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闇オークション

夜が来た。

体の芯に、ほんの微かな力が戻ってくる。石の壁に染みていた灼熱が、闇とともに僅かに和らぎ、呼吸が少しだけ楽になった。けれどそれは、解放の合図ではなかった。

 牢の扉が外から開かれたのは、月が中天に昇ってからだった。


 男たちが入ってきた。松明は持っていなかった。代わりに、鼻腔を刺す甘い香油の匂い。それから冷たい水を張った桶。無言のまま、ルナの身体は乱暴に洗い清められ、見知らぬ白い薄布を被せられた。銀髪は一本の糸の乱れもなく梳かれ、枷だけが手首から外された。足首の枷は残されたまま——ただし、足を引きずらない程度の鎖に付け替えられた。


 (……「商品」の仕上げ、ということね)

 屈辱に奥歯を噛み締める暇もなく、ルナは薄暗い廊下を引きずられるようにして歩かされた。石段を上がるたびに、空気の質が変わった。埃と湿気に満ちた地下から、蝋燭の灯りと香水と、むせ返るような人間の体臭が混じり合う空間へ。


 扉が開いた。

 むせ返るような香水の甘さが、壁一枚隔てた向こうから押し寄せてきた。それに混じって、脂の浮いた体臭と、酒精の匂いと、革と金属の擦れる音。金貨を弾いて確かめる高い音が、どこか遠くでカチカチと律儀に刻まれていた。


 会場は、ぬるい闇の底で蠢く欲望の坩堝(るつぼ)だった。


 仮面をつけた貴族たちが、酒杯を片手に身を寄せ合っている。金の仮面、銀の仮面、漆黒の仮面——身分と顔を隠しているはずなのに、隠しきれないものが剥き出しになっていた。仮面の切れ間から覗く目の色が、どれもこれも同じだった。品定めの目。値踏みの目。金貨で測れるものだけを見つめる、あの、ぬめるような光。


 絹が擦れる音に混じって、押し殺した笑い声が泡のように弾けては消えた。宝石を重ねた太い指が、隣の男の肩を叩く。

「おい、今夜の目玉はなんだ。相当な上物らしいぞ」  蝋燭の灯りに照らされた仮面の口元が、にやりと歪む。


 この空間に充満しているのは、人間の体温よりもなお生々しい何かだった。抑圧と贅沢と退廃が煮詰まったような、どろりとした空気。常闇の森の澄み切った夜風しか知らないルナの肺には、息を吸い込むだけで喉の奥が焼けるようだった。


 ルナの前に、別の「商品」が数人、壇上へと送り出されていった。

 月の民だった。

 暗幕の隙間から見えた、壇上に立つ黒髪の女性。うつろな瞳は何も映しておらず、人形のように両腕を垂らしている。あの蜂蜜色の瞳を、ルナは知っていた。


 「金貨五十枚からッ! さあ張った張った!」

 競り師の男が声を張り上げるたびに、会場が沸いた。六十。七十。八十。——数字が飛び交い、仮面の群衆が拍手と歓声を上げる。まるで芝居の見せ場に喝采を送るように。


 鐘が鳴らされた。落札の合図。金属音が地下劇場の壁と天井に反響し、次の「商品」が引き出されていく。百二十枚。百五十枚。特に美しい瞳を持つ娘に百五十の声が上がった時、客席が沸騰した。


 ルナの奥歯が、軋んだ。

 人ひとりの命に値札をつけ、数字が上がるたびに歓声を上げる。ここでは命が「枚数」に変わる。百五十枚で、一人の女性のすべてが——名前も、記憶も、未来も——他人の掌に収まる。


 待機場所の人数が、一人ずつ減っていった。

 やがて——ルナの番が来た。

「おい、銀髪。次だ。立て」

 腕を掴まれ、暗幕をくぐった。


 壇上に続く三段の階段を、一段ずつ上った。

 シャンデリアの暴力的な輝きが頭上から降り注ぎ、月光しか知らなかった瞳に刃のように突き刺さった。視界が白く()けて、思わず瞼を閉じかける。


 一段目を上がった時、最前列の数人が身を乗り出した。


 二段目で、会場のざわめきが目に見えて鈍くなった。酒杯を口元に運んでいた手が止まり、隣と囁き合っていた口が閉じていく。


 三段目——壇上の頂に、ルナが立った。


 会場が、止まった。

 水を打ったような静寂だった。

 シャンデリアの全光量がルナの頭上から落ち、銀髪がその光を受け止めた瞬間——劇場の空間そのものが変質した。


 銀色の髪は蝋燭の琥珀色の光を浴びると白金(はっきん)に近い輝きを帯び、魔石ランタンの青い光が混ざれば、髪の一筋一筋が微かな虹彩を散らした。わずかな空気の流れに応じてその銀糸は揺れ、揺れるたびに光の筋が角度を変えて客席に降り注ぐ。壇上の照明を、ルナの髪そのものが再び光源として会場に反射していた。まるで、壇上に月が降りてきたかのように。


