慮なく急所を狙え。相手が痛みで動けなくなった隙に、全力で逃げるんだ。相手が再起する前に逃げ切れば、勝ちだ」


 句咸は目を丸くして、慌てて自分の両脚を閉じた。

 この姉弟の出自はとんと知らぬが、だいたい見当はつく。ケンカの一つもしてこなかったのであろう。むしろ、よく教育が行き届いていたからこそ、()()()()()()には至らない。句雲も「何を教えているのです」と非難の目を向けるが、支乾は気にせず続ける。


「蔡朗船長が言っていた。船の戦いでも同じだ。正面からぶつかって力比べするより、船底に穴を開けて沈めてしまえば、こちらのものだ。生き残った者が勝者なんだ」


 句咸は不満そうに口を曲げていたが、言葉の意味だけはしっかりと胸に刻んでいるようだった。それまで向けていた鋭い敵意が、少しだけ柔らいだのを支乾は感じ取った。


「それで、その寅某の店までは、どのくらいですか?」


 句雲が茶碗を置いて問いかけると、支乾は顎で茶屋の真向かいを指し示した。

 店先で客引きをしていた男は、支乾の目線に気が付くと、慌てて中へ引っ込んだ。次いで大きな影が現れた。背は二メートル近くあり、肩幅は門のように広く、腕は太い柱のように力強い。支乾が知る限り、蔡朗船長以上の巨漢はこの男だけだった。


「やあ、哥哥! 久しいな!」


「やめろ、その呼び方は」


「何を言う。未来の義兄上じゃないか」


 これが寅耽だ。寅氏と支氏は事業提携を結んでおり、寅耽は支乾の妹を許嫁としている。だからこそ、年上でありながら冗談めかして「哥哥(アニキ)」と呼ぶのだ。

 寅耽は大股で近づき、支乾の肩越しに後ろの二人を見ると、目を丸くしてから悪戯っぽくにたにたと笑い出す。


「おやおや。船のことしか頭にないと思っていた若君が、こんなに美しい女性を連れてくるとは! これは祝い事だ!」


 寅耽は支乾が反論する間もなく、店の中へ振り返って大きな声で叫んだ。


「おい、皆聞け! 支氏の若が、美女を伴って我が店にお越しになったぞ! さあ、祝いの酒を持ってこい!」

 店内からは歓声が上がり、賑やかな雰囲気が一気に広がる。支乾は慌てて句雲の方を見ると、彼女は氷のように冷たい瞳である。

 支乾は「誤解だ、誤解だ!」と手を振りながら、なんとか事態を収めようと店先へ急ぐ。

 だがそのとき、視界の端で小さな影が素早く動くのが見えた。


孺子(こぞう)、待て!」


 制止の声が届く前に、句咸は店の敷居を飛び越えた。


「ぎゃっ!」


 店内に響き渡ったのは、先ほどまで豪快に笑っていた巨漢の、情けないほど甲高い悲鳴だった。

 支乾は、というか男性はみなその悲鳴を聞いて()を縮み上がらせ、一斉に顔をしかめた。


「逃げなきゃ!」


 句咸はそう叫んで、店から飛び出してきた。

 これから始まるはずの「運び荷」の旅路が、最初からこんなに騒がしいものになるとは、誰が想像できただろうか。

 支乾は頭と股間を抱えた。

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