紅き常闇の森
かつて、この森には銀色の夜があった。
月光が木々の枝と枝の間から幾筋もの糸を引いて降り注ぎ、地面を覆う苔の一つひとつがその光を吸い込んでは淡く明滅した。
透き通る翅を持つ飛蛾が水面すれすれを渡り、光る茸が暗がりの奥に小さな灯台のように浮かび上がり、夜咲きの花は月の傾きに合わせてゆっくりと首を回した。
常闇の森。
帝国の者がどれほど地図を広げようと、どれほど隊列を組んでも辿り着けない場所。六つの一族のうち、月の一族だけが知る──世界の懐に守られた、神秘の聖域だった。
その夜は、永遠に続くかと思われた。
しかし今、この森の夜は赤い。
頭上に浮かぶ月は赤銅色に染まり、終わりを知らない月食として空に居座っている。
赤い光が森の深部まで滲み渡り、かつて銀の燐光を揺らめかせていた苔は色を失い、夜咲きの花は縮こまったまま蕾を開かず、木々の幹には暗い陰影が走っていた。
静寂すらも、血の匂いを含んでいるようだった。
村の裏手に広がる「静脈の泉」のほとりに、ルナ・フェリシタスはしゃがみ込んでいた。
指先で、光を失った苔に触れる。
ひんやりとした感触だけが指の腹を伝ってくるが、かつてのように、触れた端から銀の燐光が広がることはもうない。ただ冷たい。ただ暗い。泉の水面には赤い月が映り込み、ゆらゆらと揺れるその輪郭が、まるで水底に沈んだ巨大な瞳のようだった。
ひんやりとした夜風が、ルナの銀髪を掬い上げる。月の一族の中でも極めて稀有な、月の雫を溶かしたような輝く銀の髪。赤い月光を浴びても、その一筋一筋は頑なに銀色の光を手放さなかった。
ルナの紫の瞳が、泉の水面に落ちた。映り込んだ自分の顔は、赤い水に歪んで、どこか別の誰かのようだった。
ふと、記憶の底から声が浮かび上がる。
──まだ幼かった頃。この泉が、息を呑むほど美しい銀色に満ちていた頃。
今は亡き祖母の膝の上で、ルナは銀の光を見つめていた。しわの刻まれた温かい手が、幼いルナの銀髪をゆっくりと梳いていく。その指の動きに合わせるように、祖母の声が夜の空気に溶けていった。
『ルナ。この世界はね、六つの色で描かれた、一枚の大きな絵なのよ』
しわがれた、けれど陽だまりの匂いがするような声だった。
『燃えるような命の熱を与える「太陽」。大地を潤す恵みの雨を降らせる「水」。その雨を遠くへ運んで、心地よい季節を巡らせる「風」。すべてを黙って受け止めて、命を育む器の「地」。祈りで世界に安寧を紡ぐ「天」……』
祖母の指が、ルナの銀髪の一房をそっと摘み上げた。泉の光がその銀糸を照らし、幼いルナの視界に小さな虹が散った。
『じゃあ、わたしたち「月」は?』
祖母は微笑んだ。その笑みの皺が、泉の波紋のように顔中に広がった。
『月はね──強すぎる太陽の光と熱を優しく包み込んで、世界に静かな眠りを与えるの。六つの一族がそれぞれの役割を果たして手を取り合って、初めてこの空と大地は綺麗に回るのよ』
幼いルナは、その話をただの美しい絵本の中の出来事として聞いていた。
太陽の灼けつくような熱も、空を巡る風の匂いも、恵みの雨の冷たさも知らない。生まれた時からずっとこの暗い森の奥深くで生きてきたルナにとって、「外の世界」は想像もつかないほど遠く、曖昧な幻でしかなかったからだ。
しかし成長するにつれ、現実の厳しさを知った。長老たちは「外は危険だ、特に女、子供は絶対に森の外へ行くな」と子供の頃から口を酸っぱくして繰り返す。それはただの脅しではなく、現に森の境界に近づき、行方不明になる同胞が続出しているのだ。
美しい容姿を持つ月の一族は、外の世界の人間たちにとって「生きた宝石」として狩られる獲物──意思を持たないただの「物」でしかないことを、ルナは嫌でも理解していった。
ルナはゆっくりと立ち上がり、木々の隙間からわずかに覗く、切り取られた赤い月を見上げた。
異なる一族が、みんなで手を取り合う世界──。
「そんな世界が、あればいいのに……」
ルナは無意識に呟いていた。
「無理に決まってるだろ」
呆れたような、けれどどこか温かみを隠しきれない低い声。
振り返ると、透き通る漆黒の髪と月のように静かな銀の瞳を持つ青年が、呆れ顔で古木の幹に寄りかかっていた。
カイル・ゾルディック。
月の一族最高の戦士にして、ルナの幼馴染。細身ながらも鍛え抜かれた筋肉が、樹皮の陰に溶け込む黒い衣服の下で静かに主張していた。
「カイル……また、気配を消して。心臓に悪いわ」
「お前が無防備すぎるんだよ。一族の『長』が、こんなところで油断してどうする。」
「長のお仕事は今日はお休み。……それに、来るのが遅い」
カイルは肩をすくめ、ゴツゴツとした手で無造作に首の後ろを掻いた。節くれだった指の一本一本に、戦士の鍛錬が刻まれている。
