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太陽の城

夜の闇を裂くように、馬車は走った。


 窓のない箱だった。暗く、狭く、揺れるたびに木の軋む音が骨に響く。逃走を防ぐためだろう、足首の鎖は馬車の底の金具に繋がれていた。手首は自由だったが、それは自由と呼べるものではなかった。逃げようがないと分かっているから、手だけは解いてある——そういう種類の「余裕」だ。


 ルナは暗闇の中で膝を抱え、揺れに身を任せた。

 時折、馬車の壁の向こうから風の音がした。熱い風だった。夜であるはずなのに、外の空気は昼の牢で経験したあの灼熱の名残を含んでいて、木の板越しにもその温度が伝わってくる。


 どれほど走ったのか分からなかった。体感では一刻ほど。窓がないから月の位置で時間を測ることもできず、ただ車輪の回転数と揺れの変化だけが、道の種類が変わったことを教えてくれた。石畳だ。整った、継ぎ目の均一な石畳。農道や街道のそれとは違う、金と権力で敷かれた道。


 馬車が止まった。


「着いたぞ。太陽の城だ。」

 

 扉が外から開かれた瞬間、最初に飛び込んできたのは光だった。


 松明ではなかった。魔法の灯火だ。城壁に沿って等間隔に並ぶ無数の灯りが、城の外壁を昼のように照らし出している。白い石壁が、その光を吸い込んでは跳ね返し、ルナの瞳を容赦なく灼いた。


 (……ここが、太陽の城)


馬車引きの男が馬車に繋がれていた鎖を外し、ルナを引っ張り出した。


 護衛の男に促されるまま城に入り、長い廊下を歩いた。

 廊下もまた、ルナの知らない世界だった。磨き抜かれた大理石の床は足の裏から冷たさを返してくるが、壁に触れればそこは熱を帯びている。天井の高さは森の木の(こずえ)よりも遙かに高く、その天井画には太陽を模した金箔が惜しみなく貼られていた。赤、金、琥珀(こはく)——この城にあるすべての色が、炎の色だった。


 常闇の森にはなかった色ばかりだ。銀色もなければ、闇に溶ける藍色もない。ここには、暴力的なまでに「光」しか存在しなかった。


 廊下の奥の扉が、音もなく開いた。

 

 執務室。奥に大きな窓があり、深紅の天鵞絨(てんがじゅう)のカーテンが半分引かれていた。書棚、地図、武器架け——生活の匂いではなく、戦の匂いがする部屋だった。壁に飾られた長剣が、魔法の灯火を受けて鈍い銀色に光っている。


 部屋の中央、執務机の手前に——さっきのあの男が立っていた。


 仮面は、外されていた。


 最初に目に入ったのは髪だった。燃えるような真紅。蝋燭の赤ではない。灯火の橙でもない。鍛冶場の最も熱い炎の芯のような、純度の高い深紅が、短く刈られた髪の一本一本にまで宿っていた。無造作なようでいて、その隙のなさは生まれ持った気性が削り出したもののように見えた。


 視線を下げると、オークションの壇上から見た、仮面の奥で灼いていた黄金の瞳が、今は何にも遮られずこちらへ向けられている。仮面の枠に切り取られていた時よりも、素顔のまま降り注ぐその眼差しは、さらに鋭く、さらに重かった。温かみのない光だった。太陽の光というよりも、研ぎ澄まされた金属の反射に似ていた。


 顔の造作は端正だった。しかし「美しい」と呼ぶには硬質だった。鍛え上げられた顎の線、高い鼻梁、薄く引き結ばれた唇。何かを堪えるように常に力の入った眉間の縦皺だけが、仮面では見えなかった部分だ。


 体躯は大きく、ルナの倍近い肩幅と、軍装の上からでも分かる鍛え抜かれた胸板。立っているだけで部屋の空気が圧縮されるような存在感。野の戦士のような荒々しさと、王族の揺るぎない威厳が、矛盾なく同居していた。