 月の一族の黒髪は美しい。この闇市場の常連たちは、何度もそれを見てきたはずだった。黒絹の髪に法外な金を積んできた目利きたちだ。


 だが——銀は、次元が違った。

 何十もの仮面が、一斉にルナを凝視していた。口を半開きにして固まる者。ワイングラスを傾けたまま、液体が指を伝い落ちることにも気づかぬ者。連れの腕を掴み、食い入るように壇上を見つめる者。


 最前列にいた金の仮面の貴族が、グラスを取り落とした。紅い酒が石の床に散って、蝋燭の光を弾いた。けれどその男は落としたことにすら気づいていなかった。仮面の切れ間から覗く瞳孔が、異様に開いていた。


 銀髪だけではなかった。

 牢での消耗と灼熱の昼の脱水で、頬はわずかに(やつ)れ、唇は渇いていた。けれどそれすらが——いや、それゆえに——ルナの全身に、壊れかけの硝子(ガラス)細工のような危うい透明感を纏わせていた。


白い薄布から覗く細い首筋。鎖骨から肩へと流れる線。月光を閉じ込めたかのような白磁の肌は、シャンデリアの炎を浴びても焼けることなく、むしろその熱を吸い込んで、内側から仄かに発光しているように見えた。華奢な手足、すべて——森で暮らしてきた月の民が持つ、この世のものではない清冽さが、壇上の光の中で残酷なまでに晒されていた。


 そして——ルナが顔を上げた。

 紫水晶(アメジスト)の原石を、月光の中で磨き上げたような瞳。深い紫の虹彩の奥に、かすかに銀と藍が混じり合い、シャンデリアの光の角度が変わるたびにその色彩が揺れた。

 客席の最上段で、誰かが椅子を蹴って立ち上がる音がした。


 怯えてはいなかった。屈してもいなかった。数百の仮面に囲まれた壇上の中央で、鎖を足首に嵌められたまま、ルナの瞳だけが毅然とした光を湛え——むしろ、客席を射返していた。

 その凛とした眼差しが、仮面の群衆の欲望に火を注いだ。


 折れない獲物。手に入れ、手懐けたいと渇望させる、高貴な抵抗の色。従順に俯く人形ではなく、意思の炎を灯した「生きた宝石」が、そこに立っていた。


 沈黙を破ったのは、客席の奥から落ちてきた声だった。

「——なんだ、あれは」

 呟きのはずが、静まり返った劇場に響いた。その一言が堰を切った。


「銀髪だぞ……銀髪の月だ!」 「嘘だろう。百年に一人と言われる——」 「本物か? 染めているのではないのか!」 「馬鹿を言え、あの光を見ろ。染めた髪にあんな輝きが出るものか」 「あの瞳……紫の瞳の月など、噂にすら聞いたことがない」 「人間の色ではない。あれは——生きた月光ではないか」


 囁きが波紋のように広がり、やがてそれは大きなうねりとなって会場を満たした。

 壇上で進行を務める司会の男が、一瞬、言葉を失っていた。台本を握る手が微かに震えている。進行を忘れ、彼もまた、壇上に現れたものに意識を呑まれていた。


 数秒の空白。額に浮いた脂汗を袖で拭い、司会の男は深く息を吸い込んだ。声を張り上げた時、そこには隠しきれない興奮が滲んでいた。

「——さ、さあ、皆様ッ!」

「本日の——いや、この闇市場始まって以来の、至上の逸品でございますッ!」

 司会の男は台本から顔を上げ、壇上のルナを改めて見上げた。声が裏返りかけるのを、唾を飲み込んで堪えた。


「常闘の森より直送! 月の一族の長たる娘——齢十八! その名はルナ! 月の民でも百年に一人と謳われる、輝く銀髪の持ち主! 透き通る紫水晶の双瞳、白磁の肌、月の長としての礼節と知性——!」


 司会の男は両腕を広げ、声を劇場の天井にまで叩きつけた。

「皆様、これほどの品が市場に出ることは、もう二度とございませんッ!」


 品。


 その一語が、ルナの胸を静かに焼いた。

「おい、灯りを上げろ! もっと近くで見せてやれッ!」


 補助の者が魔石ランタンを掲げ、ルナの間近に(かざ)した。光量が増した瞬間、銀髪がさらに激しく乱反射した。客席のあちこちで小さな悲鳴が上がった。仮面の奥の瞳孔が開き、扇子を握る手が震え、ワイングラスの中身が波打った。


