第7話 八年前
暗闇は、黒ではなかった。
何もない。
色すらない。
藤枝琴葉は自分の呼吸だけを聞いていた。
「唐沢さん」
返事がない。
「唐沢さん!」
「いる」
すぐ近く。
少し安心する。
「ライト」
「待て」
カチ。
唐沢のライトが点いた。
琴葉も自分のライトを確認する。
点かない。
「さっきまで動いてたのに」
「バッテリー」
「満タンです」
「貸せ」
唐沢が触る。
やはり点かない。
カメラは動いている。
赤い録画ランプだけが暗闇に浮いていた。
琴葉はその小さな赤い点が、なぜか目のように見えた。
「帰りましょう」
「分かってる」
唐沢が歩き出す。
琴葉は追いかける。
「八年前って何ですか」
返事はない。
「唐沢さん」
「今はいい」
「よくないです」
「後で話す」
「いつですか」
唐沢が足を止めた。
「ここを出たら」
その言葉が、
ここから出られない可能性を考えているように聞こえた。
琴葉はそれ以上聞かなかった。
二人は歩いた。
五分。
十分。
入口がない。
出口もない。
「おかしい」
琴葉が言った。
「七百メートルですよね」
「ああ」
「もうそれ以上歩いてます」
「たぶんな」
唐沢がスマートフォンを見る。
圏外。
位置情報も取得できない。
「GPSってトンネル内だと無理なんですか」
「普通は多少ズレても――」
唐沢が言葉を止める。
前方。
ライトの光の先。
道の中央に、
何かが落ちていた。
赤い靴。
子ども用。
片方だけ。
琴葉は動けなかった。
「こんなの、入るときありました?」
「ない」
「絶対?」
「見たら覚えてる」
唐沢が近づこうとする。
「触らないでください」
「分かってる」
二メートルほど手前で止まる。
赤い靴。
汚れている。
新しいものではない。
その内側に、
白い紙が入っていた。
唐沢がライトを向ける。
文字。
琴葉も読めた。
《返して》
二文字。
「何を……」
「行くぞ」
唐沢が踵を返す。
今度は早足だった。
「唐沢さん」
「何」
「誰かに恨まれてません?」
「配信やってりゃ多少は」
「そういうレベルじゃないですよね」
唐沢は黙った。
琴葉は後ろを振り返った。
赤い靴が、
ない。
「……唐沢さん」
「今度は何」
「靴」
「靴がどうした」
「消えました」
唐沢が振り返る。
道の中央。
空っぽ。
唐沢の表情が歪んだ。
「触ってないですよね」
「触ってない」
「私も触ってません」
「分かってる」
「じゃあ――」
そのとき、
右側の壁から声がした。
「返して」
琴葉は悲鳴を飲み込んだ。
壁。
コンクリート。
その向こうから聞こえた。
「返して」
今度は左。
「返して」
前。
後ろ。
同じ声。
唐沢がライトを振り回す。
「誰だ!」
「返事しないで!」
「出てこい!」
「唐沢さん!」
「俺を知ってるんだろ!」
その瞬間。
音が止まった。
静寂。
唐沢の荒い息。
そして。
「知ってるよ」
今度の声は、
子どもではなかった。
女。
はっきりした大人の女。
琴葉の腕に鳥肌が立つ。
唐沢が動かない。
声は続いた。
「あなたは、私を知ってる」
唐沢の手からライトが落ちた。
カツン。
光が地面を転がる。
「違う」
唐沢が言った。
琴葉は彼を見る。
「何が?」
「違う」
誰に言っているのか分からない。
「俺は何もしてない」
暗闇から、
女が笑った。
短く。
乾いた笑い。
「そうだね」
唐沢が一歩後ろへ下がる。
「見てただけ」
琴葉の胸が冷たくなった。
唐沢を見る。
「何の話ですか」
「琴葉」
「何を見てたんですか」
「後にしろ」
「八年前に何が――」
遠くから、
エンジン音が聞こえた。
大型車。
トラックのような低い音。
トンネルの外だろうか。
唐沢が顔を上げた。
その反応は、
さっきの声以上に激しかった。
「走れ」
「え?」
「走れ!」
唐沢が琴葉の腕を掴む。
二人は駆け出した。
背後。
エンジン音。
近づく。
だがライトは見えない。
車が来ているなら、光が見えるはずだ。
ない。
音だけ。
低く。
大きく。
近づく。
琴葉は息を切らしながら走った。
突然、
唐沢が消えた。
本当にそう見えた。
掴まれていた手が離れる。
「唐沢さん!」
前を見る。
いない。
「唐沢さん!」
返事がない。
足音も。
琴葉は止まった。
暗闇。
「やめてください!」
叫びが反響する。
何度も戻ってくる。
ください。
ください。
さい。
い。
そこに、
別の声が混じった。
「琴葉」
今度は自分の名前。
背後から。
琴葉は振り返らなかった。
走った。
前だけを見る。
「琴葉」
右。
「琴葉」
左。
「琴葉」
上。
泣きそうになる。
「琴葉」
すぐ後ろ。
肩のすぐ近く。
それでも振り返らなかった。
そのとき、
前方に光が見えた。
出口。
「……あった」
琴葉は走る。
光へ。
十メートル。
五メートル。
あと少し。
外へ出られる。
そう思った瞬間、
光の手前に人が立った。
白い服。
女。
琴葉は足を止めた。
霞ヶ瀬。
最初の失踪現場。
写真に写っていた白い女。
なぜ。
場所が違う。
怪談も違う。
女は動かない。
琴葉が一歩下がる。
女が、
ゆっくり顔を上げた。
顔は見えない。
だが腕が動く。
出口とは反対。
トンネルの奥を指した。
「……何」
女が言った。
小さな声。
「そっちじゃない」
同時に、
琴葉の背後で、
大型車の扉が閉まるような音がした。




