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姉の旅立ち  作者: ENO
最終部 Everybody’s gotta learn sometimes
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57 Everybody's gotta learn sometimes (5)

 姉が、私の様子を窺っていた。

「誰からの電話?」

「ああ、副島さんから」

「副島さん? この前はえらい警戒してたけど、いまは随分と親しげやん」

「話してみれば、それほど危ない人でも、悪い人でもなかったわけや」

「ふうん。そうなんや」

 姉はそれ以上きかなかった。

 私が電話している間に、ドラム缶の中の火は小さくなっていた。煙も同様だった。ドラム缶に放り込まれたアルバムはもう少しで燃え尽きようとしている。

 私は自分の服の匂いを嗅いだ。煙にあたったせいで、煤臭かった。家の中に戻ったら、すぐに洗濯機に服を放り込もうと決めた。

「ねえ、もうアルバムは燃え切った?」

 私は姉にきく。姉は頷いた。

「うん、ほとんど灰になった」

「…まったく、こんなことしてなにになるんだか」

「いったやん。ただの景気づけや。暗かった自分は消えへんけど、いつまでも暗かった自分を見てる必要はない。昔があってのいまの自分に集中するんや」

 姉はきっぱりとした口調でいった。その瞬間、姉の目には、強い光が宿っていた。前へ進んでいこうとする意志が感じられた。

 変わったものだな、と私は思った。その目の輝きにしろ、その言葉にしろ、以前の姉には持ちえないものだった。姉は姉なりに変わろうとしている。その変わりようが、私には眩い。

 とうとうアルバムは燃え尽き、同時に火も煙も消えた。姉はてきぱきと後片付けをして、灰を庭の土に撒き、ドラム缶を物置にしまった。片付けを終わると、手をはたいて汚れを落とし、それから大きく伸びをする。細く長い腕が、晴天に突き出された。

「さあ、いくわ」

 姉は私に振り向き、そういった。

「これからどこへ?」

「京都。八坂までいってくる」

 八坂ときいて、私は誰と会うのかを察した。

「村岡さんと?」

「うん、そう。円山公園でもぶらぶらするんちゃうかな」

「そう…」

 昨日までの激しい嫉妬心は、不思議と湧かなかった。姉には敵わないという気持ちが強くなっている。姉も先輩も、私にはもう手の届かないところにいる、そんな気になっていた。

 かすかな寂しさと悲しさを覚える。姉がどんどん私から遠くなっていく。

「ねえ、お姉ちゃん」

「なに?」

「今日もし家に帰らへんかったら、お姉ちゃんのこと恨む」

 私がいうと、姉は笑った。

「前は逆のことゆうてたくせに」

「それはそれ、これはこれや」

「心配せんでも、ちゃんと帰ってくるよ」

 姉は私に笑いかけた。私はじっと姉を見つめる。

「いくで、私は」

 姉はそういった。その場から歩き出そうとする。

「ちょっと待ち、お姉ちゃん」

 私は姉を呼び止めた。

「煤臭いままでいくん? 着替えるか香水つけるかしてからいき」

 姉の服装は余所行きのものだったが、煙にあたった状態では、とても人に会えたものではない。私にいわれて姉は服の匂いを嗅き、顰め面を見せた。

「ほら、早く着替えてきな。私の服使ってもいいから」

 私はいう。姉はありがとうというと、急いで部屋に戻り、服を替えた。姉はいつか私が貸した青のセーターに、自分の灰色のチェスターコートを羽織っていた。

「うん、それでええ。香水持ってる? それもちょっとつけたら、ましになるわ」

「ごめん、紗香。ありがとね」

「ええよ。礼をいわれることやない」

「ありがと」

 姉は頬を緩ませた。

「ねえ、お姉ちゃん」

「なに?」

「私も、お姉ちゃんみたいに変われるんやろか? 過去のことがあっても、それでも新しいなにかを始められるんやろか?」

「前、紗香がいってたやん? 紗香にできて、私にできないことはないって。私にできて、紗香にできないことはないよ」

 優しく、笑顔で姉はいう。

 私もつられて笑った。

「そうか、せやんな。自分で、そんなこといってたな」

 姉ができたのだ。どうして私にできないというのだ。そう考えると、気が楽になった。

 肩の力が抜けた私を見て、姉は安心したようだった。

「ほなね、いってくるね」

「うん、いってらっしゃい」

 姉は家を出ていった。足取りは軽やかに、玄関や門扉を開ける音を残して、風のように去っていく。てくてくとバス停まで歩いていく姉の姿が、容易に想像できた。円山公園をのんびりと歩く姉と村岡先輩の姿も、容易に想像できた。想像の中で二人は、秋の風の中で穏やかに笑いあう。

 私は一人庭に残った。 

 姉が燃やしたアルバムの灰が、姉がもはやそれまでの姉ではないことを私に無言で告げている。姉にとってあのアルバムは、必要以上に自分を縛りつけるなにかだったのだろう。もういい加減に暗く寂しい過去だけに目を置いていたくない。現在も未来も見据えていたい。姉がアルバムを燃やしたのは、そんな意志の表れだったのか。

 風は緩やかで、陽射しは柔らかだ。広くはない秋の庭に、鮮やかに陽が射し込む。陽に照らされた楓を見ながら、思索する。

 姉は変わり、新しい道を歩き始めた。過去を認め、過去を乗り越え、新しいなにかを始めようと、旅立った。姉がこれからどうなるのか、それはわからないし、私の知ったことではない。だがともかくも、姉には始まりがやってきた。

 私はどうなるんやろか。

 そう思ったとき、先ほどの姉の言葉が蘇る。姉にできて、私にできないことはない。そうだ、私も過去への執着を捨て、過去を見つめ直し、新しいなにかを始めるべきではないのか。姉ができたのだ。私にだって、試してみる価値はあるはずだ。

 まずはなにから始めよう。

 結論を出すよりも先に、無意識に体は動いていた。ポケットの携帯を取り出し、番号を探る。

 諒に話をしよう。できることなら、彼に直接会って、謝罪をし、これまでのことを本音で話そう。傷も痛みも共有する、上辺でない話をしよう。

 もはや躊躇いはなかった。副島のいう通り、やり直すには、そもそも行動することが必要なのだ。

 指先で画面に触れると、発信音が鳴る。心臓の鼓動が同期する。三秒の間があって、彼の声がきこえた。

 私は深呼吸する。彼の顔が、無意識に思い浮かぶ。謝罪の気持ちと淡い願いを込め、私は言葉を発した。


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