第2話 残された車
「二人?」
「はい」
鳴瀬千尋は車を降りながら聞き返した。
「大学生の男女です。昨夜から連絡がつかないと家族から通報。男子学生の車が見つかったのが今朝六時四十分」
若い刑事の折原が資料をめくる。
朝八時を少し過ぎた山の中は、八月だというのに妙に冷えていた。
目の前には、古びた四階建ての建物。
旧・霞ヶ瀬療養館。
正面の壁には蔦が張りつき、窓のほとんどが割れている。
黄色い立入禁止テープの向こうには、既に鑑識が入っていた。
「肝試し?」
「その可能性が高いようです」
「可能性?」
「車内にライト、予備電池、飲み物。それと心霊スポットについて印刷した紙」
「なるほど」
千尋は建物を見上げた。
三階。
窓がいくつも並んでいる。
「あそこに女が出るらしいですよ」
折原が言った。
千尋は横目で見る。
「朝から楽しそうね」
「いえ、別に信じてません」
「聞いてない」
折原が黙る。
千尋は捜査一課に来て十二年になる。
幽霊が人を殺した事件は、一件も見たことがない。
人を殺すのは人間だ。
人が消える理由も、多くの場合は人間にある。
ただ――。
今回の現場には、最初から妙なものがあった。
二人の車は建物の裏手に停められていた。
鍵はかかっていない。
財布。
学生証。
モバイルバッテリー。
上着。
飲みかけのペットボトル。
新堂茉莉のスマートフォン。
すべて残されている。
「男子学生のスマホは?」
「ありません」
「財布は?」
「車内です」
「靴は?」
折原が一瞬戸惑った。
「靴?」
「消えた人間が自分の意思でどこかへ行ったのか、連れていかれたのか。そういう細かいところから見るの」
「はい。二人とも履いていると思われます」
「足跡は?」
「建物まで確認できています。ただ、内部が埃と瓦礫だらけで」
千尋は車内を覗いた。
助手席。
茉莉のスマートフォンが透明の証拠袋へ入れられている。
画面には通知が大量に残っていた。
母親。
友人。
大学。
午前二時を過ぎたあたりから、連絡が集中している。
「最後に誰かと連絡してる?」
「メッセージアプリを確認中です」
「家族は?」
「現場へ向かっているそうです」
千尋は建物へ歩いた。
古い玄関。
割れた自動ドア。
内部へ一歩入る。
匂いが変わった。
湿気。
埃。
古い木材。
それに、微かな薬品のような臭い。
昔ここが病院だったと身体に思い出させる臭いだった。
「足元気をつけてください」
鑑識員が言った。
「何か出た?」
「今のところ血痕なし。争った痕跡なし。ただ、カメラが見つかりました」
「どこ?」
差し出された証拠袋に、一眼レフカメラが入っていた。
「受付の近くです」
「壊れてる?」
「外見上は問題ありません。映像も一部残っています」
「見られる?」
簡易端末にデータが移される。
千尋と折原は小さな画面を覗き込んだ。
暗い廊下。
若い男女の声。
『もう帰らない?』
『まだ三階にも行ってないじゃん』
映像が揺れている。
やがて三階。
窓。
白いもの。
折原が少し前のめりになる。
「これ……」
「人でしょうね」
千尋は即答した。
「でも次の映像では消えてます」
「人間なら移動する」
「かなり速いですよ」
「速い人間もいる」
折原は何も言わなかった。
映像が進む。
カン。
一回目。
千尋の眉が動いた。
さらに、
カン。
「この音」
「何でしょう」
「分からない」
最後。
カン。
映像が激しくぶれた。
入口横のガラス。
そこに白い人影。
そして映像終了。
折原が息を吐いた。
「人、ですよね」
「その質問を刑事がしない」
「すみません」
千尋は映像を戻した。
最後の一秒。
ガラスに映った白いものを停止させる。
不鮮明。
人間の輪郭には見える。
ただし、おかしな点がある。
「この位置」
「はい?」
「撮影者の真後ろにいるなら」
千尋は画面上を指で示した。
「ここに影が出るはず」
朝ではない。
夜。
光源は手持ちのライト。
その条件なら、人間が立てば何らかの影ができる。
だが映像にはなかった。
「画像処理に回して」
「はい」
そこへ鑑識員が来た。
「鳴瀬さん」
「何?」
「ちょっと見てもらえますか」
三階へ上がった。
映像にあった窓。
左端。
二つ目。
三つ目。
そして四つ目。
「ここです」
床に白いものが落ちていた。
布ではない。
薄い繊維。
千尋はしゃがむ。
「服?」
「鑑定しないと何とも。ただ普通の衣類より厚いですね」
「回収して」
立ち上がったときだった。
廊下の奥。
カン。
千尋は動きを止めた。
折原も顔を上げる。
鑑識員まで固まった。
数秒間、誰もしゃべらなかった。
「今の」
折原が言う。
千尋は廊下の奥を見た。
誰もいない。
「配管でしょう」
「でも――」
「古い建物なら音くらい鳴る」
千尋は歩き出した。
その声が、自分で思っていたより少しだけ早口だった。
一階へ戻ると、捜査員が待っていた。
「新堂茉莉のスマホ、最後のメッセージが分かりました」
「誰から?」
「匿名アカウントです」
「内容は?」
捜査員が画面を見せる。
《本当の霞ヶ瀬を知りたいなら、午前一時を過ぎてから》
その下に画像。
建物裏側の入口。
さらに、昨夜零時五十八分。
最後のメッセージ。
《窓を最後まで見ない方がいい》
千尋は数秒、画面を見つめた。
「送信元を追って」
「了解です」
スマートフォンを返そうとして、手を止める。
もう一件。
メッセージではない。
茉莉の検索履歴だった。
失踪直前。
午前一時四十七分。
《霞ヶ瀬療養館 三回 音》
検索結果は、
ゼロ件。
千尋はゆっくり顔を上げた。
三回の金属音は、
有名な怪談ではなかった。




