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『三点鐘―三回鳴る夜、人が消える―』  作者: asnt2026


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第1話 最後の窓

「ねえ、もう帰らない?」


新堂茉莉がそう言ったのは、建物へ入ってから十五分も経っていない頃だった。


平尾航はカメラを下ろし、笑った。


「まだ三階にも行ってないじゃん」


「だから帰りたいの。三階が一番やばいんでしょ」


「やばいって何が?」


「女」


茉莉は小声で言った。


その言い方がおかしくて、航はまた笑いそうになった。


だが、茉莉は笑っていなかった。


旧・霞ヶ瀬療養館。


山道を外れた先に残る、四階建ての廃療養施設。


十四年前に完全閉鎖されて以降、所有者の変更を何度か繰り返し、今では立入禁止の看板だけが新しくなり続けている。


地元では有名な心霊スポットだった。


三階の窓に白い女が出る。


それだけなら、どこにでもありそうな怪談だ。


霞ヶ瀬の話が少し違うのは、その女が移動することだった。


最初は一番端。


次に一つ隣。


また一つ隣。


そして最後の窓まで来る。


――最後まで来たとき、中にいる人間が一人消える。


「作り話だって」


航は言った。


「そういう言い方やめて」


「何が?」


「こういうところで『作り話』って言うと、フラグみたいじゃん」


「都市伝説研究してる人がフラグとか言う?」


「研究してるから嫌なの」


茉莉は大学のゼミで、ネット上の都市伝説について調べている。


同じ怪談が、時代によってどう変化するのか。


掲示板からブログへ。


ブログから動画サイトへ。


動画からSNSへ。


霞ヶ瀬療養館について調べ始めたのも、その研究の一環だった。


そして三日前、知らないアカウントからメッセージが届いた。


《本当の霞ヶ瀬を調べたいなら、午前一時を過ぎてから来るといい》


その下には、一般には知られていない裏側の入口の写真が添付されていた。


面白そうだから。


最初は、その程度の気持ちだった。


だから航も誘った。


写真が趣味の彼なら付き合ってくれると思った。


実際、付き合ってくれた。


問題は――。


「なんかさ」


茉莉が立ち止まった。


「さっきから、音しない?」


航も止まる。


二人のライトが、古い廊下を照らした。


剥がれた壁。


床に落ちた天井材。


倒れたパイプ椅子。


診察室の扉には、かろうじて読める文字で《処置室》と書かれている。


何も動いていない。


「風じゃない?」


「風ないよ」


言われてみればそうだった。


窓は割れている。


それなのに、空気が流れている感じがしない。


むしろ建物全体が、息を止めているようだった。


航はカメラを構えた。


「とりあえず三階まで行こう。撮るだけ撮って帰る」


「絶対?」


「絶対」


「四階は?」


「行かない」


「地下は?」


「行かない」


「じゃあ三階だけ」


茉莉が先に歩き出した。


階段へ近づいた、そのときだった。


カン。


二人とも止まった。


大きな音ではない。


金属の棒で、何かを軽く叩いたような音。


「……今の?」


茉莉が振り返る。


航は返事をしなかった。


どこから聞こえたのか、分からなかったからだ。


上のようにも思えた。


下のようにも聞こえた。


「配管じゃない?」


「そういうのって一回だけ鳴る?」


「知らないよ」


航は笑おうとした。


うまく笑えなかった。


階段を上がる。


二階。


さらに上がる。


三階。


廊下は一階よりも荒れていた。


奥には長い窓が並んでいる。


月明かりが差し込み、窓枠だけが白く浮かんでいた。


「あそこ」


茉莉が言った。


「何?」


「一番端」


航がライトを向ける。


窓。


割れたガラス。


何もない。


「いないじゃん」


「今いた」


「何が?」


茉莉は答えなかった。


航は窓を撮影した。


シャッター音がやけに大きく響いた。


「ほら、何も――」


「違う」


茉莉が腕を掴んだ。


「隣」


窓が並んでいる。


左端から二つ目。


そこに、


白いものがあった。


人の形に見える。


頭。


肩。


身体。


女――なのかもしれない。


背中を向けて立っている。


航は反射的にカメラを向けた。


シャッターを切る。


ライトを向ける。


何もいなかった。


「……服?」


「人だった」


「カーテンとか」


「カーテンなんか残ってないじゃん」


カン。


二回目。


今度は近かった。


二人が同時に廊下の奥を見る。


誰もいない。


航は無意識に唾を飲み込んだ。


「帰ろう」


今度は航から言った。


茉莉は返事をせず、階段へ向かった。


その途中で、また立ち止まる。


「航」


「何」


「見ないで」


「何を?」


「窓」


そう言われると、見てしまう。


三つ目。


白い女がいた。


さっきより近い。


航の喉から変な音が出た。


今度はライトを向けなかった。


走った。


二人で階段を下りる。


二階。


一階。


――のはずだった。


茉莉が先に止まった。


「……航」


「何だよ」


「ここ」


目の前に、《三階 病棟》と書かれた朽ちた案内板があった。


「は?」


「今、下りたよね?」


「二階分」


「なのに三階?」


航は階段を見上げた。


何もない。


見下ろす。


暗闇。


「別の階段なんじゃない?」


「そんなわけ――」


茉莉が言葉を止めた。


窓。


四つ目。


白い女。


顔はこちらを向いていた。


遠くて表情は見えない。


それなのに、見られていることだけは分かった。


「走れ!」


二人は階段を駆け下りた。


途中で航が振り返った。


何も追ってこない。


それなのに怖かった。


足音が二人分しか聞こえないことさえ、不自然に思えた。


一階。


今度こそ一階だった。


受付跡が見える。


玄関も見えた。


外の闇が、そのときばかりは安全なものに思えた。


あと十メートル。


茉莉が突然止まる。


航はぶつかりそうになった。


「何だよ!」


「……鳴ってない」


「何が」


茉莉の顔から血の気が引いていた。


「三回目」


航は何も言えなかった。


最初。


カン。


次。


カン。


二回。


そうだ。


二回しか聞いていない。


「だから何だよ」


声が震えた。


「別に三回鳴るなんて噂――」


そこで気づいた。


霞ヶ瀬の怪談に、金属音の話などなかった。


茉莉も同じことに気づいたらしい。


二人は顔を見合わせた。


その瞬間。


航のすぐ後ろ。


耳から数十センチしか離れていない場所で、


カン。


三回目が鳴った。


航は振り返った。


ライトの光が受付を横切る。


誰もいない。


だが。


入口横のガラスに、


白い女が映っていた。


二人の真後ろに立っていた。


そこで、


航のカメラ映像は途切れている。

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