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全知の精霊は王冠の行方を知らない  作者: Tatsumaru


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第6話 金色の瞳

契約の儀を迎えた朝、ユリウスは右の袖口を母に捕まえられていた。


「動かないでください。糸が指に刺さります」


「昨日までは何ともなかったのに」


「何ともなかった袖が、ひとりで裂けたりはしません」


 クラウディアの指先で、礼装の小さなほつれが消えていく。針を使っているようには見えない。切れた糸同士が、母の指へ引かれるように寄り、元からそこに傷などなかったかのように絡み直していた。


 大広間では、もう人が待っているはずだ。父も姉も、家臣たちも。それを思うと喉の奥が落ち着かなかった。


「怖いのですか」


 母は袖しか見ずに尋ねた。


「少し。誰にも選ばれなかったら、皆が困るでしょう」


「困りますね」


 あっさり肯定され、ユリウスは目を瞬いた。


「ですが、それであなたがあなたでなくなるわけではありません」


 クラウディアは最後の糸を撫でた。繕い終えた袖口には、ごく薄い線だけが残った。


「直せないものもあります。直さなくてよいものも。今日のあなたがどちらであっても、私は迎えに来ます」


 安心させるには不器用な言葉だった。それでもユリウスの胸の騒ぎは、ほんの少し静まった。


 廊下へ出ると、壁にもたれて待っていたリヴィアが身を起こした。姉も儀礼用の装いだったが、手にはいつもの訓練用の剣を持っている。


「どうして剣を?」


「終わったら稽古だから」


「今日くらい休んでもいいんじゃないかな」


「今日だから休まないの」


 姉はそう言って先に歩きだした。六年前に自分の儀を終えた人の背中には、迷いがない。ユリウスはその足跡を踏まないよう、半歩ずれて後を追った。


 儀の場には、カルディス家の者だけでなく、儀式を見届ける役目の者も集まっていた。父マルクスは当主の席に立ち、家臣たちは左右へ分かれている。誰も大声で話してはいない。それなのに、期待と値踏みの視線が重なり、空気だけが騒がしかった。


 七歳の王族が一歩進み、契約を望む。


 それだけで、世界の輪郭が変わった。


 最初に感じたのは熱だった。炎ではない。胸を張り、敵へ向かいたくなるような熱。その向こうでは、足元の石がひどく懐かしく感じられた。耳を澄ませば、遠いところで誰かが祈り、何かを壊し、何かを学んでいる。姿を結べない気配がいくつも寄ってきて、ユリウスの中を覗き込んだ。


 精霊は概念を司る。


 教本で何度も読んだ一文が、初めて実感として分かった。彼らは人ではない。人と似た姿を取る必要さえない。ただ、自らに近いものをユリウスの魂に探している。


 ユリウスもまた、彼らを知りたいと思った。


 その瞬間、ほかの気配が遠のいた。


 暗い場所で、一点だけが開く。


 瞳だった。


 金色の虹彩が、何もない空間に浮かんでいた。人の頭ほどもあるのに、不思議と恐ろしくはない。瞬きもせず、ユリウスだけを見つめている。その奥には夜空より深い何かがあり、見返した途端、知らない文字、遠い山脈、海の底、星の巡りが一度に押し寄せた。


 息が詰まった。


 自分の中には収まりきらない。そう思ったのに、金色の光は魂の縁で砕けず、底を探すようにさらに深く沈んでいった。


 見届け役が、儀式を支えるために上げていた手をゆっくり下ろした。格の高い精霊ほど、人の側が受け入れきれずに遠ざかることがある。教本で読んだ説明が、周囲の緊張から思い出された。


 だが瞳は遠ざからない。


 むしろ、ユリウスという器の形を確かめるように、光の筋を幾重にも伸ばした。胸の奥の、本人にも触れられない場所へ一つ。地球の空と帝国の空をどちらも懐かしいと思う、名前のない境目へもう一つ。


 そこには、七年だけでは作れないほど深い空間があった。


 ユリウス自身は、それを知識をしまう余白だとしか思わなかった。


「受け入れている……」


 誰かの掠れた声がした。


 リヴィアが半歩前へ出る。助けるべきか、儀を乱さず見守るべきか迷ったのだろう。剣を持つときには見せないその迷いを、ユリウスは白い光の向こうに見た。


 広間のどこかで、誰かが息を呑んだ。


「大精霊……」


 呟きが聞こえた。


 ユリウスの脳裏へ、言葉ではない問いが触れた。


 ――知ることを望むか。


 答えを考えるまでもなかった。


「望みます」


 知らないままにしておけば、困らずに済むこともある。それは分かっている。けれど、なぜ、と胸に浮かんだものを放置するほうが、ユリウスにはずっと難しかった。


「私は、知りたい」


 金色の瞳が初めて瞬いた。


 光が溢れ、ユリウスの視界を白く染める。熱でも痛みでもないものが身体を通り抜け、心臓とは別の場所で新しい脈が打った。自分の内側に、これまでとは比べものにならない広がりが生まれていく。


 膝が落ちかけた。


 床へつく寸前、リヴィアの腕が脇から支えた。


「立って」


 姉の声は近く、確かだった。


「あなたが選んだのでしょう」


 ユリウスは奥歯を噛み、脚へ力を戻した。白く霞んでいた視界が晴れる。


 父は席から動いていなかった。ただ、肘掛けを握る指にだけ、普段より強く力が入っている。


 家臣たちの顔には驚きがあった。それだけではない。喜んでいる者、青ざめている者、すでに何かを計算し始めた者。同じ出来事を見たはずなのに、その表情はばらばらだった。


 その中で母だけは、朝に繕った袖口を見ていた。光を受けても、細い補修の跡は消えていない。クラウディアはそれを確かめると、ようやく強張っていた息を吐いた。どれほど大きな精霊に選ばれても、袖を破る七歳の息子まで別のものになったわけではない。その顔は、そう言っているように見えた。


 そして金色の瞳は消えなかった。


 契約が終われば精霊界へ戻るはずの気配が、ユリウスの肩の上あたりへ静かに浮かんでいる。あまりに明瞭な顕現に、見届け役の者まで言葉を失っていた。


「全知の精霊」


 父が重々しく呼んだ。


 瞳はマルクスへ向かず、ユリウスだけを見ていた。


「お前は、何を知る」


 その問いが自分に向けられたものか、精霊へ向けられたものか、ユリウスには分からなかった。


 だから正直に答えた。


「できるなら、全部を」


 金色の瞳から、今度ははっきりと言葉が届いた。


『不可能』


 儀の場に、奇妙な沈黙が落ちた。


 全知を名乗る精霊から最初に教えられたのが、不可能という答えだった。


 ユリウスが呆気に取られていると、瞳はわずかに細められた。


『問え』


 たった一語だった。


 けれどその一語によって、ユリウスの前には、世界より広い入口が開いていた。

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