第5話 十三年前の失踪者
「警察は、心霊スポットという言葉に弱いんですよ」
男はコーヒーを飲みながら言った。
「怖いから?」
鳴瀬千尋が返す。
「違います」
男は笑った。
「安心するからです」
午後七時。
県警本部から少し離れた喫茶店。
向かいに座っているのは、波多野朔。
四十一歳。
元新聞記者。
現在は失踪者調査を専門にする民間調査員。
「幽霊の話が出た時点で、事件が一段下に見える」
「ずいぶん警察に失礼ね」
「元記者なので」
「便利な言葉ですね」
波多野はまたコーヒーを飲む。
千尋は最初、この男と会うつもりはなかった。
だが波多野から送られてきたメールに、
無視できない一文があった。
《霞ヶ瀬で消えたのは、今回が初めてではありません》
「根拠は?」
千尋が聞く。
波多野は封筒を机の上へ置いた。
中にはコピー資料。
新聞記事。
行方不明者届。
ネット上の古い書き込み。
「霞ヶ瀬療養館周辺で、過去十三年間に四人」
千尋が一枚ずつ見る。
十九歳男性。
三十二歳女性。
四十四歳男性。
二十六歳女性。
「全員、未解決?」
「一人は後に県外で生存確認されています。残り三人は不明」
「それだけで今回と関連があるとは言えない」
「そうですね」
波多野はあっさり認めた。
「だから戸鳴も調べました」
別の資料。
「五人」
次。
「八汐レイクホテル周辺。六人」
千尋が顔を上げる。
「十五人?」
「重複や自発的失踪の可能性が高いものを除くと、十一人」
「警察記録をどうやって」
「公開情報と家族への取材です。詳細な警察情報は持ってません」
「家族?」
「私はそういう仕事なので」
千尋は資料を見る。
確かに、それぞれ単独なら不自然ではない。
家出。
遭難。
借金。
家庭問題。
事故の可能性。
だが三地点を並べると、印象が変わる。
「何でこの三つを?」
「怪談です」
「怪談?」
「霞ヶ瀬、戸鳴、八汐。三つとも、この十五年ほどで急に有名になった」
千尋は昼間見た茉莉の研究データを思い出した。
怪談が少しずつ増えている。
「前は無名だった?」
「少なくとも今ほどではありません」
波多野はスマートフォンを取り出した。
「この手の場所って、昔から有名だったと思われがちなんですよ。でも実際に古い新聞や郷土資料を調べると、何も出てこないことがある」
「つまり?」
「幽霊が出るようになったんじゃない」
波多野は言った。
「怪談が作られたんです」
千尋は目を細めた。
「誰かが意図的に?」
「そこまでは言ってません」
「言ってるようなものじゃない」
「元記者なので断定は避けます」
二度目だった。
少し腹が立つ。
だが、この男が持っている情報は無視できない。
「あなたは何を調べてるの?」
「十三年前に消えた人間です」
「誰?」
波多野が一枚の写真を出した。
三十歳前後の男性。
「私の兄です」
千尋は写真を見る。
「霞ヶ瀬?」
「いいえ。戸鳴隧道」
波多野の表情から笑みが消えた。
「車だけ残っていました」
「警察の判断は?」
「自発的失踪」
千尋は何も言わなかった。
「だから」
波多野が続ける。
「私は幽霊を信じてません」
「そう」
「でも怪談は信じています」
千尋が顔を上げる。
「意味が違います。幽霊が実在するという意味じゃない」
波多野は資料を指で叩いた。
「怪談には、誰かが広めた理由がある」
店内に食器の音が響いた。
千尋はしばらく黙っていた。
「一つ聞くけど」
「どうぞ」
「鴻上志乃を知ってる?」
波多野の目がわずかに動いた。
「霊視者の?」
「そう」
「名前だけ」
「本当に?」
「なぜ疑うんです」
「仕事だから」
波多野は笑った。
「相性悪そうですね、私たち」
「安心して。あなたの印象はどうでもいい」
店を出る。
午後八時を過ぎていた。
スマートフォンを見る。
折原から不在着信が三件。
嫌な予感がした。
すぐに折り返す。
『鳴瀬さん』
「どうした」
『唐沢岳人と連絡が取れました』
「止められた?」
数秒、沈黙。
『それが……』
「何」
『もう向かってます』
千尋は立ち止まった。
「どこへ」
聞くまでもない。
だが折原は答えた。
『戸鳴隧道です』
「位置は?」
『スタッフ一人と一緒です。動画配信はしてません。でもSNSに写真が上がってます』
千尋は通話したまま車へ急ぐ。
「最寄りの署へ連絡。入口を押さえて」
『はい。ただ……』
「まだ何かある?」
『投稿された写真なんですが』
折原から画像が届く。
開く。
暗いトンネル。
入口前に立つ唐沢岳人。
その隣に女性スタッフ。
藤枝琴葉。
唐沢は笑っている。
投稿文。
《例の情報、本当か確かめてきます》
その下に時刻。
午後八時十二分。
千尋は腕時計を見る。
八時十九分。
「七分前……」
『鳴瀬さん』
「何?」
折原の声が低くなった。
『コメント欄に、またあのアカウントが』
画面を下へ動かす。
名前なし。
アイコンなし。
一件だけ。
《入ったら、名前を呼ばれても返事をしないで》
千尋は車のドアを開けた。
その瞬間。
唐沢の投稿が更新された。
動画ではない。
音声ファイル。
長さ、
十一秒。
再生する。
ザーッ。
トンネル内の風。
足音。
唐沢の声。
『何だよこれ』
続いて、
女の声。
藤枝琴葉だろう。
『今、聞こえました?』
沈黙。
そして。
暗い場所から聞こえる、
幼い子どものような声。
『……たけと』
音声はそこで途切れた。
千尋は再生画面を見つめた。
唐沢岳人。
その読みは、
たけと。
偶然ではない。
誰かが、
彼の名前を知っている。
千尋はエンジンをかけた。
そのときにはまだ、
唐沢岳人という名前が、
八年前に自分が関わった失踪事件の記録に残されていたことを、
思い出してはいなかった。