「開始値はいくらだ!」 「早く始めろ!」

 もはや会場は沸騰していた。

「では——開始額、金貨五百枚よりッ!」

 通常の月の奴隷の開始額は、金貨三十から五十。それが十倍の数字で始まったことに、本来ならどよめきが起こるはずだった。けれど誰一人として驚かなかった。壇上に立つものの前では、その数字すら安すぎると——会場の空気そのものが語っていた。


 一拍と置かず、声が飛んだ。

「六百!」

 最前列。赤い仮面の太い男が、葉巻を咥えたまま片手を突き上げた。宝石の指輪を幾つも嵌めた指が、蝋燭の光に油じみた光沢を返す。

「八百だ!」

 右翼の上段席。黒い鳥の(くちばし)を模した仮面が、冷静な声で被せた。

「千!」

 金額が跳ね上がるたびに、周囲から息を呑む音が漏れた。金貨千枚。帝国の裕福な商人が半生をかけて蓄える財。——それが、競り開始からまだ十秒も経っていなかった。


 席を立ち上がる者。扇で仮面を叩きながら叫ぶ者。冷静さを失った貴族たちの欲望が、会場の温度を物理的に押し上げていく。壇上のルナの銀髪がシャンデリアの光を散らすたびに、その光の粒が客席の仮面を照らし、照らされるたびに新しい声が弾けた。


「千二百!」

「千五百!」

 声が重なった。二人の貴族が同時に叫び、互いを睨み合う。従者が主人の耳元に駆け寄り、資金の限界を囁く。仮面の奥で舌打ちが鳴り、それでも腕は下がらなかった。

「千八百!」

 金の半面仮面の男が椅子の肘掛けを握り締めながら叫んだ。その声には、もはや駆け引きの余裕はなかった。ただ——あの銀を手に入れたいという、剥き出しの渇望だけが震えていた。

「二千!」

「に、二千枚ッ!」

 司会の声が裏返った。男は壇上を駆け回り、両腕を振り上げて客席を煽った。

「二千枚の声が上がりましたッ! これは本年度——いえ、過去十年の最高額をすでに更新しておりますッ!」


 金貨二千枚。帝国の小さな領地を一つ買える額だ。地方の伯爵家の年間収入に匹敵する。それが一人の「商品」に注ぎ込まれようとしている。先ほどまで百五十枚の落札で拍手が起きていた同じ会場で、桁が一つ、また一つと跳ね上がっていく。


 ルナは壇上で微動だにしなかった。

 足首の鎖の重みを感じながら、背筋だけは真っ直ぐに保っていた。視線は正面を向いていた。金額が上がるたびに歓声が膨れ、歓声が膨れるたびに、自分の命が、尊厳が、存在そのものが「枚数」として消費されていく——その感覚が、灼熱の空気よりも深くルナの胸を焼いた。


 けれど、この(おぞ)ましい現実から、目を背いてはいけないと思った。ここで自分が見ているものを、この目に焼きつけなければならないと。


「二千五百!」

 黒い鳥の仮面が、搾り出すように声を上げた。従者が袖を引くのを乱暴に振り払い、壇上のルナを仮面の奥から睨みつけていた。

「三千枚ッ!」

 悲鳴に似た声が、別の席から上がった。

 会場がざわめいた。もはや正気の金額ではなかった。小国の年間予算に匹敵する額が、一人の少女に積まれている。それでも——腕を下ろす者はいなかった。壇上に立つものが、あまりにも美しすぎたからだ。


 この劇場に集う者たちの多くは、月の奴隷を何度も見てきた。黒髪の美を愛で、法外な金を積んだ経験がある。その彼らの目が、こう告げていた。——あれは、今まで見てきたどの月とも違う。あれを手に入れた者が、この地下世界の頂に立つ。


 競りは、もはや「購入」ではなくなっていた。矜持(きょうじ)の戦いだった。仮面の奥に隠された虚栄心と所有欲が、金貨という刃で互いを切りつけ合っている。


 司会の男が声を張った。額から顎まで脂汗が伝い、それを拭う暇すらなかった。

「三千枚ッ! 金貨三千枚でございますッ! こ、これはもはや——本会場の歴史を塗り替える額でございますッ!」


 小国の年間予算に匹敵する。城付きの騎士団を二年以上維持できる。先ほどまで百五十枚の落札で拍手が起きていた同じ会場で——桁が、二つ変わっていた。


 それでも、腕を下ろす者はいなかった。黒い鳥の仮面が従者の制止を振り払って立ち上がり、金の半面仮面が椅子の肘掛けを白くなるほど握り締めていた。赤い仮面の男は葉巻を噛み潰しながら、次の数字を搾り出そうと口を開きかけている。


