五つの頂点
議場の扉が閉じられると、空気の質が変わった。
大理石の円卓は、白い石を削り出したものだが、磨き上げられた表面には周囲の者たちの顔がぼんやりと映り込んでいた。五つの一族の当主——帝国を支える五本の柱が、それぞれの席に着いている。卓上に置かれた水差しの水面が、かすかに揺れていた。外の異常な気温が、石壁を越えてこの議場にまで忍び込んでいるのだ。
国王は病床にある為、円卓の上座に置かれた玉座は、空だった。
その傍らに座るのは、第一王子レオン・アルカード・フォン・アイゼンハルトだった。軍装の襟元を隙なく詰め、背筋を鉄柱のように伸ばし、黄金の瞳には何の感情も浮かべていない。
沈黙が、十秒ほど続いた。
それを破ったのは、水の音だった。
ヴァロワ公爵が水差しに手を伸ばし、自身のグラスに水を注いだ。その動作には、この場の主導権が自分にあると示すような、ゆるぎない傲慢さがあった。水の一族の当主。エレナの父。深い蒼の髪に白髪が混じり始めた壮年の男は、グラスの縁に指先を当てたまま、口を開いた。
「……南部の干ばつは、限界を超えている」
声は静かだったが、円卓の全員の肩が僅かに強張るのが分かった。
「我ら水の一族が雨雲を生成しても、地に落ちる前に蒸発する。その原因は明白だ」
公爵の蒼い瞳が、対面の席に座る男を射抜いた。
「——そこの『風』が、不吉な熱風を撒き散らしているからだ!熱病を広めているのもお前たちだろう!」
名指しされた風の一族の当主——アネモス侯爵は、席の上で身を縮めた。やつれ切った顔には土気色の疲労が染みつき、頬の肉がそげ落ちて頬骨が浮いている。席に着いていても、椅子の背にすがりつくような姿勢だった。
「お、お待ちください公爵……!」
すがるような声が、広い議場に薄く響いた。
「我々はただ、淀んだ空気を循環させようと風を起こしているだけです。しかし、大気に満ちる熱があまりにも異常で……どう風を操っても熱波に変わってしまう。決して我々が熱病を広めているわけでは……!」
「言い訳など聞きたくない!」
ヴァロワ公爵の声が、弁明を断ち切った。グラスの水面が、僅かに凍り始めていた。怒気に呼応して、彼の周囲の温度が目に見えて下がっている。
「結果として砂漠化と疫病を早めているのは貴公らだろう。疫病神の分際で、これ以上みだりに息を吐くな」
アネモス侯爵は深く頭を垂れた。反論の言葉を探しているのか、それとも反論する気力すら残っていないのか——膝の上で握りしめた拳だけが、小刻みに震えていた。
玉座の傍らで、レオンは奥歯を噛んだ。
(……違う。風の一族のせいじゃない)
口の中に、鉄の味が滲んだ。頬の内側を噛み切っていた。
(すべては——俺の中から溢れ出している呪いの熱が、この世界を焼いているせいだ。)
太陽の王の呪いが異常気象の元凶だと知れ渡れば、帝国の秩序は一夜にして崩壊する。レオンは血の味を飲み込み、無表情の仮面を微塵も動かさなかった。
「……風の当主を責めたところで、死者は減りませんぞ」
沈痛な空気に、別の声が割って入った。
地の一族のランドルフ伯爵だった。円卓の中で最も地味な身なりの男だが、その顔には実務を担い、民の惨状を最も近くで見てきた者だけが持つ深い疲労が刻まれていた。
「それよりも、クレメンス枢機卿」
伯爵は視線を、円卓の一角に座る白金の衣の男へと向けた。
「教会は毎日城下で、民に祈りと治癒を施しているはずです。にもかかわらず、なぜ熱病の死者は増え続けているのです。天の治癒魔法をもってしても、あの伝染病は治せぬと仰るのか」
円卓の視線が集まった。
クレメンス枢機卿は、焦るそぶりを微塵も見せなかった。白金の衣の胸元で、優雅に聖印を切る。その指先の動きは、議場の重苦しい空気とは別の時間を生きているかのように穏やかだった。
「お嘆きはご尤もです、ランドルフ伯爵」
枢機卿は伏せていた瞼をゆっくりと開いた。淀みのない声が、議場の壁に吸い込まれていく。
「ですが、誤解なきよう。我ら天の一族の治癒は、傷ついた細胞を再生し、肉体を修復する神聖なる力。……しかし、あの熱病は傷や怪我ではありません。体内に異常な熱が蓄積し、内側から臓器を焼く未知の伝染病です」
