第6話:玉座の影に落ちる青
燕雀のさえずりも届かぬほど、朝露は重たかった。
城内、瑠璃の間——。玉座のある謁見の間の隅に、黒衣の女が跪いていた。誰よりも静かに、だが誰よりも気高く。
「小蘭、どうして、そなたがここに?」
天子の問いに、女は顔を上げず、ただ唇だけを動かした。
「陛下をお守りするためでございます」
その声は、紙のように薄く、だが剣のように鋭かった。
前話にて露見した「甘露の壺」に仕掛けられた毒。その余波で、側妃・芙蓉は発作を起こし、謁見の席で倒れた。壺の毒と彼女の発作に因果があるかを調べるため、小蘭は再び動き出した。
謁見の間の外、東庭。折り鶴の池のそばで、彼女は沈黙する宦官の言葉に耳を澄ませていた。
「……毒は、あの壺に仕込まれていたのではなく、すでに芙蓉様の体内に……」
「それを確かめるには、壺の中身に触れた者の反応を比較する必要があります」
小蘭は、女官たちに命じて同じ「甘露の湯」を口に含ませた。結果、何の異常も起きなかった。
ならば、毒は壺にあらず——。
彼女は考える。甘露の壺は、あくまで「誘導装置」に過ぎなかったのではないかと。
その夜、小蘭は芙蓉の部屋に忍び込んだ。
香炉から立ちのぼる煙の色に、彼女の眉がわずかに動いた。
「麝香ではない。これは……鈍香か」
鈍香——心拍を下げ、体温を落とし、呼吸を弱めるが、香を焚き続けていると逆に一時的に交感神経を刺激し、痙攣や発作を引き起こす。
壺の毒など、最初から“無かった”のだ。毒は「香」に仕込まれていた。そして香の存在に注意を逸らすための“目くらまし”こそが「甘露の壺」だった。
翌日。小蘭はある試みを行う。
壺の中身を空にした上で、芙蓉に同じ部屋で眠らせる。香炉には無臭の香を焚くようすり替えた。
——発作は起きなかった。
さらに念を入れて、鈍香を再び灯し、他の女官を一晩部屋に寝かせてみる。彼女は深夜、同じく痙攣を起こしていた。
答えは出た。毒は香——。
それを報告に上がった際、天子は目を細めた。
「ならば、小蘭。壺は一体、何のために?」
「誘導でございます」
「誘導?」
「毒が壺にあると“思わせる”ために、芙蓉様は自らの発作の時間を調整なされたのです」
小蘭の言葉に、文官たちがざわついた。
芙蓉の病は演技ではない。だが、香の強弱によって発作を「ある時刻」に集中させることはできる。そしてそれを「甘露を飲んだ直後」に合わせれば、毒は壺にあると見せかけることができる。
では、なぜ芙蓉はそんな手間を?
小蘭は、そっと天子の耳元で囁いた。
「芙蓉様は、“己が愛されていない”ことに、気づいてしまったのです」
「……」
「寵愛されるふりをするために、自ら毒を演出し、心配させ、注目を得ようとされた。孤独の妃が、唯一手にした芝居の脚本。それが——“毒の壺”だったのです」
天子は深く、息を吐いた。
そして、帰り際。
東庭の池の前、小蘭は独り佇む芙蓉に声をかけた。
「貴女の“笑顔”は美しい。だからこそ、毒を仕込んではいけなかった」
芙蓉は笑った。どこまでも静かに、透き通るように。
「貴女にだけは、見抜かれたくなかったのです」
小蘭は、何も答えなかった。
池に揺れる月が、二人の間にそっと落ちた。