けれど、ルナはその手が持つもう一つの質感を知っていた──幼い頃、閉じこもっていた自分を引っ張り出してくれた、あの乱暴で、けれど決して痛くない温かさ。
「……すまん。遠回りした。最近、境界付近に人間の気配が増えてる」
冗談めかした口調が、その一言だけ低くなった。カイルはルナの隣まで歩み寄り、同じように赤い泉の水面を見下ろした。二人の影が、歪んだ月の上に重なる。
「さっきの寝言。……また、他の一族と共存したいとか妄想してたのか?」
「寝言じゃないわ。おばあちゃんのお伽話を思い出していただけ」
「あのな」
カイルの銀の瞳が、泉から離れてルナの横顔を見据えた。
「あいつらは俺たちを物としか見てない。同等に手を取り合うなんて──お伽話にしたって、たちの悪い話だ」
厳しい言葉だった。けれどその奥に、ルナを案じる色が深く滲んでいることを、ルナは知っている。カイルはいつもそうだ。優しさを棘の裏に隠す。
「森の外は危険なんだぞ。行方不明者が続出してる。絶対に境界には近づくな」
「わかってるわよ。カイルはお説教が本当に好きね。長老たちとそっくり」
「誰がお説教好きだ! 俺はお前が心配で──」
むきになって言い返すカイルの姿に、ルナは思わずふふっと笑い声をこぼした。彼の前でだけは、気丈に振る舞う必要も、敬語を使う必要もない。一族の長ではなく、ただの一人の女の子に戻れる、唯一の心休まる時間だった。
「泉、赤くなってしまったわね。昔は綺麗な銀色だったのに」
「ああ。……そのせいで長老どもが騒いでるだろ」
「私になんとかしろって押しつけてくるの。治癒の力で、どうにかならないかって」
ルナは自分の両手を見下ろした。月の一族の中で、一代に二人か三人しか現れない治癒の力。傷ついた肉体を癒し、苦しむ精神を和らげる──そう伝えられる力。ルナの世代では、今この力を十全に使えるのはルナだけだった。だから長を継いだ。力があるから、という、それだけの理由で。
決められたしきたりだった。今この力は、何の意味も成せていないのに──
泉に手をかざして試してみたことがある。けれど、色を失った苔は何も変わらなかった。
赤に染まった水面も、揺れたまま銀には戻らなかった。
私の力は足りないのか。それとも、違う力が必要なのか──どちらが真実か、ルナには分からなかった。
「やってみたけれど、何も変わらなかった」
「自分は何もできないくせに、ルナばっかりに押しつけやがって……」
カイルの声に、低い怒りの熱が混じった。
それがルナではなく、長老たちに向けられたものだと分かっていたから、ルナは何も言わなかった。ただ、泉の水面に映る二人の影をぼんやりと眺めていた。
──夜が少し深まった頃だった。
カイルが懐に手を差し入れた。取り出したのは、掌に収まるほどの小さな楽器。細い、骨細工の笛だった。
象牙色の表面に、月の一族の紋章──三日月と水草の意匠が、素朴に、けれど丁寧に刻まれている。月の職人が削り出すものとは少し違う、どこか不格好で、けれどその分だけ時間と想いが凝縮されたような造り。
「これ。お前に渡そうと思ってた」
「……銀笛?」
「俺が作った。不細工だけどな」
ルナは受け取った。掌の上でしばらく眺めた。確かに、職人のものと比べれば荒削りだった。それでも三日月の輪郭は一刀一刀が丁寧で、刃を滑らせる手が何度も迷い、何度もやり直した痕跡が、指先から伝わってきた。
「ルナ」
カイルの声の質が変わった。からかいや照れが消え、静かな、芯だけが残った声になった。
ルナは笛を見たまま動かなかった。
「お前が一族の『長』としてじゃなく、ただのルナに戻りたい時──この笛を吹いてくれ。その音が聞こえたら、どこにいても、俺が迎えに行く」
風が止んだ。泉の水面の波紋すら、息を潜めたようだった。
ルナはゆっくりと顔を上げた。カイルの銀の瞳がこちらを見ていた。赤い泉の照り返しが彼の顔を下から照らして、いつもより輪郭が柔らかく見えた。
笛を握る手に、そっと力がこもった。骨の、冷たく滑らかな感触が掌に収まる。
「……ありがとう、カイル」
声が、わずかに揺れた。
「私も、あなたの前では『長』の仮面を脱ぐわ。私たちの間だけは──敬語も、立場もなし。ただのルナとカイルでいましょう」
「……当たり前だ」
カイルは少し顔を背けた。耳の端が赤い。けれどその声には、照れに溶けきらない、不器用な力強さがあった。
赤い月光の下、禍々しい森の空気の中でさえ、二人の間を流れる時間だけは、かつての銀色の夜のように静かで、穏やかだった。
虫の声が戻ってくる。遠くで、夜鳥が一声だけ啼いた。
ルナは笛を胸元に仕舞い込んだ。骨の冷たさが、衣服越しに肌に触れる。その小さな重みが、心の片隅に灯った微かな光のようだった。




