第33話 半年前からいる人
鴻上志乃という人物は、
書類上では存在していた。
戸籍。
住民票。
運転免許証。
健康保険。
銀行口座。
どれも偽物ではない。
「じゃあ本人じゃないですか」
折原が言う。
「そう簡単なら助かる」
問題は、
生活の痕跡だった。
三十六歳。
普通なら、
三十六年分の生活がある。
学校。
仕事。
病院。
住所。
友人。
買い物。
写真。
何かしら残る。
志乃には、
それが極端に少ない。
「戸籍上の出生地」
地方の小さな町。
幼少期。
母親は早くに死亡。
父親も十年前に死亡。
一人っ子。
親族ほぼなし。
「都合が良すぎる」
折原が呟く。
「言い方」
「すみません」
小学校。
記録あり。
中学校。
あり。
高校。
卒業。
しかし、
同級生へ聞き込みをすると、
妙な反応が返る。
《そんな名前、いたかな》
《聞いた気はする》
《写真見ても分からない》
卒業アルバム。
鴻上志乃。
確かに名前はある。
写真もある。
だが、
目の前にいる志乃とは似ていない。
「完全に別人」
折原が言う。
「戸籍を使ってる?」
「可能性が上がった」
本来の鴻上志乃。
二十代前半で海外へ出た記録。
その後、
帰国記録はある。
だが足取りが曖昧。
そして半年前、
現在の志乃がその名前で生活を始める。
「本物の鴻上志乃は?」
「捜してます」
海外で死亡。
行方不明。
あるいは、
名前を貸した。
いくつも可能性がある。
その日の午後。
一つ情報が入る。
鴻上志乃名義の口座。
半年前。
突然まとまった現金が入金されている。
入金元。
現金振込。
追跡困難。
その金で、
マンション。
携帯電話。
最低限の生活用品。
まるで。
「新しく生活を始めた」
折原が言った。
千尋も同じことを考えていた。
その夜。
志乃の部屋について捜索令状が出た。
扉を開ける。
室内は、
驚くほど物が少ない。
テーブル。
椅子。
布団。
小さな冷蔵庫。
服。
本。
テレビなし。
写真なし。
飾りなし。
誰かの家というより、
仮住まい。
「霊視者の道具もないですね」
数珠。
御札。
祭壇。
そういったものは一つもない。
「本当に霊視者?」
折原が言う。
千尋は答えなかった。
本棚。
失踪事件。
心理学。
建築。
都市伝説。
古い施設図面。
そして、
音響設備の専門書。
折原の表情が変わる。
「これは……」
さらに、
小さな工具箱。
配線。
テスター。
電子工作に使う部品。
「知識はある」
千尋が言う。
「怪異を作れるくらい?」
「まだ分からない」
引き出し。
ほとんど空。
一番下。
古い鍵。
プレート。
《八汐 管理》
折原が息を呑む。
「これだけでも十分怪しい」
「いつ手に入れたか調べる」
クローゼット。
服。
一番奥。
段ボール。
中には、
古い紙。
ネット掲示板を印刷したもの。
霞ヶ瀬。
戸鳴。
八汐。
怪談の書き込み。
年代順。
新堂茉莉が研究していたものとほぼ同じ。
ただし。
余白に、
手書きの訂正がある。
《これは違う》
《実際は二階》
《この頃にはまだ電話は使っていない》
実際。
千尋はその言葉に引っかかった。
「何で分かる?」
折原も同じ箇所を見ていた。
怪談を研究しただけなら、
「噂では違う」
と書くはずだ。
《実際は》
その場所を知っている人間の言葉。
さらに紙をめくる。
八年前。
日付。
八汐。
手書き。
《三回》
その横に、
ぐしゃぐしゃに塗り潰された文字。
光に透かす。
完全には読めない。
だが、
最初の一文字。
「絵」
折原が呟いた。
千尋の胸が鳴る。
紙を証拠袋へ。
そのとき。
寝室側から声。
「鳴瀬さん」
捜査員が呼ぶ。
ベッド下。
薄い封筒。
中に、
古い写真。
四人の若い女性。
大学生くらい。
場所は、
どこかの喫茶店。
裏面。
日付。
十年以上前。
名前。
三人。
そして、
一人だけ。
秋庭絵麻
千尋は写真を見る。
若い秋庭絵麻。
今より少しふっくらしている。
笑っている。
そして、
その右手。
左の親指を、
握っていた。