 けれど何よりも、数歩の距離を隔てているのに、その男の周囲だけ空気の質が違うことにルナの肌は気づいていた。暖炉の前に立つような、じわじわと皮膚の内側まで浸透してくる種類の熱。人間の体温ではありえない熱量が、彼の全身からにじみ出ていた。


「レオン・アルカード・フォン・アイゼンハルトだ」


 名乗りは短かった。声は低く、地を這うような重さがあった。


「太陽の国第一王子にして、この城の主だ。——そして、お前の主でもある」


 (太陽の、王子——)


 ルナの胸の中で、祖母の声が遠くこだました。燃えるような命の熱を与える「太陽」。おばあちゃんのお伽話の中にだけ存在していた一族が、今、目の前に立っている。真紅の髪も、金に燃える瞳も、この異常な熱も——これが太陽の一族なのだ。お伽話の中の遠い存在が、突然、圧倒的な質量を持ってルナの前に現れた。月の森から一歩も出たことのないルナにとって、それは世界の壁がひとつ砕けるような感覚だった。


 けれど、その太陽の王子が発した言葉は「お前の主」だった。


 ルナは、ただまっすぐにその黄金の瞳を見返した。


 レオンは何も言わず、執務机の引き出しから何かを取り出した。


 金属の輪だった。


 細く、精緻な装飾が施された銀色の帯。一見すると上品な首飾りにも見えるが、内側に微細な魔法陣が刻まれているのが、ルナの目には見えた。


 首輪だ。


 レオンが歩み寄ってきた。足音は驚くほど静かだった。あの体躯からは想像できない、無駄のない動き。しかし、一歩近づくたびに、彼の体温がルナの肌を撫でた。ゆっくりと溶けていくような温もりではなかった。もっと直接的な、肌を灼く一歩手前の、切実な熱。


「首を出せ」


 ルナは動かなかった。


「命令だ」


 その声は、怒りでも苛立ちでもなかった。ただ、反論を想定していない声だった。呼吸をするのと同じように、命令するのが自然な人間の声。


 ルナは顎を上げた。差し出すのではなく、見据えるために。


「——私は、人間です」

 

「あなたが私を買ったことは事実です。けれど、首輪をつけられる理由を聞く権利くらいはあるはずです」


 レオンの双眸が、ほんの一瞬だけ揺れたように見えた。あるいは灯火の加減だったかもしれない。


「大金をかけてお前を買ったんだ」

「ペットが逃げ出さないように。こちらに牙を剥かないように。——ペットには首輪をつける。当然の事だろう」

 感情の起伏を持たない声が、静かに落ちた。


 ペット。その一語が、石の壁に反響するように耳に刺さった。ルナの奥歯が、かすかに音を立てた。怒りが来た。けれどそれよりも早く、冷静さが返ってきた。今ここで怒りを顔に出すことが何をもたらすか——それだけは分かった。


「そうですか」

 声は、自分でも驚くほど凪いでいた。

「ではあなたは、大金をかけたそのペットに対して、何を求めているんですか。私に、五千枚の金貨に見合う価値があると?」


 部屋の空気が、僅かに変わった。


「……ずいぶん気の強いペットだな。」


 低く、嘲笑するような声だった。ルナの肌に得体の知れない緊張を走らせた。


「勘違いするな。お前にどれほどの価値があるかなど、俺がこれから決めることだ。五千枚の金貨など、俺にとっては取るに足らん端金にすぎない」


 レオンの指が伸びてきた。ルナが身じろぐより早く、その指先がルナの顎を捉えた。乱暴ではなかった。しかし、逃れる隙を一切与えない、静かで確かな力で、ルナの顎を持ち上げ、顔が上に向かされた。


