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枯れた花

朝の光が窓から射し込む前に、マルタの足音が廊下から聞こえてきた。

 扉が開くと、いつもの朝食の盆と一緒に、マルタの腕に小さな花瓶が抱えられていた。白い陶器の花瓶に、鮮やかな橙色の花が三本。太陽百合(サンフルール)——この帝国に自生する、灼けつく夏にだけ咲く花だと、マルタが以前教えてくれたことがあった。


「今朝、庭番が切ってくれたものですよ。せっかくですから、お部屋に飾りましょうね」

 マルタは窓辺の卓に花瓶を置いた。橙色の花弁が朝の光を受けて、ほんのりと赤味を増す。


「……きれい」

 ルナは寝台の端に腰かけたまま、その色を見つめた。常闇の森にはなかった色だ。月光の下では決して咲かない、昼の世界だけが持つ、命の熱を閉じ込めたような色。


「お嬢様のお部屋には、お花がないと寂しいですからね」

 マルタが皺の深い顔でそう微笑んだ時、ルナは少しだけ——ほんの少しだけ、胸の奥が温かくなった気がした。


 昼を過ぎた頃だった。

 形だけのノックが鳴った。返事を待たず、扉が開いた。

 三人の侍女が入ってきた。

 先頭に立つ女性は、何度か清掃で来たことのある年かさの侍女だった。栗色の髪をきつく結い上げ、口元に笑みの形だけを貼りつけている。残りの二人が、ルナを挟むように部屋の左右に散った。


 ルナは窓辺の椅子で本を開いていた。マルタが「せめてお暇な時に」と書庫から見繕ってきてくれた、この国の植物図鑑。読める文字もあれば読めない文字もあったが、挿絵を眺めているだけでも、知らない世界の輪郭が少しずつ見えてくるようだった。


「月の子、少しよろしいかしら。エレナ様からのお言葉をお伝えに参りましたの」


 年かさの侍女が、形だけ礼をした。腰を折る角度は浅く、目線はルナを見下ろしたまま動かない。


「殿下があなたを城に置いていることで、どれほどの方々が迷惑を被っているか——分かって? エレナ様は殿下の婚約者候補として、これまで誠実に……」


「私は何もしていない」

 ルナは本を閉じた。

 声は静かだった。怒気も震えも含まない、ただ事実だけを載せた声。

 侍女の言葉が、途切れた。

「自分の主のために私を虐めることで出世しようとしているの?それがあなたたちの生き方?」

 部屋の空気が、ぴんと張った。

 三人の侍女が視線を交わした。年かさの侍女の目が、細くなった。


「……生意気ね」

「事実を言っただけよ」

 ルナは椅子に座ったまま、三人の目を順番に見た。視線は逸らさなかった。


「ここから出られない奴隷の分際で、ずいぶん立派なお口ね」

 左側にいた侍女が、一歩踏み出した。


両手に何かを持っていた。

 布だった。柔らかく薄い、白に近い色の生地。しかし侍女の手の中でそれが広げられた瞬間、ルナは息を止めた。

 ネグリジェだった。

 薄絹一枚で仕立てられた、夜着と呼ぶには布が少なすぎるものだった。肩は細い紐で吊られているだけで、胸元は深く切り込まれている。裾は短く、脚の大半が露わになる丈だった。背中は腰の上まで開けている。透ける生地越しに向こうが見えるほど薄く、着ているというより纏っているという方が正確なほどで——これは衣ではなく、見せるためのものだった。


「殿下のお慰み者には、これくらいがちょうどよろしいでしょう」

 侍女の声に、隠しようのない侮蔑が滲んでいた。

「あなたの城でのお役目は分かっているでしょう? せいぜいそれらしく見えるお格好をされた方が、殿下のお役にも立てるというものよ」

 もう一人の侍女が、ルナを取り囲むように横に回った。

「さあ、お召し替えを」

 三人が、ルナの周りを囲んだ。

 そのまま、衣の合わせに手をかけられた


 背後から、腕を掴まれた。椅子から引き起こされる力は、先日の使用人よりもずっと強く、ずっと慣れた手つきだった。本が床に落ちた。背表紙が鈍い音を立てた。

 両腕を後ろに回され、手首を束ねるように握られた。ルナは抵抗した。肘を引き、体を捩り、踵で床を蹴った。


 その瞬間——首筋を、稲妻が貫いた。

 首輪の魔法陣が反応したのだ。激しい抵抗を「逃亡の意思」と判定したのか、電流は昨夜より鋭く、骨の芯まで一息に焼き通した。ルナの膝が折れた。抵抗していた全身の筋肉が、一瞬で制御を失った。立っていられなかった。侍女に支えられる形で崩れ落ちながら、喉の奥で呼吸が詰まった。声も出なかった。痛みが頭の中を真白に焼いていた。

