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アルテミスの手紙

夜の帳が下りても、太陽の城の空気は重かった。

 壁が昼の間に吸い込んだ熱を、じわじわと部屋の内側に吐き出し続けている。窓を閉めた部屋は石の窯の中にいるようなもので、寝台に横たわっても、天蓋の薄絹が頬に貼りつくような蒸し暑さが離れなかった。


 ルナは何度も寝返りを打ち、やがて起き上がった。

 枕元の水差しに手を伸ばしたが、水はぬるく、喉を潤しても体の芯にまで届かない感じがした。


 その時、控えめに扉を叩く音がした。

「お嬢様、まだお目覚めでしたか」

 マルタの声だった。扉が開くと、小さな盆の上に湯気の立つ茶器が載っていた。


「なかなかお休みになれないようでしたので。薬草のお茶をお持ちしました。気持ちを少し落ち着けてくれるものですよ」

 マルタは卓上に茶器を置いた。薄い緑がかった琥珀色の液体から、甘くてほろ苦い湯気が立ちのぼった。森にはなかった種類の匂いだったが、不思議と不快ではなかった。


「……ありがとう、マルタ」

「ゆっくりお召し上がりくださいね。私はもう下がりますが、何かあればいつでもお声がけを」

 マルタが一礼して去った後、ルナは茶器を持って窓辺の椅子に腰かけた。


 窓から見える赤い月。月の森から見ていたのと同じ月のはずなのに、この城から見上げるそれは、どこか怒っているように見えた。

 茶器の縁に唇をつけた。温かい液体が喉を伝い、胃の底に沈んでいく。ほんの少しだけ、体の強張りが緩んだ気がした。


 ――コツ、コツ。

 微かな音が、窓ガラスを叩いた。

 ルナの指が、茶器の上で止まった。

 風の音ではない。枝が当たる音でもない。明確な意思を持った、控えめで、しかし確かな響き。


 ルナは茶器を卓上に置き、窓ガラスの向こうを覗いた。

 そこには赤黒い月明かりを背負った影があった。

 鳥だった。

 窓の(ひさし)に爪を立て、身じろぎもせずにこちらを見つめている。暗闘の中に完全に溶け込むような漆黒の体色。折り畳んだ翼は体の割に大きく、広げれば子供の背丈ほどはあるだろう。そして——暗がりの中でらんらんと光る、金色の瞳。


 月の森に棲む魔獣。ナイトクロウ。夜気を翼に宿して音もなく飛ぶ、闘の鴉。


 ルナの心臓が、大きく跳ねた。

 ナイトクロウの頭頂部に目が止まったからだ。漆黒の羽毛の中に二本だけ、触覚か寝癖のようにぴょんと跳ねた羽がある。幼い頃、初めてその二本を見た時に「うさぎみたい」と笑ったことを、指が覚えていた。


「アルテミス——」

 声が裏返った。


 窓の鍵を開ける手がもどかしかった。指が震えて、留め金がうまく回らない。ようやく金具が外れ、窓を押し開けた瞬間、夜の空気が頬を撫でた。この城の空気とは違う、どこか涼しい——アルテミスが纏ってきた、夜そのものの温度だった。


「私の居場所が……わかったの……!」

 アルテミスは喉の奥でクルルと低く鳴いた。その声が、耳の奥を通り過ぎて胸の底に直接落ちてきた。聞き覚えのある音だった。月の森の夜に、枕元で聞いていた音。


 漆黒の翼が静かに広がり、窓枠から室内へとふわりと舞い降りた。床に降り立つ時の足音すら、ほとんどしなかった。闇の中を飛ぶために作られた体は、音までも飲み込んでしまう。


 ルナは膝をつき、アルテミスと目線を合わせた。

 金色の瞳が、真っ直ぐにルナの顔を見つめていた。首を傾げるでもなく、瞬きをするでもなく——ただ見ている。主の無事を確かめるように。その瞳の奥に、十日分の心配が溜まっているのが分かった。


 ルナはそっと手を伸ばした。

 指先が、漆黒の羽に触れた。

 柔らかかった。滑らかな羽毛の間に指が沈み込み、その下にある小さな体温が伝わってくる。そして——指先から鼻腔へと、微かな匂いが昇ってきた。


 夜露の匂い。苔の匂い。湿った落ち葉と、どこかで咲いている夜百合の甘い残り香。


 常闇の森の、匂いだった。

 目の奥が、熱くなった。


 泣かないと決めていた。この城に来た最初の夜から、ずっとそう決めていた。けれど、この匂いは卑怯だった。指先一つ分の羽毛から立ちのぼるこの匂いの中に、森の夜と、カイルの声と、長老たちの笑顔と、あの静かな月光のすべてが詰まっていた。


 ルナはアルテミスの頭をそっと撫でた。跳ねた二本の羽毛が、指の間でぴょこぴょこと揺れた。

「心配かけて、ごめんね。私は大丈夫よ」

 声は震えていた。大丈夫ではないことを、アルテミスの金色の瞳は見透かしているようだった。けれどアルテミスは何も言わず、ただルナの掌に頭を預けて、喉の奥でもう一度だけ小さく鳴いた。


