第35話 秋庭絵麻さん
夜の霞ヶ瀬療養館は、
最初に来たときより静かだった。
人工的な仕掛けは、
ほとんど警察が撤去している。
白い女を作った防護服もない。
遠隔照明もない。
それでも、
建物は暗い。
それだけで十分だった。
「単独では行かせません」
折原が言った。
「分かってる」
周囲には捜査員。
だが、
建物へ入るのは千尋と折原。
志乃――秋庭絵麻が何を考えているのか分からない。
六人。
いや、
五人の居場所。
唐沢。
零号線。
まだ聞くことが多すぎる。
玄関。
ライト。
廊下。
足音だけが響く。
三階へ。
あの窓。
一つ。
二つ。
三つ。
白い女はいない。
当然だ。
「どこですかね」
折原が小声で言う。
千尋は答えない。
サービス通路。
最初に見つけた図面にない道。
中へ。
暗い。
狭い。
その奥。
人影。
「警察です」
折原が声を出す。
人影は動かない。
千尋がライトを向ける。
鴻上志乃。
いや。
もう、
その名前では呼べなかった。
グレーのシャツ。
黒いパンツ。
最初に会ったときと、
よく似た服装。
志乃は眩しそうに目を細めた。
「来ましたね」
「電話をしたのはあなた?」
「はい」
折原が一歩前へ。
「その場から動かないでください」
志乃は従った。
逃げる様子がない。
千尋が見る。
顔。
八年前の写真とは違う。
それでも、
もう別人には見えなかった。
「名前を確認します」
千尋が言う。
「鴻上志乃です」
「違う」
初めて、
志乃の目が揺れた。
「秋庭絵麻さん」
沈黙。
サービス通路の中に、
遠くの水滴の音だけが響く。
「DNAを調べました」
志乃は目を伏せる。
「あなたの部屋から採取したものと、秋庭絵麻さんの母親」
一拍。
「親子関係が極めて高い確率で認められた」
志乃は何も言わない。
「八年前」
千尋は続けた。
「あなたは八汐レイクホテルで何かを見た」
「……」
「零号線に運ばれた」
「……」
「生きていた」
志乃の肩が、
ほんの少し下がる。
「どうして」
千尋の声が揺れそうになる。
押さえる。
「どうして警察に来なかった」
志乃が顔を上げた。
その目。
怒っているわけではない。
泣いてもいない。
ただ、
疲れていた。
「行きましたよ」
千尋は息を止める。
「いつ」
「逃げたあと」
「半年前?」
志乃が頷く。
「県外の警察署へ」
「何て」
「名前を言いました。秋庭絵麻ですって」
「それで?」
「本人確認ができないと言われました」
千尋は何も言えない。
「当たり前ですよね」
志乃が笑う。
乾いた笑い。
「免許証もない。保険証もない。八年間、違う名前で生きていた」
「家族に連絡すれば」
「できませんでした」
「なぜ」
志乃の表情が変わる。
「怖かったから」
「何が」
「私が生きていると知られることが」
零号線。
組織。
志乃は、
長い間その中にいた。
「それでも」
千尋が言う。
「私たちに連絡する方法はあった」
「八年前も?」
言葉が刺さる。
「八年前も警察はいましたよね」
千尋は黙る。
「私は消えた」
志乃が続ける。
「警察は探した」
「……」
「そして」
少し間。
「やめた」
折原が口を挟もうとする。
千尋が手で止めた。
これは、
自分が聞くべき言葉だった。
「私も捜査に関わってた」
「知ってます」
「いつから」
「最初から」
千尋の目が鋭くなる。
「だから私を?」
志乃は答えない。
「六人を消して、私を捜査に引き込んだ?」
沈黙。
「三つの場所を使った?」
沈黙。
「四十八時間おきに?」
志乃がゆっくり息を吐く。
「鳴瀬さん」
「何」
「まだ、私を犯人だと思わないでください」
千尋は眉を寄せる。
「この状況で?」
「私がやったことはあります」
「何を」
「言います」
「全部?」
「できるだけ」
「六人はどこ?」
志乃の表情が硬くなる。
「だから」
「それが先」
千尋は一歩近づいた。
「新堂茉莉。平尾航。藤枝琴葉。江口壮真。朝比奈由莉」
一人ずつ、
名前を言う。
「この五人はどこ?」
志乃が目を閉じる。
「生きています」
「場所」
「今は」
「今はじゃない!」
声が通路に響いた。
志乃が目を開ける。
「あなたが何をされたかは調べる」
千尋は言う。
「八年前、あなたを見つけられなかったことも」
喉が詰まる。
それでも続ける。
「私が背負う」
志乃の目が僅かに揺れた。
「でも」
千尋は視線を逸らさない。
「だからって、今度はあなたが誰かを消していい理由にはならない」
長い沈黙。
志乃の唇が震えた。
初めて。
本当に泣きそうな顔をした。
けれど涙は落ちなかった。
「分かってます」
「なら場所を言って」
「その前に一つだけ」
「何」
「唐沢岳人は」
志乃が言った。
「五人とは別です」
「知ってる」
「違います」
「何が」
志乃は千尋を見た。
「彼だけは、私が返してほしいものがある」
「メモリーカードなら警察が回収した」
「カードじゃありません」
千尋の眉が寄る。
「じゃあ何」
志乃が答えようとしたとき。
奥。
サービス通路のさらに向こう。
カン。
一回。
志乃の顔色が変わった。
「誰かいる?」
折原がライトを向ける。
誰もいない。
カン。
二回目。
志乃が後ずさる。
「違う」
小さく呟く。
「何が?」
千尋が聞く。
「私は鳴らしてない」
三回目を待つ。
誰も息をしない。
来ない。
志乃が壁を見る。
顔には、
明らかな恐怖。
千尋はそれを見た。
犯人が、
自分で仕掛けた音を聞いた顔ではなかった。
その瞬間。
志乃の背後。
暗闇の奥から、
小さな女の声がした。
「絵麻」
志乃が振り返る。
誰もいない。
折原も聞いていた。
千尋も。
志乃だけではない。
もう一度。
今度は、
少し近く。
「絵麻」
志乃の唇が震える。
「……やめて」
誰に言ったのか。
そして。
カン。
三回目。
通路の奥で、
重い何かが閉まった。




