第10話 唐沢岳人
八年前。
唐沢岳人は、心霊配信者ではなかった。
動画投稿すら始めていない。
「これです」
折原が一枚の書類を机へ置いた。
《東央施設サービス 短期雇用者名簿》
古い資料。
その中に、
唐沢岳人。
二十八歳。
「勤務先は?」
「廃施設の警備、巡回、資材管理。主に県西部」
「具体的には」
折原がページをめくる。
霞ヶ瀬療養館。
戸鳴隧道周辺の旧道施設。
八汐レイクホテル。
三つとも。
千尋は椅子へ背を預けた。
「出来すぎてる」
「今回の三か所全部知ってたことになります」
「八年前の勤務記録は?」
「あります」
折原がもう一枚出す。
八汐レイクホテル。
八月十九日。
夜間警備補助。
唐沢岳人。
千尋の胸の奥で、
昨日から引っかかっていたものが形になりかける。
「この日」
「はい」
「失踪者、いない?」
折原が端末を操作する。
検索。
数秒。
画面に一件。
行方不明者。
女性。
二十八歳。
名前。
秋庭絵麻。
千尋の手が止まった。
記憶。
古い捜査本部。
机。
まだ若かった自分。
大量の書類。
「……知ってる」
「鳴瀬さん?」
「この事件、私いた」
折原が驚く。
「担当だったんですか」
「担当ってほどじゃない。捜査一課に来たばかりで、聞き込みと資料整理」
八年前。
秋庭絵麻。
フリーライター。
突然消息を絶った。
当時は事件性が薄いとされた。
仕事を辞める旨のメール。
口座からの現金引き出し。
駅で見つかったスマートフォン。
そして――。
「目撃者」
千尋が言った。
「何です?」
「男と車に乗ったって証言した人間がいた」
折原が資料を検索する。
数秒後。
表情が変わる。
「唐沢岳人です」
室内が静かになったように感じた。
千尋は画面を見る。
八年前の供述。
《午後十一時前後、駐車場付近で秋庭絵麻と思われる女性を目撃》
《三十代くらいの男性と会話》
《女性は自ら車両へ乗車》
《争っている様子なし》
それが、事件性を低く見る材料の一つになった。
千尋自身も読んだ。
当時。
疑わなかった。
「唐沢が嘘をついてた?」
折原が言う。
「まだ分からない」
「でも今回、八年前って言われてあれだけ反応した」
「だから調べる」
千尋は資料をめくる。
秋庭絵麻。
職業。
フリーライター。
取材テーマ。
環境問題。
不法投棄。
廃施設管理。
そして。
パソコンから見つかった未送信文章。
一文。
《あの車は、廃棄物を運んでいない》
千尋の指が止まった。
「これ」
「何です?」
「覚えてる」
八年前。
気になった。
確かに気になった。
だが上司に、
「推測のメモだろ」
と言われた。
それ以上追わなかった。
千尋は長く息を吐いた。
「唐沢は、八年前に何を見たんだろう」
折原が言う。
「今回、犯人に狙われたのは唐沢だった?」
「可能性はある」
「じゃあ藤枝琴葉は?」
「巻き添え」
「霞ヶ瀬の二人は?」
「それが説明できない」
千尋はホワイトボードを見る。
新堂茉莉。
平尾航。
唐沢岳人。
藤枝琴葉。
四人。
もし唐沢だけが標的なら、
最初の二人は何だ。
なぜわざわざ霞ヶ瀬で先に事件を起こした。
なぜ四十八時間空けた。
電話が鳴った。
折原が取る。
「はい……はい」
顔が変わる。
「鳴瀬さん」
「何」
「八汐レイクホテルです」
嫌な予感。
「何があった」
「まだ事件じゃありません」
まだ。
その言葉が一番嫌だった。
「続けて」
「SNS上で、今夜八汐に行くって投稿してる人がいます」
「何人?」
「二人」
千尋は時計を見る。
霞ヶ瀬。
一日目。
戸鳴。
三日目。
今日。
五日目。
「名前」
折原が読む。
「江口壮真、三十二歳。怪談系ポッドキャストを友人とやっています」
「もう一人」
「朝比奈由莉、三十一歳。図書館司書」
「連絡」
「江口には繋がりません。朝比奈にも」
「位置情報は?」
「家族から確認中です」
折原の端末に新しい情報。
「投稿があります」
画面を見せる。
江口壮真のアカウント。
《八汐の内線、本当にまだ鳴るらしいので確認してきます》
その下。
写真。
夜の湖。
奥に、
廃ホテル。
時刻。
二十一時十三分。
そしてコメント。
名前なし。
アイコンなし。
もう見慣れてしまった匿名アカウント。
《312号室の電話に出ないでください》
千尋は立ち上がった。
「現地へ行く」
「はい」
部屋を出ようとして、
もう一つ通知が届いた。
江口の新しい投稿。
文章はない。
写真だけ。
真っ暗なホテルの廊下。
その中央に、
古い電話機が置かれている。
電話線は、
どこにも繋がっていない。
写真が投稿された数秒後。
江口のアカウントに、
音声ファイルが一つ追加された。
千尋が再生する。
ザー。
雑音。
男の息遣い。
そして、
古いベルの音。
リリリリリン。
電話が鳴っている。
朝比奈由莉らしき声。
『……線、繋がってないよね?』
男。
『繋がってない』
もう一度。
リリリリリン。
誰かが受話器を取る。
数秒。
無音。
そして女の声。
『次は』
一拍。
『あなた』
音声終了。
折原が何も言わない。
千尋は時計を見る。
四十八時間。
また始まった。
しかも今度は、
自分たちが知っている。
事件が起きるかもしれないと、
知っている。
「絶対に間に合わせる」
千尋は走り出した。
だがその頃。
八汐レイクホテルの三階では、
誰も触れていない別の内線電話が、
すでに鳴り始めていた。




