第37話 返してほしいもの
唐沢岳人が拘束されていたのは、
浜梨配送センターから車で十五分ほど離れた旧整備工場だった。
警察が踏み込んだとき、
唐沢は事務所奥の椅子に座っていた。
両手は自由。
扉にも鍵はかかっていなかった。
逃げようと思えば、
逃げられたように見える。
ただ、
外へ出れば組織側に見つかると聞かされていたらしい。
「警察……」
千尋を見た瞬間、
唐沢の顔が崩れた。
「助けてください」
頬に傷。
右目の周囲が腫れている。
「誰にやられた?」
「分からない」
「絵麻さん?」
唐沢の顔が止まった。
その反応だけで、
知っていると分かる。
「秋庭絵麻さんです」
千尋が言う。
唐沢は目を伏せた。
「生きてたんですね」
「知ってた?」
首を振る。
「最初は」
「最初は?」
「戸鳴で声を聞いたとき」
唐沢は膝の上で手を握った。
「もしかしたらって」
千尋の後ろ。
少し離れた場所に絵麻がいる。
唐沢からは見えない位置。
千尋はあえて知らせなかった。
「メモリーカードは警察が回収した」
唐沢が顔を上げる。
「……そうですか」
「絵麻さんは、それを返してほしいわけじゃなかった」
唐沢の目が泳ぐ。
「何の話ですか」
「あなたなら分かるでしょう」
「分かりません」
「八年前」
「全部カードに入ってます」
「全部?」
唐沢は黙る。
千尋は椅子を引き、
正面に座った。
「秋庭絵麻さんは、自分から車に乗った」
「……」
「あなたはそう証言した」
「脅されたんです」
「知ってる」
「断ったら俺も」
「それも分かってる」
唐沢の声が大きくなる。
「じゃあ!」
「私が聞いてるのはその前」
唐沢が止まる。
千尋は静かに続けた。
「絵麻さんが車に乗せられる直前」
顔色が変わる。
そこだった。
「何があった?」
「何も」
「唐沢さん」
「何もありません」
「八年前の警察にもそう言った?」
「……」
「今度も?」
唐沢は俯いた。
「怖かったんです」
「何が」
「全部」
声が掠れる。
「夜中に知らない男が女の人を押さえてて。トラックがあって。俺、ただのバイトですよ」
「それで見てた」
唐沢の肩が震えた。
「何もできなかった」
「絵麻さんと目は合った?」
答えない。
千尋はもう一度聞く。
「合った?」
唐沢の目から、
涙が落ちた。
「……はい」
後ろで、
誰かが息を呑む気配。
絵麻。
千尋は振り返らなかった。
「何か言われた?」
唐沢が顔を覆う。
長い時間。
やがて、
手の間から声。
「警察を呼んでって」
静かな事務所に、
その言葉だけが残った。
「聞こえた?」
「聞こえました」
「はっきり?」
「はい」
唐沢は泣きながら頷いた。
「俺の方見て」
呼吸が乱れる。
「『警察を呼んで』って」
千尋は黙って待った。
「でも俺」
「呼ばなかった」
「動けなかったんです」
それは、
理解できなくもない。
知らない犯罪者。
夜。
一人。
恐怖。
身体が動かなくなる人間はいくらでもいる。
千尋は責めなかった。
まだ。
「そのあと?」
「男に見つかって」
「カードを出せと言われた」
「はい」
「別のカードを渡した?」
唐沢が頷く。
「本物は靴の中に隠しました」
だから、
残った。
「翌日」
千尋が言う。
唐沢の顔が歪む。
「警察が来た」
「はい」
「そのときは?」
「……」
「もう犯罪者は目の前にいなかった」
「連絡先を渡されてたんです」
「脅されてた?」
「俺の住所も家族も知ってるって」
「それで嘘をついた」
「はい」
「金も受け取った」
「断れなかった」
千尋はそこで初めて声を強めた。
「全部、断れなかった?」
唐沢が顔を上げる。
「八年間も?」
「……」
「証拠を持ってた」
「怖かった」
「警察に匿名で送ることもできた」
「できませんでした」
「動画配信はできた」
唐沢の顔が固まる。
「心霊スポットへ行って、怪談を使って金を稼った」
「それは」
「人工だと知っていた場所もあったでしょう」
答えない。
「あなたが悪い人間だから動けなかった、とは思わない」
千尋は言った。
「最初の夜は」
唐沢が顔を上げる。
「でも」
千尋は視線を逸らさない。
「そのあと何千回も、やり直す機会はあった」
唐沢の涙が止まらない。
「俺は」
言葉が切れる。
「俺が消したんです」
「何を?」
唐沢は長い間、
答えられなかった。
やがて、
小さな声。
「秋庭絵麻が」
喉を詰まらせる。
「助けを求めてたってことを」
背後で、
足音。
絵麻が姿を現した。
唐沢の顔から血の気が引く。
「……秋庭さん」
絵麻は彼を見た。
怒っていない。
そのことが、
かえって唐沢を怯えさせた。
「返して」
絵麻が言う。
戸鳴隧道。
赤い靴。
あの言葉。
唐沢は泣きながら頷く。
「はい」
「警察に」
「話します」
「私が自分で消えたんじゃないって」
「はい」
「母にも」
唐沢が何度も頷く。
絵麻はそれ以上何も言わなかった。
復讐の言葉も。
罵倒も。
ただ、
肩から力が抜けた。
千尋はその顔を見て、
ようやく分かった。
絵麻が返してほしかったものは、
証拠ではない。
八年前、
誰かに奪われた、
自分自身の真実だった。