 至近距離で、金色の瞳が降り注いでくる。


 革の手袋越しにも伝わってくる、あの異常な熱。顎の皮膚の下を、じわりと焼くような温度。常闇の森では一度も感じたことのない種類の熱が、ルナの思考の端を僅かに灼いた。


 ルナは目を逸らさなかった。


 逸らせば、負けだと思った。


「...お前、自分の立場を分かっているのか?」


「俺が今ここで、お前をどうもてあそぼうと……どう飼い殺そうと、お前には拒む権利すらない。」


「だが、あの場で下劣な豚どもに群がられ、無惨に引き裂かれるよりは、俺一人の鎖に繋がれていた方がまだ長生きできる。そう思わないか?」


「……私は、長生きするためにここへ来たわけではありません」


「ならばお前は、どんなことをされる覚悟でここにいるんだ」


 その声はひどく低かった。問いかけではなく、値踏みだった。


 ルナは、顎を掴まれたまま、静かに言葉を選んだ。

「……私は、他の捕らわれた同胞たちを助けるために捕まりました」


 指先の熱が、顎の骨に沁みてくる。それでもルナは声を揺らさなかった。


「あなたも、会場で見たはずです。私の一族が、あの場に何人いたか」


「それがどうした。ここは帝国の中心だ。法も理屈も、金と力を持つ者が決める。鎖に繋がれた無力な奴隷が、誰をどうやって助けるというんだ。お前の抱いている希望は、ただの妄想にすぎない」


レオンの言葉は、熱を帯びた指先とは裏腹に、氷のように冷たかった。


「それでも……私は『長』です。あの子たちを見捨てて、自分だけが安全な場所で生き長らえるつもりはありません」


レオンの指が、ほんの一瞬だけ止まった。

 息一つぶんの間だった。それだけで、また無表情の石壁が戻ってきた


「長、か。己の身すら守れぬ者には、空虚で無意味な肩書きだな」


嘲るような口調。——だがどこか悲哀を秘めた吐息が混じっていた。


 指が離れた。

 颯と、距離が戻る。顎に残るのは革の感触の残像と、そこだけ焦げるほど熱かった温度の記憶だけだった。


「それよりも、自分の心配をしたらどうだ?」

 声に温度はなかった。


「首を出せ。どのみちここから逃げることはできない。」


 押しつぶされるような圧倒的な圧力——

 今、この男から逃げることはできない。ルナは本能的に理解していた。

拘束されていないはずの足が、芯から床に埋められたように、動かすことができなかった。


 レオンの指が、ルナの銀髪を静かに払い除けた。革の手袋越しでも分かる、人間の体温を超えた熱。その指先が首筋に触れた瞬間、ルナは反射的に息を止めた。鍛冶場で長く熱されたものに近い温度が、頸の皮膚を直接撫でていた。


 首輪が、カチリと音を立てて閉じた。


 その瞬間——冷たさが走った。


 金属の冷たさではなかった。魔法陣が起動した、もっと深いところの冷たさだ。骨と肉の境目を這うような、身体の核に錠前を嵌められるような感覚。ルナは奥歯を噛んだ。


「お前は俺の所有物だ。俺の許可なく城を出ることは許さない。俺に逆らう行為をすれば、それ相応の罰が下る」


 レオンが言い終わった瞬間、首輪から電流が走った。


「ゔっ」

 骨の内側を焼くような衝撃が、首筋から全身へと一気に広がった。ルナの膝が、自分の意思とは無関係に折れた。


 床に膝をついた時、両手で石の床を押さえなければそのまま倒れていた。声は出なかった。出す余裕がなかった。視界の端が白く明滅し、息を吸う動作を身体が忘れるほどの、圧倒的な痛みだった。


 数秒後、電流は引いた。残ったのは、皮膚の下が焦げるような熱と、全身の痺れだけだった。ルナは肩で息をしながら、石の冷たさだけを手のひらで感じていた。


「部屋を用意してある。案内の者をつける。——今日はもう下がれ」


 背を向けられた。

 それ以上は何も言わず、レオンは窓際へ歩み去り、深紅のカーテンの向こうに視線を落とした。


 護衛の者に促され、ルナはゆっくりと立ち上がった。膝が震えていた。足が言うことを聞かなかった。


 廊下を歩きながら、首に嵌められた金属の重みが、一歩ごとに鎖骨を打った。冷たくて重い。痛みの残滓が、首筋の皮膚の下でまだ燻っていた。

 灼けるように、熱い。

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