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全知の精霊は王冠の行方を知らない  作者: Tatsumaru


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第5話 始祖の違和感

「始祖は、こう繰り返されたと伝わっています。絶対的な権力は——」


「絶対的に腐敗する」


 教師が読み上げるより先に、ユリウスの口から言葉が出た。


 講義室が静まり返った。


 向かいに座るリヴィアが顔を上げ、教師も開いた始祖伝とユリウスを見比べている。窓の外から聞こえる鳥の声だけが、ひどく大きかった。


「失礼しました」


 ユリウスは姿勢を正した。


「先を読んでいたのですか」


「いいえ」


「では、どなたかに教わりましたか」


「それも、たぶん……」


 曖昧な答えになった。


 知っていた、としか言いようがない。


 絶対的な権力は絶対的に腐敗する。その言葉は教師の声より一瞬早く、記憶の空白から浮かび上がった。地球で誰が言ったのかは思い出せない。どのような本で読み、どのような場面で聞いたのかも分からない。ただ、始祖が生きた時代よりさらに遠い場所で、その言葉が語られていたことだけは確かに思えた。


「有名な一節ですから、幼いころ耳にしたのでしょう」


 教師はそう結論づけた。王族の屋敷で始祖の言葉を聞かずに育つほうが難しい。ユリウス自身にも、それを否定する証拠はなかった。


 ただ一人、リヴィアだけが納得していない顔をしていた。


「講義を続けます」


 教師の指が頁をたどった。


「始祖は亡くなるまで皇帝として帝国を統べました。しかし最期に、立法、徴税、軍事動員を含む権限を王院へ委ねます。十三王家の当主が一票ずつを持ち、一人の皇帝へ権力が集まり続けることを防いだのです」


「でも、十三人全員が間違えたら、誰が止めるのですか」


 また、問いが先に出た。


 教師は少し間を置いた。


「一人が間違えるより、十三人全員が同時に間違える可能性は低いでしょう」


「低いことと、ないことは違います」


「だからこそ官僚が記録を残し、各地の事情を報告します。議員同士も互いを監視する。議長の任期が二年で、続けて再任できないのも、一人へ力が偏らぬためです」


「王家の外の人は、議員を選べません」


「王院は始祖の十三人の子の血統に、帝国を守る力と責任があることを前提とした仕組みです」


 説明は理解できた。


 第1級の力を持つ王族でなければ、第1級の敵や魔獣から帝国を守れない。守る者が決める。力と責任を切り離さない、帝国ではごく自然な考え方だ。ユリウスの中にも、その自然さは深く根を張っている。


 一方で、守られる側が決定に加われないことを、不自然だと思う自分もいた。


「ユリウス」とリヴィアが呼んだ。「反対するなら、代わりにどうすべきだと思うのです」


「分からない」


 姉の目が細くなる。


「昨日も同じ答えを父上にしましたね」


「だから、考えてる。全員が何もかも決めたら遅すぎるし、戦いの途中で相談はできない。でも、力がある人だけで決めれば、その人たちに見えないものが残る」


「何が見えないのです」


「力がない人が、何を怖がっているか」


 教師は咎めなかった。ただ、ユリウスを見る目に、七歳の子供へ向けるものとは違う慎重さが加わった。


「始祖もまた、当時の人々には奇異に聞こえる問いを数多く残されました」


 教師は始祖伝の別の箇所を示した。身分にかかわらず学ぶ機会を広げること。命じて働かせるとき、それを統治する側の都合だけで考えないこと。戦に勝つためであっても、人の命を数としてのみ扱わないこと。


 今では帝国の制度へ形を変えて残ったものもあれば、言葉だけが伝わり、実現しなかったものもある。


「始祖は乱世を終わらせた英雄です」と教師は言った。「大きな力を持ちながら、力を持たぬ者の側から帝国を見ることができた。その深慮を学ぶのも、王族教育の一部です」


 ユリウスは頁へ目を落とした。


 深慮。


 そうなのだろうか。


 書かれている疑問のいくつかは、彼には考え抜いてたどり着く高みに思えなかった。朝になれば空が明るいのと同じくらい、最初からそこにあるものに感じられる。


 その感覚こそが、どうやらこの世界では普通ではない。


 講義が終わった後も、リヴィアは席を立たなかった。


 教師が退出し、扉が閉まる。二人きりになると、姉は自分の始祖伝を卓上へ開いた。余白に細かな書き込みがあり、何度も読み返した頁だけ色がわずかに変わっている。


「私は、この一節を初めて読んだ日のことを覚えているわ」


 指が、例の言葉をなぞった。


「意味を理解するまで、教師に何度も説明を求めた。なぜ正しく統治する強い皇帝ではいけないのか。なぜ始祖ご自身まで腐敗する側に含めるのか、と」


「僕も、そこは気になる」


「あなたは意味を尋ねる前に、言葉の続きを知っていた」


 逃げ道のない指摘だった。


「聞いたことがあるのかもしれない」


「どこで?」


「分からない」


「あなたの分からない、は便利ね」


「本当に分からないんだ」


 地球のことを話そうかと、ほんの一瞬考えた。


 しかし、何をどう話せばよいのか分からなかった。自分でも、前の生がどこまで本物の記憶なのか説明できない。人の群れも、赤と青の光も、誰の目で見たものなのか分からないのだ。


 黙ったユリウスを、リヴィアは急かさなかった。


「あなたは、幼いころから時々、妙なことを言っていたわ」


「妙なこと?」


「荷を運んでいる者が、王族へ道を譲るために立ち止まるのはおかしい。治す力があるのに、順番が身分で変わるのはなぜか。命じる前に、働く者へ都合を聞くべきだ。覚えていない?」


 どれも、ユリウスにはそれほど妙な問いに思えなかった。


「始祖伝にも、似た違和感が何度も出てくるわ。答えが同じということじゃない。問い始める場所が、似ているの」


 リヴィアの眼差しは、疑うというより観察していた。訓練場で相手の足の向きや呼吸を見るときと同じ目だった。


「僕が始祖の真似をしていると思う?」


「皆は、そう考えるはずよ。始祖を敬愛しているのだ、と。あるいは、あなたが特別に賢いから似た答えへ至るのだと」


「姉上は?」


「まだ分からない」


 今度は姉がその言葉を使った。


「だから、見ておくわ。あなたが何に怒り、何を当たり前だと思い、どこで迷うのか」


「ずっと?」


「姉だから」


 リヴィアは本を閉じた。繕われたばかりの背表紙が、柔らかな音を立てる。


 その日の夕刻、契約の儀を告げる鐘が屋敷に響いた。


 儀式は翌朝。王家の子の魂へ応じ、契約を望む精霊たちが現れる。どの精霊を選ぶかによって、その者の力も、役割も、周囲から向けられる期待も変わる。


 ユリウスは始祖伝を抱えたまま、準備の始まった儀式場の前に立った。


 重い扉は閉ざされ、その向こうは静まり返っている。


 知らないものが待っている。


 そう思うだけで胸が高鳴り、同時に、誰かに見つめられたような感覚がした。


 振り返っても、そこにいるのは少し離れて立つリヴィアだけだった。


「どうしたの」


「ううん。何でもない」


 答えながら、ユリウスはもう一度扉へ目を向けた。


 まだ姿も、名も知らない何かが、扉の向こうから彼の問いを待っていた。

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