表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/13

消えた仲間

異変が起きたのは、あの夜から五日後のことだった。


 夜明け前の薄闇の中、朝の見回りに出ていた若い戦士が、血の気を失った顔で集落に駆け戻ってきた。


 「大変です……! 村の東の林で──昨夜、女性たちが」


 集会所に灯された松明が、彼の声に呼応するように揺れた。炎の影が石壁を這い、集まった者たちの顔を交互に照らしては沈める。


 報告をまとめると、こうだった。


 昨夜の夕刻、薬草と木の実を集めに東の林へ出かけた女性たちが、暗くなっても戻らなかった。今朝、見回りに向かったところ、そこには争った形跡だけが残されていた。踏み荒らされた下草。不自然に折れた枝。地面を引きずられたような、長い溝。


 しかし、血はなかった。


 連れ去られたのは三人。柔らかな黒髪と穏やかな笑顔が印象的な若い女性。白い肌が月明かりに映えると評判だった、踊りの上手な娘。そして──透き通るような蜂蜜色の瞳を持つ、まだ十六になったばかりの少女。


 三人とも、ルナは名前を知っていた。顔を知っていた。声を知っていた。


 集会所に重い沈黙が降りた。松明がパチリと爆ぜた音だけが、妙に大きく響いた。


 月の一族の女性には、他の種族には持ち得ない美しさがあった。静けさと、透明さと、この世のものではないような儚さ。それが帝国の者たちにとって黄金よりも高い価値を持つことを、一族の誰もが知っていた。知っていたからこそ、村の外には気をつけるよう繰り返してきた。


 けれど人は、生きるために森を歩く。薬草も木の実も、この森の恵みなしには暮らしていけない。そのわずかな隙を、誰かが──慣れた手つきで、狙った。


 カイルが地面に膝をつき、引きずった跡を指でなぞっていた。


 「靴底の跡を見ろ。帝国の騎士靴じゃない。もっと薄い。軽い。素早く動くために作られた靴だ」


 声は低く、静かだった。けれどその底に、鍛えられた刃のような怒りが走っていた。


 「プロの仕事だ。奴隷商人の間者──専門で動いてる連中がいる。音もなく近づいて、眠らせて、運んでいく。抵抗の跡が少ないのも当然だ」


 ルナは唇を結んだ。


 闇オークション。


 月の一族を「生きた宝石」として売り買いする、帝国の暗部。表向きは法で禁じられながら、実質的に黙認された地下の取引。仮面の貴族たちが集まり、ルナの同胞を法外な値で競り落とす──その話は長老たちから聞いていた。いつも「遠い場所の話」として。


 遠くなど、なかった。


 ルナの足元の土に刻まれた引きずりの跡は、まだ新しかった。


 「私が行くわ。仲間を取り戻す」


 立ち上がった瞬間、集会所の空気が凍りついた。


 長老の一人が、険しい顔で首を振った。


 「ルナ、ならぬ。お前だけは──お前の治癒の力は、絶対に外の者に知られてはならん。我ら一族が命懸けで隠してきた力だ。もし知られれば、月の一族はさらに追われることになる。お前だけの問題ではない──その力の存在が露見した日には、奴らは今以上に血眼で一族全員を狩り始める。銀髪に、紫の瞳に、治癒の力──それが揃えばどれほどの獲物になるか、分かっているだろう」


 分かっている。生まれた時から、分かっている。


 月の一族の髪は、夜の底を溶かしたような漆黒が標準だ。しかしルナの髪は──銀だった。一族の中に銀髪が生まれるのは、何世代に一度あるかないかの稀なことだという。月が最も輝く夜に生まれた子にだけ、その色は宿ると言われていた。だから長老たちは余計に自分の行動を制限した。だから警護は自分に厚かった。


 けれど──だからこそ。


 「仲間を見捨てるわけにはいかない」


 「見捨てろとは言っとらん。ただ、お前が出ていくことの危険を──」


「長老様。私は治癒の力を持っているからという理由で『長』に選ばれました。ですが、その力でこの状況を変えることはできない。今、この森を守れるのは治癒の力なんかじゃなくて仲間を助けに行く事です。

