長女と第一王子と約束
今回はリアムクルミが少し物足りなく感じたので、おまけの短編です。
「クルミ」
不意に自分の名前を呼ばれて、目の前に広げた資料から視線を上げて振り返ると、リアム様が立っていた。
頭の中が資料の内容から切り替わらなくて、彼の顔を見て少し固まった後、はっとして壁にかかった時計に目を向けた。
約束の時間はとうに過ぎていて、慌てて「ごめんなさい!」と声をあげて、立ち上がった。
今日はリアム様と食事をする約束をしていた。
デスクの上の資料や本を片付けようと手を動かすと、リアム様が「大丈夫だよ、また今度にしよう」と言った。
私はデスクに視線を落としたまま、きゅっと胸が苦しくなるのを感じて、(うまくいかないな……)と心の中で呟いた。
今日は朝からついていなかった。
昨日も遅くまで仕事をしていたせいか珍しく朝寝坊をしてしまって、時計を手にして背筋が凍った。
それでも今日は久しぶりのデートだからと急いで準備する中、新しく降ろしたワンピースを着てきたのに、小走りでオフィスに入ると、人にぶつかってコーヒーがかかってしまった。
そして、極め付けは仕事のミス。
「申し訳ありませんでした」
私は目の前で椅子に深く腰掛ける上司に向かって頭を下げた。
報告書の内容に誤りがあって、他の担当にまで迷惑をかけてしまった。
仕事が立て込んでいるのを理由に、確認を怠った自分の落ち度だ。
「これだから女は」
吐き捨てられたその言葉が悔しくて、思わず手のひらに爪が食い込む程、拳を握った。
魔法省で働く女性は一割に満たない。
貴族の間ではなおさら「働くのは男性で、家を守るのが女性」という考えは根深くて、働きに出る女性はほとんどいない。
もちろん魔法省は身分関係なく入れるのだが、その狭き門を潜れる貴族以外の人はほんの一握りだけだ。
私がしっかりすべきなのに、と床を見つめながら奥歯を噛んだ。
それから失敗を次の仕事で取り返さないと、と時間も忘れて必死になっていた。
あんなに今日を楽しみにしていたのに、何もかも中途半端な自分が嫌になる。
「ごめんなさい」と視線を落としたまま口にすると、約束を守れなかった自分の不甲斐なさと、リアム様に悲しい思いをさせてしまった罪悪感で胸がいっぱいになって、思わず下唇を噛んだ。
「クルミは頑張ってるよ」
後ろから優しく告げられた言葉にはっと息をのんで振り返る。
「クルミが頑張ってるのを僕は知ってるよ」
そう繰り返して、ふわりと微笑んだリアム様を見た瞬間、視界が滲んで、込み上げてきた衝動に眉をひそめた。
そんな私の表情に困ったような笑みを浮かべた彼はこちらに手のひらを向けて小さく腕を開いた。
リアム様の意図を察して、「でも……」と呟くと、「大丈夫、誰もいないよ」と静かに言った。
私は堪えきれなくなった涙が頬を伝うのと同時に、彼の胸に飛び込んだ。
リアム様が私の腰を引き寄せて抱きしめ、片手で頭をそっと撫でたのに、心に閉じ込めていた気持ちが口からこぼれ出る。
「……リアム様、悲しい思いさせてごめんなさい……」
「うん、大丈夫だよ」
「私も本当に楽しみにしていたの」
「うん」
「なのに……何もうまくいかなくて……」
「うん」
小さく嗚咽を漏らしながら続ける私の言葉に、リアム様が落ち着いた声で相槌を打つ。
優しく髪を梳く感覚と彼の腕の温もりに心がすっと軽くなっていくのを感じた。
しばらくして気持ちが落ち着いてくると、ここが職場だったことを思い出して、恥ずかしさに少しだけ身をよじった。
リアム様は腕を緩ませて、何かを考えるように形の良い唇に手を当てると、「君を泣かせたのはネヴィルか……クビにしようかな」と呟いた。
「だ、ダメに決まってるでしょう!」
慌てて声をあげた私に「冗談冗談、そんなことしたら君が嫌がるの分かってるからね」とくすくす笑った。
「もう」と小さくため息をつきながら、安心して目を伏せると、リアム様は私の泣き腫らした瞼にそっと口付けて、「今度一緒にワンピースを買いに行こう」とにこりと笑った。
彼と交わした新しい約束に、明日からまた頑張ろうと前を向いた。