 しばらくそうしていた。


 アルテミスの羽毛に触れているだけで、この十日間、胸の内側にこびりついていた冷たい澱が、少しずつ薄まっていくのを感じた。森から引き剥がされた自分に、森のほうから会いに来てくれた。それだけで——今夜は眠れるような気がした。


 けれど、ルナの指は羽毛を撫でながら、別のことを考え始めていた。


 アルテミスがここまで来ることができたなら——森へ、言葉を届けることもできる。

「アルテミス、ちょっと待っていてもらえる?」


 ルナは立ち上がり、部屋の書架の引き出しを開けた。備え付けの羊皮紙と羽ペン。インク壺。城の調度品として最初から用意されていたものに、初めて手を触れた。


 卓上に羊皮紙を広げ、魔法の灯火の下でペンを走らせた。インクがペン先から羊皮紙に落ちる、微かな音。


 宛先は——迷わなかった。

 森で誰よりも自分の身を案じているであろう、あの声の持ち主。

『カイルへ。

 私は今、太陽の城に捕らわれています。

 何もひどいことはされていないから安心して。

 ここで、必ずいなくなった人たちの居場所を突きとめてみせるわ。

 だから、あなたも、月の人たちも、絶対に助けに来ないで。

 これ以上、一族から犠牲が出るのは絶対ダメよ。

 必ず、みんなで森へ帰るから。

                ルナより 』

 ペンを置いた。

 ——何もひどいことはされていない。

 自分が書いた文字を見下ろして、ルナは唇を噛んだ。嘘だった。虫の入った皿も、針の仕込まれた衣も、あの薄い絹の感触も、首輪の電流も——全部、嘘だった。

 けれど、本当のことを書くわけにはいかなかった。

 カイルの性格を知っている。あの手紙に「助けて」の三文字を書けば、カイルは翌日にはこの城の壁を登り始めるだろう。一人で。武器一つで。そして、太陽の城の軍勢に捕まるか、殺されるか——どちらかだ。

 嘘でいい。嘘で、守れる命がある。


 ルナは羊皮紙を小さく折りたたみ、卓上の紐を手に取った。アルテミスが寄ってきた。差し出された漆黒の足に、紐を巻きつけ、手紙を結びつける。何度も確認して、外れないことを確かめた。


「お願い、アルテミス。これをカイルに届けて」


 アルテミスは手紙の結び目を一瞥してから、金色の瞳をルナに向けた。じっと、動かなかった。まばたきもしなかった。

 その目が、何かを問うていた。

 ——本当に大丈夫なのか、と。


 ルナは微笑んだ。笑えていたかどうかは分からない。唇の形だけは、笑みを作ったつもりだった。

「大丈夫。私は大丈夫だから」

 同じ言葉を、二度口にした。一度目よりも静かで、脆い声だった。


 アルテミスは小さく鳴いた。納得したのか、諦めたのか——鳥の表情からは読み取れなかった。ただその鳴き声は、行ってくるよ、と言っているように聞こえた。


 漆黒の体がふわりと浮き上がり、窓枠に飛び乗った。大きな翼が広がった。闇よりも濃い黒が、赤い月の光を一瞬だけ遮った。

 そして——翼が、夜を打った。

 ナイトクロウの翼は空気を裂くのではなく、闇を縫うようにして飛ぶ。アルテミスの姿は、三度の羽ばたきで赤い月の中に溶け込み、見えなくなった。

 ルナは窓枠に手をかけたまま、夜空を見つめていた。


 アルテミスが飛び去った空には、何も残っていなかった。漆黒の羽毛一枚、落ちてはいなかった。ただ、窓枠の上に——爪の跡と、夜露の湿り気だけが、かすかに残っていた。


 指先に、まだ羽の感触があった。あの柔らかさと、森の匂い。


 ルナは窓を閉めた。

 茶器の中のお茶は、すっかり冷めていた。一口だけ含んだ。ぬるくなった液体が喉を通る。薬草の苦みだけが、舌の上に残った。


 寝台に戻り、横たわった。天蓋の薄絹が、灯火の光を受けて淡く揺れている。


 手紙に書いた嘘を、ルナは反芻していた。何もひどいことはされていない。大丈夫。大丈夫。

 嘘をついた相手はカイルだった。けれど、本当に騙そうとしていたのは——自分自身だったのかもしれない。


 目を閉じた。

 瞼の裏に、アルテミスの金色の瞳が浮かんだ。それはしばらくすると、別の金色に変わった。もっと鋭くて、もっと熱くて、もっと——近くにいるはずなのに、遠い金色に。


 その金色を振り払うように、ルナは寝返りを打った。

 指先に残る羽毛の感触だけを握りしめて、ようやく——この城に来て初めて、少し心地いい眠りに落ちていった。

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