 会場が最高潮の熱に達した、その時だった。

 声は、会場の最奥から来た。


「——五千」


 低く、短く、何の感情も混じらない声だった。


 会場が、凍った。

 蝋燭の炎が、揺れた。

 すべての客席から離れた最奥——壁際の暗がりから、その声は落ちてきた。叫んだのではない。怒鳴ったのでもない。ただ事実を告げるように、その数字を空気の中に落とした。


 五千。

 金貨五千枚。

 司会の手から、鐘の紐が滑り落ちた。

 帝国歴三百年の闘市場において、ただの一度も記録されたことのない数字だった。四大公爵家の一つが年間で動かす金の総額に迫る。中規模の都市をひとつ、丸ごと買い取れる。


 三千枚ですら前代未聞だった。それを二千枚——二千枚の差額で、一息に跳び越えた。追随を許さないと、宣告するために。


 もはや競りではなかった。

 これは、沈黙で殴りつける暴力だった。

 三千枚を叫んだ声が、喉の奥で凍りついていた。口を開きかけていた赤い仮面が、石になったように動かない。立ち上がったままの黒い鳥の仮面の膝が折れ、椅子に崩れ落ちた。金の半面仮面は肘掛けを握ったまま、指一本動かせなくなっていた。


 五千枚に対抗できる個人資産を持つ者が、この帝国にどれほどいるだろう。仮面の奥の瞳という瞳が、恐怖と畏怖の入り混じった色で最奥の暗がりを仰いでいた。


 壇上のルナは、声の主を見た。

 最奥の席。他の貴族たちから離れた暗がりに、その人物は腕を組んで座っていた。漆黒の仮面が顔の上半分を覆い、口元だけが見えている。薄い唇は一文字に結ばれ、笑みも余裕も浮かんでいなかった。


 仮面の奥から覗く瞳が、ルナを捉えていた。

 溶けた金属を流し込んだような黄金の双眸が、仮面の暗がりの奥で静かに燃えている。獣が獲物を見定める時の、あの、逃げ場を塞ぐような眼差し。人間の温度を微塵も残さない、ただ圧倒的な金色の光だけが、壇上のルナの喉元を射竦(いすく)めていた。


 会場は凍りついたまま動かなかった。五千枚。追随する声は、もう出なかった。


「——ら、落札でございます」

 司会の男が、掠れた声で告げた。鐘の紐を握る手が震えていた。

「金貨五千枚にて——最奥のお客様に」


 鐘が鳴った。


 甲高い金属音が天井から壁から床から何度も反響し、やがて溶けるように消えていった。

 拍手も歓声もなかった。ただ、あまりにも圧倒的な金額の前に、会場全体が呆然と息を呑んでいるだけだった。数百の仮面が、互いに顔を見合わせ、何が起きたのかを確かめ合うように囁き交わす。


「五千枚だと……」 「一体、何者だ……」 「あの気配……まさか——」


「お品物は、後ほどご指定の場所までお運びいたします」

 司会の男が深く頭を下げた。

 ルナは壇上から、その金色の瞳を見つめ返した。仮面の奥で、あの目は微塵も瞬かなかった。


 五千枚の金貨。途方もない額が、自分という「商品」に積み上がった。数字が上がるたびに歓声が膨れ、歓声が膨れるたびに自分の尊厳が削られていった。——けれど、最後のあの声だけは、違った。


 他の声には欲望があった。手に入れたいという渇望が、むき出しの熱となって壇上にまで届いてきた。  だが、あの最奥の声には、何もなかった。欲望も、興奮も、歓喜もない。ただ数字を——事実を、空気の中に落としただけの声。


 それが、かえって不気味だった。

 壇上から降ろされる瞬間、ルナは最後にもう一度だけ、最奥の席に目を向けた。

 あの金色の瞳は、すでにルナから外れていた。男は立ち上がり、暗がりの中に歩み去ろうとしていた。その背中は広く、分厚い肩には見慣れぬ深紅の軍装が張りつき、短く刈られた真紅の髪が、蝋燭の光に一瞬だけ燃え上がるように映った。


  (あの人が——私の、(あるじ)になるということね)


 壇上に残ったのは、ルナが立っていた場所にかすかに残る裸足の足跡と、鎖が床を擦った痕だけだった。


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