第8話 姉弟を分ける声
契約の翌朝、ユリウスはいつもより早く訓練場へ出た。
先に来ていたリヴィアは、すでに百回目の素振りを終えていた。
鍛錬の精霊とともに身体へ負荷を加え、百回の素振りを終えたばかりなのに、呼吸はほとんど乱れていなかった。
「おはよう、姉上」
「遅い」
「いつもより早いよ」
「私はもっと早かった」
反論できなかった。
リヴィアが剣先で、壁際の訓練用の剣を示した。ユリウスが構えるのを待ち、彼女も剣を構え直す。先ほどまでの鍛錬の疲れを感じさせず、歩調も姿勢も乱れない。
「全知に聞いてもいいわよ。私が最初にどこを狙うか」
「姉上自身がまだ決めていないなら分からない」
「昨日のうちに決めた」
金色の瞳へ問う。
『左肩』
ユリウスは左を守った。
剣が触れたのは右足だった。
「ずるい!」
砂へ転がりながら叫ぶと、姉は涼しい顔で剣を引いた。
「最初に狙ったでしょう。狙った場所へ、そのまま打つとは言っていない」
瞳を睨んだ。
『問いは、最初に狙う場所』
「分かってるよ」
『誤認の可能性を指摘した』
「終わってからね」
精霊は瞬きもしなかった。
もう一度構える。次は姉の足運びを問い、過去の稽古で使った技を知った。それでも三合ももたずに剣を落とされた。
「答えを聞いてから動いている」
リヴィアが言った。
「知ったときには、私はもう動いているわ。あなたは以前より迷わなくなった。でも、その間に私は六年分、同じ動きを繰り返してきた」
六年。
ユリウスの年齢とほとんど同じ長さだ。精霊の格が上だからといって、朝起きればその年月が埋まるわけではない。
「追いつくよ」
「ええ」
姉は否定しなかった。
「だから私も、進む」
差し出された手を取り、ユリウスは立った。悔しかったが、嬉しくもあった。全知の精霊と契約した昨日より、今のほうが姉を少しだけ正しく見られた気がした。
午後、家臣たちを集めた評議では、その六年が別の意味で語られた。
契約の儀より前なら、後継者教育に関する評議で父の隣に座るのはリヴィアだけだった。今日は反対側に、ユリウスのための椅子が増えている。誰が命じたのか尋ねても、給仕は「評議に必要と伺いました」としか答えなかった。
椅子一脚に意味などないはずだった。
それでも姉の席と同じ距離に置かれた自分の席を見ると、ユリウスは座る前に足を止めた。少し後ろへ動かせば、今までと同じになる。手をかけたところで、リヴィアが言った。
「そのまま座って」
「でも、これは姉上の席と――」
「椅子を遠ざけたくらいで、昨日の契約はなかったことにならないわ」
ユリウスは手を離した。
二脚は同じ机を向いているのに、家臣たちは座る場所を選ぶとき、どちらの椅子に近いかを気にした。昨日まで一つだった集まりが、まだ名もない二つの群れへ分かれていく様子が見えた。
「リヴィア様には、すでに軍務と政務へ備えた教育と、当主を補佐なさった実績がございます」
「しかしユリウス様の契約相手は大精霊です。しかも、あれほど強く顕現する例など――」
「格だけで家を率いることはできぬ」
「格を無視して将来を決めることもできません」
ユリウスは父の左、リヴィアは右に座っていた。ほんの数歩しか離れていないのに、家臣たちの言葉は二人の間へ見えない壁を積んでいった。
家督は生まれた順だけで決まらない。精霊の格、魔力量、能力、実績、支持。最も家を存続させられる者が選ばれる。けれど弟妹が追いつくころには、長子はさらに先へ進んでいる。それが、これまで争いを少なくしてきた仕組みだった。
ユリウスの全知は、その時間差を壊しかねない。
「知るだけで成長する大精霊です」
「知らせることも成長になると聞く。王家の教育を受けるだけで、どれほど――」
「まだ七歳だ」
「七歳だからこそです」
当人を前にしているのに、未来のユリウスだけが勝手に大きくされていく。
「私は姉上と争うつもりはありません」
声を上げると、数人が口を閉じた。しかし別の家臣が、穏やかな顔で答えた。
「お気持ちではなく、御力について申し上げております」
「力があっても、使わなければいい」
今度は隣から、鋭い声が飛んだ。
「それは許さない」
リヴィアだった。
家臣たちが静まり返る。
「私のために知らぬふりをするな。力を隠すな。負けてやろうなどとは、二度と思わないで」
「でも――」
「私が欲しいのは、弱くなったあなたより価値があるという評価ではない」
姉の眼差しは真っ直ぐだった。怒っている。今度は精霊に聞かなくても分かった。
マルクスが低い声で評議を打ち切った。
「契約翌日に後継を決める家はない。リヴィアはリヴィアの務めを、ユリウスはユリウスの教育を続ける。それ以外の結論を、今日ここで口にすることは許さぬ」
命令に、家臣たちは頭を下げた。
だが口を閉じることと、考えを捨てることは同じではない。
人が去ったあと、父は誰もいない席を見つめていた。そこにはかつて、父の弟アウレリウスが立っていたのかもしれない。記録でしか叔父を知らないユリウスには、父が何を重ねているのか分からなかった。
問えば、金色の瞳は答えられないと言うだろう。
「姉上」
廊下へ出てから呼ぶと、リヴィアは足を止めた。
「僕が強くなるのは、嫌じゃない?」
「嫌ではないわ」
返事はすぐだった。
「怖くはある。でも、あなたが弱くなるほうがもっと嫌」
「僕も姉上が強いと嬉しい」
「なら、明日も稽古ね」
その答えに笑い合い、二人は同じ方向へ歩きだした。
角を曲がる直前、背後の小声が耳へ入った。
「リヴィア様が継ぐべきだ」
「今のうちから、ユリウス様を支える者が必要だ」
振り返ると、声の主たちは別々の扉へ消えていた。
姉弟の歩幅は揃っている。
それでも、二人を分けようとする声だけが、屋敷のあちこちに残っていた。




