第1話 最後の窓
「ねえ、もう帰らない?」
新堂茉莉がそう言ったのは、建物へ入ってから十五分も経っていない頃だった。
平尾航はカメラを下ろし、笑った。
「まだ三階にも行ってないじゃん」
「だから帰りたいの。三階が一番やばいんでしょ」
「やばいって何が?」
「女」
茉莉は小声で言った。
その言い方がおかしくて、航はまた笑いそうになった。
だが、茉莉は笑っていなかった。
旧・霞ヶ瀬療養館。
山道を外れた先に残る、四階建ての廃療養施設。
十四年前に完全閉鎖されて以降、所有者の変更を何度か繰り返し、今では立入禁止の看板だけが新しくなり続けている。
地元では有名な心霊スポットだった。
三階の窓に白い女が出る。
それだけなら、どこにでもありそうな怪談だ。
霞ヶ瀬の話が少し違うのは、その女が移動することだった。
最初は一番端。
次に一つ隣。
また一つ隣。
そして最後の窓まで来る。
――最後まで来たとき、中にいる人間が一人消える。
「作り話だって」
航は言った。
「そういう言い方やめて」
「何が?」
「こういうところで『作り話』って言うと、フラグみたいじゃん」
「都市伝説研究してる人がフラグとか言う?」
「研究してるから嫌なの」
茉莉は大学のゼミで、ネット上の都市伝説について調べている。
同じ怪談が、時代によってどう変化するのか。
掲示板からブログへ。
ブログから動画サイトへ。
動画からSNSへ。
霞ヶ瀬療養館について調べ始めたのも、その研究の一環だった。
そして三日前、知らないアカウントからメッセージが届いた。
《本当の霞ヶ瀬を調べたいなら、午前一時を過ぎてから来るといい》
その下には、一般には知られていない裏側の入口の写真が添付されていた。
面白そうだから。
最初は、その程度の気持ちだった。
だから航も誘った。
写真が趣味の彼なら付き合ってくれると思った。
実際、付き合ってくれた。
問題は――。
「なんかさ」
茉莉が立ち止まった。
「さっきから、音しない?」
航も止まる。
二人のライトが、古い廊下を照らした。
剥がれた壁。
床に落ちた天井材。
倒れたパイプ椅子。
診察室の扉には、かろうじて読める文字で《処置室》と書かれている。
何も動いていない。
「風じゃない?」
「風ないよ」
言われてみればそうだった。
窓は割れている。
それなのに、空気が流れている感じがしない。
むしろ建物全体が、息を止めているようだった。
航はカメラを構えた。
「とりあえず三階まで行こう。撮るだけ撮って帰る」
「絶対?」
「絶対」
「四階は?」
「行かない」
「地下は?」
「行かない」
「じゃあ三階だけ」
茉莉が先に歩き出した。
階段へ近づいた、そのときだった。
カン。
二人とも止まった。
大きな音ではない。
金属の棒で、何かを軽く叩いたような音。
「……今の?」
茉莉が振り返る。
航は返事をしなかった。
どこから聞こえたのか、分からなかったからだ。
上のようにも思えた。
下のようにも聞こえた。
「配管じゃない?」
「そういうのって一回だけ鳴る?」
「知らないよ」
航は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
階段を上がる。
二階。
さらに上がる。
三階。
廊下は一階よりも荒れていた。
奥には長い窓が並んでいる。
月明かりが差し込み、窓枠だけが白く浮かんでいた。
「あそこ」
茉莉が言った。
「何?」
「一番端」
航がライトを向ける。
窓。
割れたガラス。
何もない。
「いないじゃん」
「今いた」
「何が?」
茉莉は答えなかった。
航は窓を撮影した。
シャッター音がやけに大きく響いた。
「ほら、何も――」
「違う」
茉莉が腕を掴んだ。
「隣」
窓が並んでいる。
左端から二つ目。
そこに、
白いものがあった。
人の形に見える。
頭。
肩。
身体。
女――なのかもしれない。
背中を向けて立っている。
航は反射的にカメラを向けた。
シャッターを切る。
ライトを向ける。
何もいなかった。
「……服?」
「人だった」
「カーテンとか」
「カーテンなんか残ってないじゃん」
カン。
二回目。
今度は近かった。
二人が同時に廊下の奥を見る。
誰もいない。
航は無意識に唾を飲み込んだ。
「帰ろう」
今度は航から言った。
茉莉は返事をせず、階段へ向かった。
その途中で、また立ち止まる。
「航」
「何」
「見ないで」
「何を?」
「窓」
そう言われると、見てしまう。
三つ目。
白い女がいた。
さっきより近い。
航の喉から変な音が出た。
今度はライトを向けなかった。
走った。
二人で階段を下りる。
二階。
一階。
――のはずだった。
茉莉が先に止まった。
「……航」
「何だよ」
「ここ」
目の前に、《三階 病棟》と書かれた朽ちた案内板があった。
「は?」
「今、下りたよね?」
「二階分」
「なのに三階?」
航は階段を見上げた。
何もない。
見下ろす。
暗闇。
「別の階段なんじゃない?」
「そんなわけ――」
茉莉が言葉を止めた。
窓。
四つ目。
白い女。
顔はこちらを向いていた。
遠くて表情は見えない。
それなのに、見られていることだけは分かった。
「走れ!」
二人は階段を駆け下りた。
途中で航が振り返った。
何も追ってこない。
それなのに怖かった。
足音が二人分しか聞こえないことさえ、不自然に思えた。
一階。
今度こそ一階だった。
受付跡が見える。
玄関も見えた。
外の闇が、そのときばかりは安全なものに思えた。
あと十メートル。
茉莉が突然止まる。
航はぶつかりそうになった。
「何だよ!」
「……鳴ってない」
「何が」
茉莉の顔から血の気が引いていた。
「三回目」
航は何も言えなかった。
最初。
カン。
次。
カン。
二回。
そうだ。
二回しか聞いていない。
「だから何だよ」
声が震えた。
「別に三回鳴るなんて噂――」
そこで気づいた。
霞ヶ瀬の怪談に、金属音の話などなかった。
茉莉も同じことに気づいたらしい。
二人は顔を見合わせた。
その瞬間。
航のすぐ後ろ。
耳から数十センチしか離れていない場所で、
カン。
三回目が鳴った。
航は振り返った。
ライトの光が受付を横切る。
誰もいない。
だが。
入口横のガラスに、
白い女が映っていた。
二人の真後ろに立っていた。
そこで、
航のカメラ映像は途切れている。