 電流が引いた後、体はまるで濡れた紙のように力を失っていた。


「あら」

 年かさの侍女が、涼しい声で言った。

「大人しくなったわね。やっと受け入れたのかしら」

 ルナの手首を掴んでいた侍女が、ふっと力を緩めた。緩める必要があったからではない——緩めても、もう抵抗できないと分かっているからだった。


 その屈辱が、電流よりも深く刺さった。

 別の手が、ルナの襟元に伸びてきた。布を掴む音。そして——引き裂くような勢いで、衣服の合わせが開かれた。

 ルナの肩が露わになった。

 冷たい空気が、首筋から鎖骨に触れた。

 三人目の侍女が、さっきのネグリジェをルナの体に通していく。


 首輪の痺れが抜け切らない体のまま、生地が肌に触れた瞬間の感触が、不快だった。肌に沿うように作られた布が、まるで見知らぬ人間の視線そのものに纏わりつかれているようだった。


「あら——」

 年かさの侍女が、ルナの姿を上から下まで眺め回し、唇の端を持ち上げた。

「慰み者らしい格好がよくお似合いだこと」

「女の私でも興奮してしまうほど美しいわね。殿下も、夢中になってむしゃぶりつくこと間違いないわ」

 左の侍女が含み笑いを漏らした。

「あなたの死人みたいな冷たい体も、これであっためてもらえるわよ」

 三人目の侍女が、わざとルナの肩に触れ、大袈裟に手を引いてみせた。


「ただの性処理よ。あなたはそれ以上でも、それ以下でもないの。それだけのためにここにいるのだと、きちんと自覚しておくことね」

 年かさの侍女が、冷たく言い切った。


 ルナは、動けなかった。

 首輪の痺れはまだ全身に残っていた。腕はとうに離されていた。暴力は終わっていた。それでも——体が動かなかった。椅子に崩れるように座り込んだまま、両腕で自分の肩を抱くことしかできなかった。薄い絹の下で、自分の指が自分の二の腕に触れている。冷たかった。いつもと同じ温度のはずなのに、今はその冷たさが、自分の体が自分のものではないような感覚を呼んでいた。


 侍女たちは満足げに顔を見合わせ、来た時と同じ足取りで部屋を出ていった。


 扉が閉まった。

 静寂が、部屋に戻った。

 ルナは椅子の上で膝を抱えた。薄い絹が、動くたびに肩からずり落ちそうになる。自分の呼吸の音が、やけに大きく聞こえた。

 ——大人しくなったわね。やっと受け入れたのかしら。

 あの声が、耳の奥に貼りついて離れなかった。


 受け入れていない。断じて、受け入れていない。それでも——首輪が流した電流の前に、自分の体は崩れ落ちた。抵抗する意思があっても、膝が折れた。その事実だけが、侍女の嘲りに証拠として残された。

 ——ただの、性処理。

 あの言葉もまた、鋭い棘のように胸の内側に刺さって抜けなかった。

 五千枚の金貨。ペット。首輪。そして——今、この体に纏わりつく、この布。

 レオンは自分を、そのために買ったのだろうか。


 毎朝部屋を訪れて顔も見ず、マルタにだけ状態を確認して去っていく——あの奇妙な距離は、「その時」が来るまでの準備期間に過ぎないのだろうか。


 分からなかった。分からないことが、一番怖かった。

 ルナは膝に額を押しつけた。目を閉じた。泣いてはいなかった。泣くつもりもなかった。ただ、体の内側を、冷たい風が吹き抜けていくような虚しさがあった。


 マルタが部屋に入ってきたのは、夕方の鐘が鳴った直後だった。

「お嬢様、お夕食を——」

 声が、止まった。

 盆が、傾いた。マルタは慌ててそれを立て直したが、スープの椀から液体が少し跳ねて、盆の布を汚した。


「お嬢様……! その、お召し物は——」

 マルタの目が、ルナの姿を捉えていた。窓辺の椅子に膝を抱えたまま、薄い絹のネグリジェだけを纏って座り込んでいるルナの姿。肩が露出し、鎖骨の下まで布が落ちかけている。剥ぎ取られた元の衣服が、床に丸められて転がっている。


「誰が——こんな——」

 マルタは盆をテーブルに置くなり、素早くルナのもとに歩み寄った。自分の羽織っていた灰色の上着を脱ぎ、ルナの肩にそっとかけた。麻の布は粗かったが、温かかった。マルタの体温が残っていた。


「……ありがとう、マルタ」

 ルナは小さく言った。声は掠れていた。

「……お嬢様。お怪我は——」

「大丈夫。どこも怪我はしてないわ」

 マルタは唇を固く結んだ。何か言いたげだったが、飲み込んだ。その顔に刻まれた皺の一つひとつが、怒りと悲しみを同時に湛えているように見えた。


「……マルタ」

 ルナはマルタの袖を、指先でそっと掴んだ。

「あの人には……言わないで」

 短い沈黙が落ちた。

「このことも、今日のことも——何も言わなくていいわ。異常はなかった、いつも通りだったと、それだけ伝えてちょうだい」

 マルタは何も言わなかった。ただ、ルナの顔をじっと見ていた。


「……こんな格好にされたなんて」

 ルナは膝の上に視線を落とした。喉の奥に何かが詰まるような感覚があったが、それを言葉にすることだけはしたくなかった。

「あの方に、知られたくない」

 それだけだった。なぜ知られたくないのか、自分でも上手く言葉にできなかった。ただ——あの黄金の瞳に、この姿を見られることが、電流よりも深いところで怖かった。蔑まれるのが怖いのではない。同情されるのも違う。この薄い絹を纏った惨めな姿が、あの冷徹な瞳の前に曝されることが——ただ、嫌だった。


