第11話 鳴ってはいけない電話
八汐レイクホテルは、湖の向こう側から見ると黒い塊にしか見えなかった。
朝比奈由莉は、車を降りる前から帰りたかった。
「壮真」
助手席から呼ぶ。
運転席の江口壮真は、スマートフォンを操作しながら顔を上げた。
「ん?」
「やっぱり、やめない?」
「ここまで来て?」
「ここまで来たから」
由莉はフロントガラスの向こうを見る。
かつては湖畔のリゾートホテルだったという。
六階建て。
正面には大きなガラス張りのロビー。
そのほとんどは割れ、残ったガラスも白く濁っている。
最上部にはホテル名の文字が残っているが、半分ほど剥がれ落ちていた。
「嫌な感じする」
「心霊スポットだからね」
「そうじゃなくて」
「何?」
由莉は答えなかった。
図書館で古い建物の資料を扱っているせいか、古い施設を見ること自体は嫌いではない。
むしろ好きな方だ。
取り壊される前の建築物。
昔の商店街。
閉鎖された駅舎。
人がいなくなっても、建物には時代の痕跡が残る。
だから壮真の怪談系ポッドキャストを手伝うようになった。
怪談そのものより、
「なぜその場所に、そんな話が生まれたのか」
を調べるのが面白かった。
八汐レイクホテルにも以前から興味があった。
だが今夜は違う。
二日前。
匿名アカウントから壮真へメッセージが届いた。
《八汐の312号室。まだ電話は鳴ります》
続いて、
《二日後の夜なら聞けます》
霞ヶ瀬。
戸鳴。
そこで起きた失踪事件は、すでにニュースになっている。
それなのに壮真は、
「だからこそ確認する価値がある」
と言った。
止められなかった。
最終的に、
一人で行かせるよりはマシだと思って同行した。
その判断が正しかったのか。
今になって分からない。
「一時間」
由莉が言った。
「一時間で帰る」
「了解」
「地下には行かない」
「はい」
「別行動しない」
「了解しました」
「電話が鳴っても出ない」
壮真が笑った。
「それは出たいな」
「帰る?」
「出ません」
車を降りる。
夜の湖は不気味なほど静かだった。
風も弱い。
ホテルへ向かう砂利道を歩く。
足音だけが響く。
正面玄関は閉鎖されている。
匿名の情報には、建物西側の従業員入口から入れると書かれていた。
由莉はそこでも引っかかった。
誰がそんなことを知っているのか。
「これ」
壮真が指す。
錆びた扉。
鍵は壊れていた。
「入るよ」
「うん」
スマートフォンで時刻を確認する。
午後九時二十一分。
由莉は家族へ位置情報を送った。
《一時間くらいで帰る》
母からすぐ返事が来る。
《危ないことしないでね》
《わかってる》
嘘ではない。
そうするつもりだった。
扉を開く。
空気が変わった。
湿った絨毯。
黴。
古い木。
湖に近いせいか、建物の中まで水の臭いがする。
壮真が小型マイクを起動する。
「記録だけ回すね」
「配信は?」
「今日はしない」
「意外」
「さすがに四人消えた直後だから」
軽い口調。
だが壮真も緊張している。
ロビーへ出る。
フロントカウンター。
埃を被ったソファ。
壁には古い観光案内。
湖上遊覧船。
花火大会。
宴会プラン。
かつてここに大勢の人がいたことが、逆に怖い。
「312って三階だよね」
「たぶん」
階段を探す。
エレベーターは当然動かない。
非常階段。
二階。
三階。
廊下には客室の扉が並んでいた。
301。
302。
303。
由莉はライトを左右へ動かす。
「待って」
「何?」
「数」
「数?」
由莉は扉を見る。
305。
306。
その先。
308。
「307がない?」
「欠番じゃない?」
「ホテルで?」
「縁起とか」
「4とか9なら分かるけど」
由莉はスマートフォンに保存していた古い平面図を開く。
図書館の郷土資料から見つけたものだ。
「昔の図面だと、307ある」
「改装したんじゃない?」
「かも」
先へ進む。
309。
310。
311。
そして。
312。