枢機卿の声は、説法のように滑らかだった。
「我々の光では、体内に巣食う病原体そのものを取り除くことは不可能なのです。焼け爛れる肉体を治癒で再生させても、病原体が残り続ける限り、患者の苦痛を長引かせるだけ——神の御心とはいえ、痛ましいことです」
どこか他人事のような余裕が、枢機卿の声の底に漂っている。ランドルフ伯爵は苦々しく顔を歪めたが、返す言葉を持たなかった。
「……公爵の仰る通り、風の不始末も由々しき事態ですが」
クレメンス枢機卿が、円卓の空気をなだめるように言葉を継いだ。
「根本的な原因は他でもありません。建国より代々、太陽の力を絶やさぬよう純血を守りすぎた結果……レオン殿下の代で、血が濃縮されすぎたのです。魔力が限界を超え、世界に溢れ出している」
議場の視線が、レオンに集まった。
四人分の視線。その一つひとつに、異なる温度が含まれていた。ヴァロワ公爵の冷徹な計算。アネモス侯爵のすがるような希望。ランドルフ伯爵の切実さ。クレメンス枢機卿の、静謐な祈り。
「……状況は猶予を許しません、殿下」
「その通りだ」
ヴァロワ公爵が、待っていたかのように顎を上げた。
「この暴走を鎮め、次代に平和を残すためには——我が水の一族の冷たい血を混ぜ、太陽を薄めるしかない。我が娘エレナとの間に後継を設けることこそが、帝国が生き残る唯一の道です。殿下、早急に婚約の儀を進めていただきたい」
円卓が、静まり返った。
レオンは動かなかった。
(——分かっている)
自身の熱が国を焼き、民を苦しめている事実は、誰よりも痛く理解していた。水の一族の力で次世代の血を冷ますしか、この国を救う手立てはない。それが、定められた「正解」なのだ。レオン自身も、そう信じていた。
口を開きかけた。
承諾の言葉を——。
その瞬間、脳裏を、銀色の光が横切った。
紫の瞳だった。
あの夜、暗い執務室で自分を見上げていた月の少女。顎を掴んでも目を逸らさなかった、折れない瞳。
(エレナとの婚姻が正解だ。次の世代が、この国を救う。俺の代は、それでいい)
そう思った。そう思ったのに。
(——なぜ、あの瞳が、頭から離れない)
喉の奥で、言葉が詰まった。承諾の二文字が、舌の上で灰になった。
レオンは、深く息を吸い込んだ。
「……卿らの憂慮は尤もだ。我が血統がもたらす熱が、民を苦しめている現実は重く受け止めている。帝国を存続させるため、水の一族との結びつきが不可欠であることもな」
ヴァロワ公爵の口角が、僅かに持ち上がった。
レオンは、その表情を黄金の瞳の端で確認してから、声の刃を研ぎ直した。
「だが——今ではない」
「……何だと」
「現在、王都の下層では熱病が蔓延し、国境では異常発生した魔獣の群れが民の命を脅かしている。死臭と飢えが漂う中で、王城だけが華々しい婚約の宴を開けばどうなる。民の目には、王家が現実の苦しみから目を背け、保身に走ったと映るだろう」
円卓に座る当主たちの息が、止まった。
「王の婚姻は、民の祝福の中で行われるべきものだ。——第一王子として、俺はまず直近の魔獣討伐と治安維持、そして熱病への対策を最優先する。正式な婚約発表は、この異常事態の底を脱してからだ」
レオンの声が、静かに議場を圧した。
「……異論はあるか」
それは問いかけの形をした沈黙の命令だった。黄金の瞳に宿る殺気が、円卓の一人ひとりの呼吸を抑え込んでいく。
ヴァロワ公爵は渋面を作ったが、口を開かなかった。正論で返された以上、この場で食い下がれば、水の一族こそが国難を利用していると見られかねない。公爵はグラスの水を一口だけ含み、それ以上は沈黙した。
重苦しい静寂が、大理石の円卓を支配した。
天のクレメンス枢機卿は静かに目を伏せ、地のランドルフ伯爵は疲労に満ちた息を細く吐き出した。風のアネモス侯爵に至っては、安堵と絶望が入り混じったような表情で、ただ震える手を握りしめている。
「……本日の議会は、これまでとする」
レオンは冷徹な声で解散を告げると、誰の言葉も待たずに踵を返した。
軍靴の硬い音が、高い天井に冷たく反響する。背後に残る五つの柱たちの、それぞれに異なる重い思惑と視線を背中で受け止めながら、レオンは重厚な議場の扉を押し開けた。




