忠実な騎士イグニス
会議が終わり、執務室の扉を開けた瞬間、レオンの側近騎士であるイグニスの視線がレオンを迎えた。
腕を後ろに組み、壁に背を預けて立っている。レオンより短い、橙色の髪が窓から差し込む夕焼けの日差しに溶けている。
琥珀色の瞳は険しく細められ、口元は一文字に引き結ばれていた。主君を待ち構えていた、という姿勢を隠す気もない構え方だった。
レオンは何も言わず、軍装の襟の留め金に手をかけた。一つ外すたびに、議場で張り詰めていた緊張が少しずつ弛む——はずだったが、イグニスの視線がそれを許さなかった。
留め金を三つ外したところで、イグニスが口を開いた。
「……殿下。先ほどの会議でのご立派な演説、感服いたしました」
声に敬意はあった。しかし、その敬意の裏に、もう一つ別の温度が張りついているのが聞こえた。
「ですが、一つお伺いしたいことがあります」
「なんだ。手短にしろ」
レオンは留め金の最後の一つを外しながら、振り返らずに答えた。
「数日前、王都の地下で開かれた闇オークションに潜入されたそうですね」
指が止まった。
「……そこで出品されていた『月の女』を、最高額で落札して城に連れ帰ったという話は本当ですか」
イグニスの琥珀色の瞳が、レオンの背中を真っ直ぐに射抜いていた。
レオンは留め金を外し終え、軍装の上衣を椅子の背にかけた。それから執務机の前に座り、積まれた書類の一枚目に目を落とした。
「……事実だ」
表情は変えなかった。声にも、一切の起伏を混ぜなかった。
「だが、勘違いするな。落札に使ったのは国費ではない。先の魔獣討伐で得た俺個人の報奨金と、私財だ。国庫には指一本触れていない」
「そういう問題ではありません!」
イグニスの声が弾けた。
バンッ、と両手が執務机を叩いた。積まれた書類の端が跳ね、インク壺が震えた。
「金の問題ではないのです! 殿下には、水の一族であるエレナ様との重大な婚姻が控えているのですよ!? 異常気象に熱病、国がこれほどの危機に瀕しているこの状況で——そのような出処も知れぬ『観賞用の奴隷』などにうつつを抜かしている場合ですか!」
イグニスの声は、怒鳴っているのではなかった。叫びに近かった。喉の奥から搾り出される、感情の制御を半分だけ手放した声。
「月の女なぞ、魔法も使えない、見た目が美しいだけの奴隷ではないですか! 一体なんの利があって——」
「イグニス」
レオンの声が、低く空気を断ち切った。
「言葉を慎め」
「慎めません!」
イグニスは机から手を離さなかった。指の関節が白くなるほど、天板を押さえつけていた。
「殿下がどれほど身を粉にしてこの国を、俺たちを守ってくださっているか……俺が一番よく知っています。だからこそ、あんな女狐のせいで殿下の名誉に泥が塗られるのが我慢ならないのです!」
琥珀色の瞳が、潤んでいた。怒りと忠義が区別できないほど混じり合って、その瞳の奥で燃えていた。
「たかが愛玩物一人に、なぜそこまで……」
イグニスの声が、僅かに震えた。
「あの会議で婚約を先延ばしにしたのも——まさか、その女のためですか」
執務室に、沈黙が落ちた。
レオンはペンを置いた。
ゆっくりと、イグニスを見据えた。
(——あんな掃き溜めのような場所で、危険な男の手に落ちそうになっていた女を、見過ごすわけにはいかなかった)
そう言えば、この男は納得するだろうか。
しないだろうな。
レオンは自嘲を飲み込み、冷酷な王族の仮面を被り直した。
「……闇オークションの元締めを炙り出すには、一番の目玉商品をこの手で押さえる必要があった。それだけのことだ。奴はただの証拠品に過ぎん」
「ならば、なぜ地下牢に入れないのです」
イグニスの声が、鋭さを取り戻していた。
