第6話 名前を呼ぶ声
藤枝琴葉は、トンネルに入って三分で後悔していた。
「だから昼間に下見しようって言ったんですよ」
前を歩く唐沢岳人が振り返る。
「昼間に心霊動画撮って、誰が見るんだよ」
「下見です。撮影は夜でいいじゃないですか」
「場所知っちゃったら怖くなくなるだろ」
「知らないまま入る方が危ないんです」
「そういうのも含めてリアルってやつ」
「事故ったらリアルどころじゃないです」
いつものやり取りだった。
唐沢が無茶を言い、琴葉が止める。
動画ではそれが二人の定番になっている。
ただ今日は配信していない。
いつもなら撮影開始前に何本か告知を出し、場合によってはライブ配信もする。
だが今回は唐沢が、
「先に場所だけ確認する」
と言った。
理由を聞いても教えてくれなかった。
琴葉には、それが気になっていた。
戸鳴隧道。
旧道に残されたトンネルで、車両の通行は禁止されている。
全長は七百メートルほど。
入口から出口まで直線に近い。
普通なら入口から反対側の明かりがわずかに見えてもいいはずなのに、今夜は完全な闇しかなかった。
琴葉はカメラを回しながら歩く。
「テスト撮影入ってます」
「了解」
「音、拾えてます?」
「たぶん」
「たぶんじゃ困ります」
唐沢が笑う。
琴葉は笑わなかった。
さっきから気になることがあった。
足音だ。
自分。
唐沢。
二人分。
そのはずなのに。
ときどき、
もう一つ聞こえる。
ザッ。
ザッ。
二人が歩く。
少し遅れて、
ザッ。
琴葉は止まった。
唐沢が二歩進んでから振り返る。
「何?」
「止まってください」
「だから止まってる」
「喋らないで」
静寂。
入口方向から、夜の虫の声がわずかに届いている。
天井から水滴。
ぽた。
遠くで、
ぽた。
それだけ。
「何かいた?」
「足音が」
「俺のじゃなくて?」
「一つ多かった気がします」
唐沢はカメラへ顔を向けた。
いつもの動画なら、
「第三の足音、来ました」
と嬉しそうに言うところだ。
今日は違った。
「戻るか」
琴葉が驚く。
「え?」
「今日は確認だけでいい」
「唐沢さんがそんなこと言うんですか」
「俺だって危ないと思えば帰るよ」
嘘だ。
琴葉は六年一緒に仕事をしている。
唐沢は怖がりではない。
むしろ恐怖を感じると、確認せずにはいられない性格だ。
だからこそ、今の反応がおかしい。
「何か知ってます?」
「何を」
「ここについて」
唐沢が答える前に。
声がした。
「……ねえ」
子ども。
琴葉の身体が固まった。
声はトンネルの奥から聞こえた。
女の子だろうか。
幼い声。
「唐沢さん」
「聞こえた」
「誰かいます」
唐沢がライトを奥へ向ける。
光の先にはコンクリートの壁と、黒い道。
誰もいない。
「おーい!」
唐沢が叫ぶ。
琴葉が腕を掴んだ。
「やめてください!」
「子どもがいたらまずいだろ」
「こんな時間にいるわけ――」
「だからいたらまずいんだよ」
もっともらしい。
だが唐沢の声がわずかに震えていた。
「誰かいるのか!」
返事はない。
唐沢がライトを動かす。
右の壁。
左の壁。
天井。
何もない。
その瞬間だった。
「……たけと」
二人とも動かなかった。
琴葉は、聞き間違いだと思った。
いや。
思いたかった。
もう一度。
「たけと」
今度ははっきり聞こえた。
唐沢の顔から表情が消えた。
「唐沢さん」
「撮れてる?」
「え?」
「今の。撮れてるか」
琴葉は慌ててモニターを見る。
録画ランプ。
動いている。
「撮れてます」
「十秒くらい切り出して上げろ」
「今ですか?」
「何かあったときのために残しとく」
その言い方が嫌だった。
琴葉はスマートフォンへ音声だけ転送し、短いファイルとして投稿した。
通信状態が悪い。
送信中。
しばらくして完了表示。
「上がりました」
「よし」
唐沢は入口へ向き直った。
「帰るぞ」
今度こそ本気だった。
二人は来た道を戻り始める。
百メートル。
二百メートル。
琴葉がおかしいと気づいたのは、そのくらい歩いた頃だった。
「唐沢さん」
「何」
「入口、あんなに遠かったですか?」
唐沢も止まった。
入ってから十数分。
途中で立ち止まっている時間の方が長い。
それほど奥へ来たはずがない。
だが入口は、
見えなかった。
後ろを見る。
同じ。
どちらを向いても、
闇。
「方向、合ってます?」
「一本道だぞ」
「でも――」
カン。
金属音。
二人が同時に振り返る。
唐沢のライトが揺れた。
「今の……」
琴葉が呟く。
唐沢は返事をしなかった。
カン。
二回目。
一回目より近い。
琴葉は喉の奥が狭くなるのを感じた。
「走りましょう」
「待て」
「何で」
唐沢が耳を澄ませる。
その顔を見て、琴葉は気づいた。
彼が待っている。
何かを。
三回目を。
「唐沢さん」
「静かに」
「何を知ってるんですか」
唐沢は答えない。
代わりに。
暗闇の奥から、
子どもの声。
「たけと」
近い。
さっきより。
明らかに近い。
「返事しないでください」
琴葉は反射的に言った。
匿名アカウントのコメント。
《入ったら、名前を呼ばれても返事をしないで》
唐沢が小さく息を吐く。
そのとき、
声が変わった。
子どもではない。
低い。
女とも男とも分からない。
それが、
唐沢のすぐ後ろから囁いた。
「八年前のこと、覚えてる?」
唐沢の顔が凍った。
琴葉は聞いた。
「八年前?」
唐沢が振り返る。
誰もいない。
そして。
カン。
三回目。
照明が消えた。