……もし、私がここで安全な森の奥に隠れ、同胞を見捨てるようなら、私は長ではありません。ただの臆病な娘です」


「感情論で一族を滅ぼす気か!」


 「時間がないんです!理不尽に苦しめられるのを知っていて、見捨てることはできません!運ばれてからでは、取り返しがつかないんです!」


「……長老、無駄だ。あんたらもこいつの性格を知ってるだろ。こいつは本気だ。」

カイルがため息交じりに間へと割って入る。


「ここで無理に閉じ込めても、こいつは絶対に一人で抜け出す。治癒の力を持った銀髪の女が、丸腰で外をうろつく……そっちの方が一族にとって最悪のシナリオだろ」


長老たちが言葉に詰まる。


「俺が連れて行く。その代わり、絶対に前には出させないし、治癒の力も使わせない。それなら文句ないだろ」


「……ルナ。何があっても、決して『治癒』の光は見せるな。もしお前が捕まっても……我々は助けには行かんぞ」


それが、長老たちが絞り出したギリギリの譲歩だった。


 ルナはカイルの目を見た。


 揺るがない銀の瞳。本気で──心の底から、案じている。


 沈黙が落ちた。松明の炎が二人の影を壁に伸ばし、その影だけが風に揺れていた。


 ルナは、静かに息を吸った。


 「……一緒に来てくれる?」


 カイルの顔に諦めに似た苦笑が浮かんだ。


 「はあ……お前が言っても聞かない性格なのは、十八年の付き合いで嫌ってほど知ってる。」


 カイルは(きびす)を返しかけ、肩越しにルナを見た。


 「俺が先行する。お前は後ろだ。何かあったら迷わず引き返す。それが条件だ。」

 「わかった」


 「約束しろ」


 「約束する。あなたも、無理はしないと約束して」


 カイルは返事をしなかった。


 代わりに、背を向けて夜の入口へと足を向けた。その後ろ姿に向かって、ルナは胸元の銀笛にそっと手を触れた。冷たい骨の感触が、衣服越しに鎖骨に触れていた。


 村の東の林を抜け、帝国との境界に近い丘陵地帯にたどり着いた時、月は天頂を過ぎていた。


 二人は月の民の動き方で進んだ。木々の影を縫い、足音を殺し、風の流れを読みながら。月の一族が森の中で動く時、その気配はほとんど感じ取れない。夜目が効き、暗闇そのものが味方になる。カイルはその技を極めていた。一族最高の戦士。影の中に溶けるように移動する彼の後ろ姿は、時おり本当に闇と区別がつかなくなった。


 引きずった跡は北東に続いていた。


 二人は無言でそれを辿った。夜の森は音に満ちている。虫の声、風が枝を揺らす音、遠くで何かが落ち葉を踏む気配。それらすべてを聞き分けながら、カイルは慎重に進み、ルナはその背中から三歩分の距離を守った。


 丘陵の縁に差しかかった時、最初に気づいたのは匂いだった。


 鉄。革。そしてそこに混じる、甘く人工的な薬草の香り。常闇の森に自生する草木からは決して漂わない、異質な気配。この匂いだけが、周囲の森の空気から浮き上がっていた。


 カイルの足が止まった。彼の右手が、ルナの方に向かって低く開かれる。止まれ、の合図。


 ルナが口を開きかけた──その瞬間。


 「ルナ、走れッ!」


 カイルの叫びと、木々の陰から踏み出す複数の人影は、ほぼ同時だった。


 松明を持たない男たちだった。暗闇に目を慣らし、視界を闇に預けたまま動いている。足運びに無駄がない。走らない。追い立てるように、じりじりと包囲を狭めてくる。獲物を逃がさないための陣形。訓練された動き。慣れた手つき。


 ──何度もこれを繰り返してきた連中だ。


 ルナは瞬時に判断した。逃げ道は一つ。南東の沢筋。木々が密集して人間の体格では通れない裂け目がある。月の民の身軽さなら、抜けられる。


 走った。


 銀髪が夜風にほどけ、赤い月光を散らしながら、全力で。背後でカイルが二人──いや三人の気配を引きつけている。木の枝が頬を掠め、露に濡れた葉が首筋を打つ。裸の根が足首に絡みつくのを蹴って、ただ前へ。


 前方の裂け目まで、あと二十歩。

 十五歩。


 十──


 足が、止まった。


 正確には──止まらされた。


 地面に張り巡らされた、目に見えない糸が(くるぶし)に巻きついた。月光の下でも透明な何か。魔力を帯びた、蜘蛛の巣よりも細く、鋼よりも強靭な罠。締めつけるのではなかった。もっと陰湿な手口だった。その糸はルナの体から力を奪っていった。指先から、足先から──夜の終わりが全身を静かに侵食するように、ゆっくりと、確実に。


 膝が折れた。


 地面に倒れ込む寸前、背中を誰かの腕が支えた。革の手袋。硬く、冷たい感触。森の匂いではない体臭。鉄と汗と、あの甘い薬草の残り香。


 「捕まえた」


 男の声が、耳のすぐ傍で言った。低く、抑えきれない喜びが滲んでいた。


 「月の若娘だ。──しかも銀髪!!こりゃ大当たりだ!!」


 遠くで、カイルの声がした。名前を呼んでいる。彼は生きている。けれどその声は、どんどん遠くなっていく。


 足先から這い上がる痺れが、(もも)を越え、腰を越え、胸に達した。視界が端から暗くなる。意識がゆっくりと水底に沈んでいくような感覚の中で、ルナの手は無意識に胸元を探った。


 銀笛。冷たい骨の感触が、まだ、ある。


 そのとき──遠くから、細い音が聞こえた。


 笛の音。

 銀笛の音色。


 合図は届かない。あの約束の音色は、今この瞬間には何も変えてくれない。


 最後に残ったのは、濡れた草の匂いと、頬に触れる地面の冷たさだった。


 ルナの意識は、完全に途絶えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