「わざわざ殿下の部屋の隣室を与え、あまつさえ専属の世話係までつけるなど——証拠品に対する扱いではないでしょう」
「……っ」
レオンの眉間に、僅かな歪みが走った。
「……あの女は、月の長だという情報がある。簡単に死なれては情報の価値が下がる。それに——」
「それに?」
イグニスの瞳が、逃がさないという光を放っていた。
レオンは、一拍の間を置いた。
「……俺の所有物をどう扱おうと、俺の勝手だ。お前が口出しすることではない」
冷たく、低い声だった。
それ以上踏み込めば「不敬」にあたるという一線を、言葉の刃で引いた声だった。
イグニスの奥歯が、ギリッと鳴った。
拳を握りしめ、一瞬だけ俯き——そして、身を翻した。
「……承知、いたしました」
執務室の扉に手をかけた。振り返らなかった。
「ですが殿下、これだけは申し上げます」
背中越しの声だった。感情を押し殺しているのに、その声は震えていなかった。
「殿下の炎を鎮められるのは、水の一族だけです。——あんな得体の知れない月の女に、殿下を救うことなどできはしない」
一呼吸。
「どうか——ご自身の立場を、見誤らないでください」
バタン、と扉が閉まった。
重い木の反響が、執務室の壁を揺らし、やがて消えた。
広い部屋に、レオンだけが残された。
椅子の背もたれに、深く体を預けた。堰せきを切ったように、体の内側から呪いの熱が押し寄せてきた。議場では気力で抑え込んでいたものが、緊張の糸が切れた瞬間に溢れ出してくる。呼吸をするたびに、肺の奥が焦げるような感覚があった。
「……救う、か」
イグニスの言葉を、レオンは口の中で転がした。
城の皆が、エレナの水が自分を救うと信じている。水の一族の冷たい血を次世代に混ぜることが、帝国を存続させる唯一の道だと。
レオン自身も、そう信じていた。
あんな華奢な月の少女に、自分を救ってほしいなどと——そんな身勝手なことは、微塵も思っていない。思ってはいけない。
ただ。
なぜか。
彼女がこの城のどこかで息をしていると思うだけで、荒れ狂う内側の業火が——ほんの僅かだけ、息を潜めるような気がするのだ。
理由は分からなかった。分かりたくもなかった。
レオンは手袋を外した。
左手の指先から、微かに火の粉が散っていた。空気に触れた瞬間に弾ける、砂粒ほどの橙色の光。机の上の書類に落ちれば、紙は一瞬で灰になる。
この手が触れたものは、燃える。
──指の隙間から、サラサラと脆い灰が崩れ落ちていくあの夜の感触が、今も両手にこびりついて離れない。
火の粉を散らす自分の指先を見つめながら、レオンは誰にも聞こえない声で、静かに零した。
「……俺はただ、もう誰も壊したくないだけだ」
執務室の窓の向こうで、赤い月が昇り始めていた。終わらない月食の、あの禍々しい赤銅色。
レオンの横顔を薄暗く染め上げる。
民を救うための「正解」は分かっている。水の一族を娶り、自身の心を完全に殺すことなど、とうの昔に諦めて受け入れていたはずだった。
なのに──あの掃き溜めのようなオークション会場で、銀髪の少女を見つけた瞬間、すべてが狂ってしまった。
彼女に出会わなければ、今日あの議場で婚約を先延ばしにするような、無様で身勝手な迷いを抱くこともなかっただろう。
(……本当に、愚かな男だ)
レオンは自嘲を飲み込み、微かに火の粉を散らす自らの左手をゆっくりと握り込んだ。手のひらに走る灼熱の痛みよりも、あの暗い部屋で自分を真っ直ぐに睨み返してきた、涼やかな紫の瞳の残像が──どうしようもなく胸の奥を締め付けてくる。
なぜ、出逢ってしまったのか。
逃げ場のない熱を持て余したまま、レオンはただ一人、沈黙の赤い月を睨み据えていた。




