第36話 五人
霞ヶ瀬療養館のサービス通路に響いた三回目の金属音は、低く、長く残った。
誰もすぐには動けなかった。
「絵麻」
暗闇から聞こえた声。
確かに、三人とも聞いている。
鳴瀬千尋はライトを奥へ向けた。
狭い通路。
古い配管。
剥がれかけた壁。
人影はない。
「誰かいる!」
折原が声を張った。
返事はなかった。
秋庭絵麻は壁に背をつけ、浅い呼吸を繰り返している。
さっきまでの落ち着きが消えていた。
「あなたの仕掛けじゃないの?」
千尋が聞く。
絵麻は首を振った。
「違います」
「じゃあ、誰」
「分かりません」
「ここを使ってた人間は?」
「今はいません」
「今は?」
絵麻が黙る。
千尋は一歩近づいた。
「五人の場所を教えて」
「……」
「今すぐ」
絵麻は千尋を見た。
「約束してもらえますか」
「何を」
「見つけたら、最初に五人を出してください」
「当たり前でしょ」
「零号線の人間がいても、追わないで」
「状況による」
「追ったら間に合わない」
千尋の目が細くなる。
「何が?」
「移送です」
その一言で空気が変わった。
「どこ」
絵麻はしばらく迷ってから答えた。
「旧・浜梨配送センター」
折原がすぐ無線を取る。
「場所を確認します」
絵麻が続ける。
「正面から入らないでください。道路側には見張りがあります」
「まだ組織が使ってる?」
「一部は」
「五人を置いたのはあなた?」
絵麻は答えない。
千尋は声を強めた。
「今は説明より命が先。何階?」
「地下」
「入口」
「南側の荷捌き場。二番シャッターの横に管理用扉があります」
折原が無線で情報を流す。
県警本部。
現場班。
次々と返答。
浜梨配送センターは二年前に閉鎖。
だが土地の名義は、北辰環境輸送の関連会社。
また一つ。
零号線。
「移送はいつ?」
千尋が聞く。
絵麻は腕時計を見た。
「予定通りなら、二十三時四十分」
千尋も時計を見る。
二十二時五十七分。
四十三分。
「車出して」
折原が走る。
千尋は絵麻を見る。
「あなたも来る」
「私が行けば」
「逃がさないため」
「逃げません」
「信用できると思う?」
少しの沈黙。
絵麻は小さく頷いた。
「思いません」
その言い方に、
千尋は返す言葉がなかった。
浜梨配送センターは海から数キロ入った工業地帯にあった。
巨大な建物なのに、
周囲は暗い。
街灯も少ない。
閉鎖された倉庫など、夜になれば誰も気に留めない。
だからこそ使われてきたのだろう。
捜査員は正面を避け、
南側から進入した。
千尋、折原。
その後ろに絵麻。
手錠はまだしていない。
ただし捜査員二人が両脇についている。
「二番」
絵麻が指す。
錆びたシャッター。
横。
金属扉。
「暗証番号は?」
「変わってなければ」
数字を四つ。
扉が開く。
折原が絵麻を見る。
「よく覚えてますね」
「忘れられないんです」
短い返事。
中。
古い事務所。
机。
棚。
その奥に地下階段。
降りるほど空気が冷たくなる。
「止まって」
絵麻が突然言った。
千尋が手を上げる。
全員停止。
「何」
「向こう」
廊下の先。
耳を澄ます。
低い音。
エンジン。
「車?」
「搬送用です」
千尋は無線で別班へ指示を出す。
出口を押さえる。
だが、
追跡より五人。
絵麻との約束ではない。
警察として当然の優先順位だった。
地下の最奥。
金属扉。
鍵。
絵麻が番号を入力する。
エラー。
「変わってる」
「下がって」
捜査員が工具を使う。
時間がかかる。
中から、
かすかな音。
「……誰か」
女の声。
折原が扉を叩く。
「警察です! 聞こえますか!」
今度は複数の声。
「助けて!」
「ここです!」
生きている。
千尋の胸が一気に熱くなる。
「急いで!」
金属が歪む。
隙間。
さらにこじ開ける。
扉が開いた。
薄暗い部屋。
簡易ベッド。
水。
五人。
新堂茉莉。
平尾航。
藤枝琴葉。
江口壮真。
朝比奈由莉。
全員いる。
「警察です」
その言葉を、
千尋は今まで何度言ったか分からない。
でも、
こんなに重く感じたのは久しぶりだった。
茉莉が泣いた。
琴葉は座ったまま動けない。
壮真は由莉の肩を抱いている。
航は立とうとして、
膝から崩れた。
「救急!」
千尋が叫ぶ。
五人とも衰弱。
航だけ状態が悪い。
発熱。
脱水。
腕に感染症らしき腫れ。
「意識落ちてます!」
救急隊が入る。
ストレッチャー。
「平尾さん!」
呼びかけ。
反応が弱い。
絵麻は少し離れた場所から見ていた。
顔が青ざめている。
千尋は彼女を見る。
「これが」
絵麻は目を逸らさない。
「あなたの言ってた『大丈夫』?」
「……」
「全員助けられる計算だった?」
絵麻の唇が震える。
「ここまで悪くなるとは」
「人間は計算通りに弱らない」
「分かっています」
「分かってなかったからこうなった」
絵麻は何も言えない。
救急隊が航を運び出す。
そのとき、
遠くでエンジン音が大きくなった。
「車、動きます!」
無線。
千尋が一瞬そちらを見る。
絵麻が言った。
「追わないで」
「別班が行く」
「まだ終わってない」
「何が」
絵麻は廊下の奥を見る。
「唐沢がいません」
そうだった。
五人。
全員いる。
一人だけ。
唐沢岳人。
「どこ」
千尋が聞く。
「別の場所です」
「あなたが移した?」
絵麻は頷いた。
初めて、
はっきりと。
「はい」
「場所」
「言います」
「今」
「ただ」
絵麻は千尋を見る。
「彼には、先に話してもらいます」
「何を」
「八年前」
千尋は答えなかった。
絵麻が何を求めているのか、
ようやく少し見え始めていた。