 マルタは静かに息を吸った。

「……承知いたしました、お嬢様」

 それ以上は何も聞かなかった。ただ老女の手が、ルナの肩にかけた上着の衿を、もう少しだけ丁寧に整えた。


 再び、一人になった。

 ルナはマルタの上着を肩にかけたまま、窓辺に目を向けた。


 花が、変わっていた。

 朝、マルタが活けてくれた橙色の太陽百合。あの時は三本とも花弁をいっぱいに開き、朝の光を吸い込んで輝いていた。

 今は——三本とも、首を垂れていた。

 花弁の縁が茶色く変色し、内側に丸まるように萎れている。茎もしなだれ、花瓶の縁に寄りかかるようにして辛うじて立っているだけだった。水は十分にあった。花瓶の中の水は、まだ透明だった。水が足りないのではない。この部屋の異常な室温——太陽の城に充満する灼熱の空気が、半日のうちに花の命を吸い尽くしたのだ。


 ルナは椅子から立ち上がり、花瓶の前に立った。

 萎れた花弁を見下ろしていると、侍女に着せられた薄い絹の感触が蘇ってきた。惨めに椅子の上で膝を抱えていた自分の姿が、首を垂れたこの花と重なった。


 朝は美しかったのに。飾られて、眺められて、そして熱に焼かれて枯れていく。

 ——私も、こうなるのだろうか。

 この城に飾られたまま、少しずつ干からびて、誰にも気づかれずに枯れていく。慰み者の格好をさせられて、性処理の道具だと嗤われて、最後には誰かの目にも止まらなくなる。


 指先が、花に触れていた。

 無意識だった。萎れた花弁の端に、ルナの人差し指がそっと触れていた。


 その瞬間——指先に、微かな光が灯った。

 銀色の、淡い燐光。月の治癒の力。常闇の森で傷ついた獣の体を癒し、折れた枝に命を注いだ、あの光。この城に来てから一度も使っていなかった力が、まるで思い出したかのように、指先から静かに溢れ出した。


 光が花弁に染み込んでいく。

 茶色く変色していた縁が、内側から色を取り戻し始めた。薄い橙から、鮮やかな橙へ。萎れて丸まっていた花弁が、ゆっくりと開いていく。力なく垂れていた茎が、見えない糸に引かれるように起き上がった。


 一本。二本。三本。

 太陽百合が、再び花弁をいっぱいに広げた。朝マルタが活けた時と同じ——いや、それ以上に瑞々しく、鮮烈な橙色が、夕焼けの光の中で輝いている。


 ルナは自分の指先を見つめた。

 銀色の光はもう消えていた。

 蘇った花を見ていると——胸の奥に溜まっていた冷たい澱が、ほんの少しだけ溶けていくような、力がみなぎっていくような気がした。


 枯れたものが、生き返る。

 ただそれだけのことが、今のルナには必要な光だった。

 (……私は、まだ枯れていない)

 肩にかけたマルタの上着を握りしめながら、ルナは橙色の花を見つめた。


 替えの衣服を手に戻ってきたマルタは、ルナの着替えを手伝いながら、ふと窓辺の花瓶に目を留めた。


「あら……」

 マルタの手が、止まった。

「……お嬢様。この花、朝お持ちした時には、もうかなり萎れかけていたんですよ。この暑さですから、半日も持たないだろうと思っておりましたのに」


 老女は花瓶に歩み寄り、しゃんと茎を伸ばした太陽百合の花弁に、そっと指先を触れた。みずみずしい花弁が、マルタの指の腹を押し返す。

「……復活している。こんなこと、あるのかしら」


 マルタは独り言のように呟いた。それから、何かを思い出したように眉を寄せた。

「熱で萎れた花は、天の治癒魔法でも蘇らせることができないのですよ。治癒は傷ついた細胞を再生させる力ですから、熱に焼かれて枯れたものにはうまく作用しないと、教会の方がおっしゃっていました。それなのに……」

 マルタは不思議そうに花とルナを交互に見た。


 ルナは何も言わなかった。ただ、少しだけ笑った。この城に来て、初めて浮かべた笑みだったかもしれない。小さくて、ほんの一瞬で消えてしまうような——けれど確かに、唇の端が持ち上がった。


 マルタはそれ以上は問わなかった。ただ、ルナの肩にかけていた自分の上着を丁寧に受け取り、新しい衣服の襟元を整えてやりながら、静かに言った。

「……お花が元気だと、気持ちも少し明るくなりますね」


 窓の外では、夕陽が沈みかけていた。赤い煙は今日も街の向こうに漂っている。

 けれど、花瓶の中の太陽百合だけは——夕闇の中でも、鮮やかな橙色を灯し続けていた。


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