閉じた瞼の向こう
気配で、目が覚めた。
正確には——目は覚まさなかった。意識だけが浮き上がって、瞼はそのまま閉じていた。
アルテミスが飛び去った後、マルタのお茶のおかげか、珍しくそのまま眠りに落ちていた。この城に来て初めての、途切れない眠り。それを破ったのは、物音ではなかった。
空気が、変わったのだ。
部屋に充満していた城特有の乾いた熱が、ほんの僅かに密度を増した。誰かの体温が、扉の向こうから忍び込んできたかのように。
鍵が回る音。
金属が金属の中を滑る、微かな擦過音。マルタの鍵の回し方ではなかった。マルタはいつも、カチリと小さく一度で回す。この音は違った。ゆっくりと、慎重に、音を殺すようにして——少しずつ回している。悟られまいとする意思が、その音そのものに滲んでいた。
蝶番が軋んだ。息をするほどの幅だけ扉が開き、やがて閉じる音。
足音。ほとんど聞こえなかった。石の床を踏む靴底の音が、常人であれば聞き取れないほど抑えられている。忍び足というよりも、音を立てない歩き方を知っている者の足運びだった。だが、完全に消しきれないものがあった。
熱だ。
一歩ごとに、空気の温度が上がっていくのが分かった。寝台に横たわったまま、閉じた瞼の裏に何も映らなくても——ルナの肌が、その接近を読み取っていた。まるで暖炉が歩いてくるような、じわじわと皮膚の表面を炙る種類の熱。
レオンだった。
足音と体温だけで分かった。この城に、こんな熱を纏って歩く人間は一人しかいない。
心臓が、強く脈を打った。
(——来た)
昼間の記憶が、瞼の裏に一瞬で蘇った。
薄い絹の感触。肩にまとわりつく布。侍女たちの嘲り。
——ただの性処理よ。あなたはそれ以上でも、それ以下でもないの。
あの言葉と、今この部屋に近づいてくる足音が、ルナの頭の中で重なった。
ついに——「その役目」を果たしに来たのか。
全身が強張った。肩から背中にかけて、筋肉が石になったように硬直する。指先が微かに震えたが、それを悟られるわけにはいかなかった。掛け布の下で拳を握りしめ、呼吸を——ゆっくりと、深く、眠っている人間のリズムに戻した。
目を開けてはいけない。
なぜそう思ったのか、分からなかった。恐怖からではなかった。目を開けてしまえば、何かが変わってしまう——何かが、壊れてしまう。言葉にできない直感が、瞼を重くしていた。
足音が、止まった。
寝台の、すぐ横だった。
呼吸の音が聞こえた。ルナの呼吸ではない。もっと深く、もっと重い——それでいて、意識的に音を殺している呼吸。抑えている。何かを堪えるように、喉の奥で細く、長く息を吐いている。
視線を感じた。
瞼の上から、降り注いでくるような重さがあった。体の表面が、もう一人の人間の注視を物理的に受け止めている。額に、頬に、顎の線に、鎖骨に——視線が触れていくのが分かった。触れていないのに、触れられているのと同じだけの圧があった。
時間が引き延ばされていた。
どれだけそうしていたのか、分からない。閉じた瞼の向こう側で、あの男はただ——立っていた。何もしなかった。何も言わなかった。ただ、見ていた。
やがて、寝台が僅かに沈んだ。
ルナの心臓が、跳ねた。
体重が加わった沈み方だった。マットレスの綿が圧縮され、寝台の木枠が微かに軋む音。レオンが——寝台の端に、腰を下ろしたのだ。
ルナの右側。腰のあたり。すぐそこに、あの異常な体温の塊が座っている。
呼吸を乱すわけにはいかなかった。心臓の鼓動が耳の中でうるさすぎて、自分の血流の音しか聞こえなくなりそうだった。掛け布の下で握りしめた拳に、爪が食い込んでいる。痛みで、意識を繋ぎ止める。
(動かないで。何もしないで。お願いだから——)
祈るように、息を詰めた。
沈黙が、部屋を満たしていた。
城の壁の向こうを、夜風が撫でる音。遠くの廊下で、魔法の灯火が消える微かなパチリという音。石壁が、昼の熱を手放していく小さな軋み。普段なら聞こえないはずの音が、今夜に限って一つひとつ鮮明に届いてくる。閉じた目が、耳を研ぎ澄ませていた。
レオンの呼吸が、変わった。
それまで抑制されていた呼吸が——ほんの少しだけ深くなった。何かを飲み込むような間があり、それから。
「……お前は」
声だった。
限りなく小さな声だった。
聞こえるか聞こえないかの境にある、吐息に言葉を乗せただけのような囁き。眠っている人間には届かないことを確かめた上で、それでも口にせずにはいられなかった——そういう種類の声だった。
「——覚えて、いないのか……」
ルナの指が、掛け布の下で硬直した。
その声は、知らない声だった。
あの夜、執務室で「ペットには首輪をつけるのが当然だろう」と言い放った声ではなかった。「お前の仲間など興味ない」と切り捨てた声でもなかった。毎朝マルタに「異常はないか」と確認する、感情を削ぎ落とした声とも違った。
