第7話:桜湯と白い指先
「おかしいと思わなかったのかしら、こんな時期に桜湯だなんて」
白磁の器に浮かぶ、ほんのり桃色の花びらが、静かに揺れた。
私、椿屋は、その湯を口にすることなく、じっと相手の目を見つめていた。
対面に座るのは、女官長付きの若い女房、綾乃である。
彼女の細く整った指先が、微かに震えているのを私は見逃さなかった。
「……何のことですか」
「花が、咲き始めるのは弥生の頃。でも、これは温室で育てられた早咲きの八重桜。薬味も香りも薄い。加減を誤れば、毒にもなる。わざわざ、それを使ってお茶請けにしたのは、どういう意図かしら」
沈黙。
部屋にしんとした気配が流れ、どこかで風鈴がひとつ、転げるように鳴った。
ことの発端は、一通の密書だった。
「妃付きの女房が、次々に倒れている。毒の可能性あり」
そう簡潔に記された報せが、私のもとへ舞い込んだのは五日前。
後宮ではいま、麗妃の周囲の女官が、立て続けに奇病にかかっているという。
目眩、手の震え、吐き気。どれも不定愁訴のようで、医師は「風の邪」と診立てたが、私はそう思わなかった。
麗妃は、後宮の中でもとびきり寵愛を受けている。
美貌と知略を兼ね備えた、まさに「猛禽」と称される女性だ。
「麗妃の座を揺るがそうとする誰かが、密かに毒を盛っている」
そう考えた私は、例によって小間使いのふりをして、後宮に入り込んだ。
調査を進めていくうちに、あることに気づいた。
倒れた女官たちは皆、麗妃の私室で出された「桜湯」を口にしていたのだ。
一見、祝いの席や儀礼で使われる春の風物詩。しかし、それがなぜ、この秋口に?
しかも、桜の塩漬けには、体を冷やす性質がある。
それを繰り返し摂取すれば、胃腸が冷え、臓腑が弱る。
さらには、八重桜の品種には自然毒であるアミグダリンが微量含まれている。
「微量の毒を、数日に分けて、少しずつ」
それは、急性ではなく慢性毒の仕掛けだった。
巧妙で、一見して気づかない。
しかもその湯は、麗妃自身は一切口にしていなかった。
いつも、女官に「先にいただいて」と、穏やかな笑顔で。
――そう、麗妃ではない。
これは、麗妃を陥れるための逆トリックなのだ。
「……全部、あなたの仕業ね。綾乃」
私が名前を呼ぶと、彼女の顔から色がすっと消えた。
「なぜ、そんな真似を? あなたは麗妃に仕えていたのに」
「……あの方が許せなかったの」
細い声が、震えていた。
「私の姉は、あの方の策略で寵を奪われて、部屋付きから追われたのよ。侍女に落とされた。……その悔しさを、私はずっと忘れなかった。だから……」
彼女はふらりと立ち上がった。だがその膝は、すぐに力を失ったように崩れ落ちた。
私は、静かに湯呑を手に取る。
「恨みを抱くのは、あなたの自由。でも……毒は、予想以上に人を傷つける。見誤れば、取り返しがつかない」
その言葉に、綾乃は肩を震わせて、静かに泣いた。
後日談として。
麗妃は、彼女の罪を追及しなかった。
「罰するほどの価値もない者よ。むしろ、これほど私を恐れたという証。そのまま、忘れ去ってやるのが礼儀というものよ」
そう言って、また冷たい笑みを浮かべた。
私は、後宮の奥を歩きながら、ひとつ溜息をついた。
人の感情ほど、厄介な毒はない。
それは甘く、そして確実に、心を蝕む。
まるで、あの日の桜湯のように。
掲載が終わったので、一度完結済みにしておきます。
明日以降執筆が終わり次第、再開します。




