第7話 問わなければ分からない
契約の儀が終わって半刻もしないうちに、ユリウスは父の執務室へ連れてこられた。
正面にはマルクス。隣にはクラウディア。窓際ではリヴィアが腕を組み、そのそばに金色の瞳が浮かんでいる。精霊は居場所など気にしないらしく、時折、姉の髪を透かして向こう側へ移動した。
「まず、何ができるか確かめる」
父の声に、儀で見せた動揺はもう残っていなかった。
「全知の精霊へ、私が今考えていることを問え」
ユリウスは瞳を見上げた。
「父上は今、何を考えていますか」
『知り得ない』
返答は短かった。
「全知なのに?」
『人の胸中は、情報として存在しない』
父が片方の眉を上げた。母は目を伏せ、姉は小さく笑った。
「では、姉上は今、僕に腹を立てていますか」
『知り得ない』
「腹を立てているわよ」
リヴィアが先に答えた。
「どうして?」
「儀を終えたばかりなのに、私の顔を見ず精霊へ聞いたから」
もっともだった。ユリウスは姉へ謝り、改めて表情を見た。口元は少し上がっている。腹を立ててはいても、本気で怒っているわけではなさそうだ。
瞳は何も補足しなかった。
「人の心が分からないのなら、何が全知なんだろう」
『問え』
「だから、それを尋ねているんだけど」
『問いが広い』
言葉の壁へ小石を投げ、同じ小石を投げ返されたような気分になった。
マルクスが机の上から記録板を一枚取った。
「昨年、カルディス家が東部へ送った穀物の総量は」
ユリウスが同じ問いを精霊へ渡すと、今度は数字と内訳が一息に頭へ流れ込んだ。執務室に保管されている帳簿のどの記載を合計すればよいかまで分かる。
答えると、父は別の記録板を確かめた。
「合っている」
「父上が知っていたからですか」
『帳簿に記録されている』
「帳簿がなければ?」
『別の情報を参照する』
「誰も数えていなければ?」
『個々の出来事を調べる必要がある』
一つ答えが返るたび、三つほど疑問が増えた。ユリウスが続けて口を開こうとすると、父が手で制した。
「順に試せ。一度にすべてを知ろうとするな」
儀で最初に返された不可能という言葉を思い出す。全知とは、世界のすべてが最初から頭へ入っている状態ではないらしい。扉が無数に並んでいても、取っ手へ手を伸ばすのはユリウス自身だった。
彼は今度こそ、狭い問いを選んだ。
「今朝、僕が使っていた筆記具はどこにありますか」
『寝室の机の下。奥から二番目の脚の左』
「どうしてそこへ?」
『原因を示す記録も、覚えている者もいない』
「分からない?」
『答えとなる情報が存在しない』
母が侍女へ確認を命じた。ほどなく、答えどおりの場所から筆記具が見つかったと報告が入る。
ユリウスの胸の奥が微かに熱を帯びた。魔力を使ったはずなのに、何かが減っただけではない。新しいことを知った喜びへ、精霊が応じている。
「知ることで、育つ……?」
『是』
「では、僕が知ったことを誰かへ教えたら?」
『育つ』
「父上。筆記具は見つかりました」
「今の報告で試そうとするな」
父に見抜かれた。窓際でリヴィアが吹き出す。けれど、その笑いを聞いた瞬間にも、ユリウスの中でごく小さく魔力が動いた。
知り、知らせる。そのどちらも全知の精霊が司るものらしい。
マルクスは扉の外にいる護衛へ目を向けた。
「声を出さず、あの者だけへ伝えられるか。書庫から赤い表紙の記録帳を持ってくるよう知らせろ」
ユリウスは護衛の姿を思い浮かべ、精霊へ頼んだ。
声も光も飛ばなかった。それでも扉の向こうで鎧が鳴り、護衛が驚いた顔を覗かせる。
「今、殿下のお声が、頭の内に――」
「内容は」
「赤い表紙の記録帳を、書庫から持参せよと」
正しく届いている。ユリウスが喜ぶと、金色の瞳がわずかに明るくなった。
「便利ね」とリヴィアが言う。「稽古であなたが降参するとき、遠くからでも聞こえるわ」
「そんなことには使わないよ」
『用途の制限は受けていない』
「金の目はどちらの味方なの?」
『契約者の精霊』
答えになっているようで、なっていなかった。
「僕はこれから、勉強するだけでも強くなるのですか」
『是』
リヴィアの笑みが消えた。
ユリウスはそれに気づかないまま、答えのもたらす可能性へ胸を躍らせていた。
マルクスは長く沈黙した後、全知の精霊を見た。
「この子は、将来リヴィアを超えるか」
『知り得ない』
「未来だから?」とユリウスが尋ねる。
『未来であり、未決定である』
リヴィアが組んでいた腕を解いた。
「なら、私が決めるわ」
彼女は訓練用の剣をユリウスへ投げた。慌てて受け取る。
「稽古をする。今日は休まないと、今決めた」
全知にも、姉が決めるより先には分からなかった答えだった。
ユリウスは剣を握り、金色の瞳を見た。
瞳はただ見返してくる。
問わなければ分からない。問うても分からないことがある。
そして答えが存在する前に、人はそれを選ぶことができる。
その日のユリウスは、まだ、その意味の深さを知らなかった。
夜になって一人きりになると、ユリウスは寝台の脇に浮かぶ瞳へ、昼間には口にできなかった問いを小声で投げた。
「地球で、雲が生まれる仕組みを教えて」
水が熱を受けて見えなくなり、高く上がって冷え、小さな滴となる。言葉だけではない像と仕組みが、頭の中へほどけていく。以前から輪郭だけ知っていた知識が、空白を埋められて明瞭になった。
「じゃあ、地球にいたころの僕の名前は?」
『知り得ない』
「男だった? 女だった? 何をして生きていた?」
『知り得ない』
胸の内側を、冷たいものが通った。世界の知識は残っているのに、自分自身のことだけがない。全知の精霊を得ても、その空白は埋まらなかった。
『誤認』
「え?」
『失われた情報が、すべて存在するとは限らない。存在しない答えは得られない』
慰めではない。ただ、精霊はユリウスが力を誤って理解することを許さなかった。
金色の瞳が、眠りにつくまでそこに浮かんでいた。




