第4話 傷んだ制約帳
その帳面は、アウレリウス・カルディスのものだった。
まだユリウスが生まれる前、リヴィアが五歳だったころのことである。
東部戦線へ赴任する支度で、屋敷の中は慌ただしかった。武具が点検され、命令書と地図が積まれ、従軍する者たちが廊下を行き交う。その騒ぎの中心にいるはずのアウレリウス本人は、どこ吹く風という顔で、見送りの酒は多いほうがいいなどと笑っていた。
クラウディアは、そんな義弟が嫌いだった。
マルクスより魔力量が多く、剣を取れば帝国でも最強格。戦場での判断も速い。努力してようやく人並みに届いたクラウディアには、何をしても人より先へ出る男が、才能の上で好き勝手に振る舞っているように見えた。
「義姉上、そんな怖い顔をすると皺が増えますよ」
「東部の敵にも同じ軽口を叩くおつもりですか」
「通じるなら」
「剣より先に舌を折られればよろしいのに」
「それは困る。俺の命令が聞けなくなる」
返す言葉のすべてが軽い。
才能がある者は、失敗したときのことを考えずに笑えるのだ。そう決めつけていた。
帳面を見つけたのは、出立を数日後に控えた午後だった。
アウレリウスが使っていた部屋で、卓の端から黒い革表紙が覗いていた。置き忘れたというより、積み上げた書類の下から滑り出たらしい。背表紙の糸は切れかけ、角の革もめくれている。
繕いの精霊が、傷んだ背表紙に反応した。クラウディアは足を止めた。
傷んでいる。
ただそれだけで、放っておけなくなる。
「持ち主に似て、扱いが雑なのですね」
誰もいない部屋で呟き、帳面を手に取った。
綴じを直すだけのつもりだった。中身を読む気はなかった。ところが切れた糸を寄せようと表紙を開いた拍子に、外れかけていた数枚が卓上へ滑り落ちた。
拾い上げた一枚の上に、几帳面な字が並んでいた。
『毎日、剣の稽古をする』
その下には、始めた日と、守り続けた期間が記されている。
別の行には、こうあった。
『靴は必ず右足から履く』
何の意味があるのかと眉をひそめ、その次を見た。
『兄マルクスに出会ったら、笑顔で大きな声で挨拶する』
思わず、クラウディアは頁を裏返した。
『リヴィアを見かけたら、頭を撫でる』
制約の精霊と契約する者は、自らへ定めた制約を守り、その期間と負担によって力を育てる。破れば、積み重ねたものの一部を失う。クラウディアも仕組みは知っていた。
だが、知っていたのは仕組みだけだった。
日常のすべてが制約で埋まると、どのような暮らしになるかまでは考えたことがなかった。
頁の端には、細かな条件と記録が続いていた。朝起きてから夜眠るまで、食事、稽古、身支度、人と会うときの振る舞い。何年も途切れず守られているものもある。一つひとつは笑って済ませられそうな小事でも、積み重なれば、気分ひとつで選べる行動はほとんど残らない。
右足から靴を履くと決めれば、寝ぼけた朝も、負傷した日も、右から履かなければならない。
剣を振ると決めれば、疲れていても、熱があっても、旅の途中でも稽古の時間を作る。
兄へ笑って挨拶すると決めれば、腹を立てていても、落ち込んでいても、笑わなければならない。
力を得るために、自分で選び、自分で守っている。誰かに強制されたものではない。
それでもその選択の背後には、才能を持つ者へ集まる期待と、果たさなければならない責務があった。
自由だから、自由奔放なのではない。
あの男は、自分で狭め続けた道の中を、せめて自由そうに歩いているのだ。
クラウディアは、落ちた頁を元の位置へ戻した。それ以上は読まず、切れた綴じ糸へ魔力を通す。古い糸を残したまま新しい糸を絡ませ、裂けた革の端をつなぐ。新品には戻らない。傷跡も消えない。ただ、頁がもう落ちないように、帳面として使い続けられるように整えた。
元の場所へ戻した直後、廊下から足音がした。
入ってきたアウレリウスは、クラウディアを見ると片眉を上げた。
「義姉上。俺の部屋で何を?」
「通り道に、片づけのできない方の持ち物がはみ出していました」
「それは失礼」
彼は書類の山を引き寄せた。その下の帳面を手に取ったとき、指が直された背表紙をなぞった。
ほんの一瞬、二人の視線が合った。
見たのか、とも、直したのか、とも尋ねなかった。
礼も、弁解もなかった。
クラウディアも何も言わず、部屋を出た。
それですべてだった。
けれど一度知ってしまうと、その後の姿は以前と同じには見えなかった。
廊下の先でマルクスを見つけたアウレリウスは、屋敷中に響く声を張り上げた。
「兄上! 今日も陰気な顔で何よりだ!」
「アウレリウス。人で魔力を育てるな」
「いいじゃねえか。兄弟だろ」
笑顔も、大声も、帳面に記された制約だった。
それでも兄へ向けた親しさまで偽物ではない。そもそも、毎日守る制約にそれを選んだのは、アウレリウス自身なのだ。
庭へ出ると、幼いリヴィアが木剣を抱えて走ってきた。
「叔父上、見てください。今日は昨日より——」
「おう、見てやる」
言い終える前に、大きな手が娘の頭へ置かれた。遠慮なく撫で回され、きれいに結っていた髪が崩れる。
「髪が乱れます!」
「また結えばいい」
「叔父上は乱暴です!」
怒るリヴィアから逃げるように、アウレリウスは笑って駆け出した。
クラウディアは以前、その姿を無責任な戯れだと思っていた。今は違う。見かけるたびに必ず頭を撫でるという、馬鹿げるほどささやかな約束を、彼は娘の知らないところで守り続けている。
見方が変わっても、すぐに義弟を好きになれたわけではない。軽口には腹が立ったし、物を乱雑に置く癖も改まらなかった。
ただ、嫌う理由から「何の苦労も知らない男」という決めつけだけが消えた。
東部へ発つ朝も、アウレリウスは笑っていた。
マルクスへ大声で挨拶し、リヴィアの頭を撫で、泣くなよとからかった。自分が泣いていないと怒る姪を馬へ届かないところまで追いかけさせ、最後まで騒がしく門を出ていった。
あの帳面も、荷のどこかに収められていたのだろう。
アウレリウスは、それから屋敷へ帰らなかった。
現在。
クラウディアの前へ、別の古びた本が差し出された。
「母上、これも直せる?」
ユリウスが両手で抱えてきたのは、王族教育に使われる始祖伝だった。何人もの子供が読み継いだため、厚い表紙の角は丸まり、背の一部が浮いている。
「この程度なら」
受け取ると、ユリウスは本を手放さず、開いた頁を指で押さえた。
「ここは閉じないで。まだ読んでるから」
「行儀の悪い直し方を求めますね」
「どうしても気になるんだ」
示された頁には、始祖が死の間際に王院へ権限を渡したことと、彼が繰り返した言葉が記されていた。
——絶対的な権力は絶対的に腐敗する。
「始祖は、どうして自分が正しく使えばいいと思わなかったのかな」
七歳の息子は、五百年前の皇帝へ本気で問いかけていた。
クラウディアは傷んだ背表紙へ指を添えた。
「明日の講義で、お姉様にも尋ねてみなさい」
この本の内側にもまた、外からは見えない何かが綴じられている。
その何かを、リヴィアはやがて、誰より近くで見つけることになる。