切なげだった。
そしてどこか——温かかった。
喉の奥に長い年月を溜め込んだまま、ずっと誰にも聞かせずにいた声。鍵のかかった箱を、暗がりの中でそっと開けるような——そんな声だった。
覚えていないのか。
何を。何のことを。
問いかけたかった。目を開けて、振り返って、あなたは今何を言ったのかと——そう問いたかった。けれど体が動かなかった。動かしてはいけないと、体のどこかが拒んでいた。今、目を開けたら、あの声は永遠に消えてしまう。冷酷な王子の仮面が戻ってきて、二度とこの声を聞くことはできなくなる。
だから——閉じていた。瞼を。拳を。呼吸を。全部。
空気が、動いた。
何かが、近づいてきた。音はなかった。ただ、ルナの頬のすぐ傍を、温もりの気配が掠めた。この城に来てから感じてきた、あの灼けつくような熱とは違う。抑え込まれた——いや、意図的に鎮められた温度。炎を限界まで絞り込んだ燭台のように、かすかに揺れながらも穏やかな温もりが、ルナの肌に触れようとしていた。
手の甲が、ルナの頬に触れた。
息が止まった。
飛び起きそうになった。全身の神経が一斉に叫んだ。だが、ルナは——歯を食いしばって、動かなかった。掛け布の下で握りしめた拳の爪が、掌の皮膚を破りそうなほど深く食い込んでいた。
温かかった。
あの夜、顎を掴まれた時とは、まるで違う温度だった。あの時は鍛冶場の残り火のように肌を灼いた手が、今は——まるで別人のように穏やかな熱を宿していた。心地よかった。人肌より少しだけ高い、春の陽だまりに手をかざした時のような、じんわりと沁み入る温もり。この男の中に燃えている炎を、ルナの頬に触れるためだけに、ここまで小さく抑え込んでいるのだと——閉じた瞼の裏で、なぜかそう思った。
顎を掴んだ時のような支配の力は、どこにもなかった。手の甲が頬の曲線をなぞるように滑り、髪の生え際に触れ、銀色の前髪の一房を、ほんの指先で——払った。
その動きは、壊れやすいものに触れる人間の動きだった。
あまりにも、慎重だった。あまりにも、丁寧だった。
こんな触れ方をする手が、あの冷酷な男のものだとは信じられなかった。人を「ペット」と呼び、首輪を嵌め、命令と沈黙だけで他者を支配する——あの手と同じ手が、今、ルナの頬を撫でている。
手の甲の温もりが、頬の皮膚の下にゆっくりと沁みていった。月の一族の冷たい肌が、触れた場所だけほのかに灯をともされたように温まっていく。
レオンの指先が離れた。
名残のように、一瞬だけ——空気の中に、彼の体温だけが残った。
寝台が軋んだ。体重が抜ける沈み方。レオンが立ち上がったのだ。
足音が、遠ざかっていった。
来た時と同じ、ほとんど聞こえない足音。一歩。二歩。三歩。扉の蝶番が軋み、金属が金属の中を滑る音。鍵が——外側から、静かに回された。
足音が廊下を進み、角を曲がり、聞こえなくなった。
部屋に、沈黙が満ちた。
ルナは、目を開けた。
天蓋の薄絹が揺れていた。淡い金色の光は消えている。部屋は暗かった。赤い月の光だけが、窓ガラスを通して床に薄く伸びている。
頬に手を当てた。熱が、残っていた。
レオンの手の甲が触れた場所だけが、まだ微かに温かかった。月の一族の冷たい肌の中に、小さな火種が一つだけ埋め込まれたような——消えかけているのに、消えきらない温度。
心臓が、まだ速かった。
掛け布の下で握りしめていた拳を、ゆっくりと開いた。掌に、爪の跡が四つ、赤く残っていた。
——覚えて、いないのか。
あの声が、まだ耳の奥にこだましていた。
何を覚えていないのか、ルナには分からなかった。あの男と会ったのは、闇オークションの壇上が初めてだったはずだ。それ以前に、レオンと出会った記憶はない。
それなのに——あの声は、再会の声だった。
初めて会う人間に向ける声ではなかった。長い時間を越えて、ようやくもう一度出会えた相手に向ける——そういう種類の声だった。
分からない。何も分からない。
けれど、頬に残る熱だけは——嘘を吐いていなかった。
ルナは掛け布を顎の下まで引き上げ、頬に当てた自分の指先をそのまま離せずにいた。冷たい指の下に、彼の温度がまだ微かに、微かに残っている。
その熱を逃がしたくなくて——ルナは、指を頬に当てたまま、目を閉じた。
眠れないと思った。
けれど、頬の温もりに導かれるように、意識はゆっくりと沈んでいった。
夢の中で、暗い森を歩いていた。
太い樹木の根元に、金色の光が揺れていた。光の奥に、瞳があった。あの黄金の眼光が、木漏れ日のように闇を縫って、こちらをじっと見つめていた。切なげに、まるで何かを伝えようとして言葉を持たない獣のような目で。
——けれど目覚めた時には、何も覚えていなかった。
頬だけが、まだ少しだけ、温かかった。