二人とも止まった。
扉は半開きだった。
「最初から?」
由莉が聞く。
「写真だと閉まってた気がする」
壮真が昨日送られてきた画像を確認する。
確かに閉じている。
由莉は喉を鳴らした。
「帰らない?」
「中だけ」
「さっきからそればっかり」
壮真が扉を押す。
ギィ、と蝶番が鳴る。
客室。
ベッド。
小さなテーブル。
壁際のテレビ台。
そして、
電話。
古いクリーム色の内線電話。
壮真が近づく。
「これだ」
「触らないで」
「分かってる」
由莉は電話線を見る。
壁へ伸びていない。
本体の後ろで切れている。
「やっぱり繋がってない」
壮真がスマートフォンで撮影する。
由莉も近づいた。
切れたコード。
間違いない。
「これで鳴ったら――」
リリリリリン。
二人が同時に身体を震わせた。
電話が鳴っている。
由莉は息を止めた。
リリリリリン。
壮真が笑った。
引きつった笑い。
「すごいな」
「触らないで」
「分かってるって」
リリリリリン。
止まる。
静かになった。
二人は顔を見合わせる。
壮真が電話の周囲を見る。
「バッテリー?」
「どこに?」
「中に仕込んでるとか」
そのとき、
また鳴った。
リリリリリン。
壮真が受話器へ手を伸ばす。
由莉が手首を掴んだ。
「出ないって言った」
「仕掛けなら確認しないと」
「警察に言えばいい」
「今ここで鳴ってるんだよ」
「だから危ないんでしょ」
壮真の手が止まる。
リリリリリン。
鳴り続ける。
由莉の胸が早鐘のように打つ。
そして突然、
止んだ。
「……行こう」
今度は壮真も頷いた。
二人で部屋を出る。
廊下へ。
その瞬間。
隣の311号室から、
リリリリリン。
由莉は立ち止まった。
「壮真」
「聞こえてる」
311号室。
閉まった扉の向こう。
電話が鳴っている。
「そんなの……」
二人は歩き出した。
早足。
310号室の前を通る。
リリリリリン。
今度は310号室。
「走るよ」
由莉が言った。
二人は走った。
309。
308。
背後で電話。
リリリリリン。
一部屋ずつ。
追ってくる。
「何これ!」
壮真が叫ぶ。
「知らない!」
307がない。
306。
そこで電話。
リリリリリン。
二人が通り過ぎるたび、
次の部屋。
次の部屋。
まるで、
何かが廊下の中を電話から電話へ移動している。
階段が見えた。
「下りる!」
壮真が先に駆け込む。
そのとき。
由莉の横。
廊下の壁に設置されていた古い館内電話が鳴った。
リリリリリン。
すぐ隣。
由莉は悲鳴を上げた。
壮真が戻る。
「行くぞ!」
二人が階段へ。
その瞬間、電話が止まった。
由莉は見るつもりなどなかった。
なのに。
受話器が、
ゆっくり持ち上がった。
誰の手もない。
数センチ。
浮く。
落ちる。
ガチャン。
由莉の身体が動かなかった。
「由莉!」
壮真に腕を引かれる。
階段を下りる。
二階。
一階。
ロビー。
玄関へ。
もう少し。
そのとき。
フロントカウンター。
そこに置かれた電話が、
鳴った。
リリリリリン。
壮真が止まる。
「無視して!」
由莉が叫ぶ。
だが壮真は動かなかった。
電話。
リリリリリン。
「壮真!」
彼はゆっくり近づいた。
「何してるの!」
「これ、何かおかしい」
「全部おかしいよ!」
「違う」
壮真が電話を見る。
「さっきの電話と違う」
由莉にも分かった。
客室電話ではない。
フロント用の大型電話機。
コードも外れている。
なのに鳴る。
壮真が受話器を取った。
「やめて!」
耳に当てる。
「……もしもし」
由莉は息を止める。
壮真の顔から、
ゆっくり表情が消えた。
「誰?」
受話器から何か聞こえている。
由莉には聞こえない。
「何て?」
壮真は答えない。
「壮真?」
やがて、
受話器から女の声が漏れた。
小さい。
しかし由莉にも聞こえた。
「次は」
一拍。
「あなた」
電話が切れた。
そして、
ホテルのどこか遠くで。
カン。
一回目の音がした。




