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全知の精霊は王冠の行方を知らない  作者: Tatsumaru


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第3話 努力を繕う人

クラウディアは、娘の手袋に生じたほつれを見逃さなかった。


「手を出しなさい」


 朝の鍛錬を終えたリヴィアが素直に右手を差し出す。革の手袋は親指の付け根が擦れ、縫い目から細い糸が覗いていた。


「まだ使えます」


「まだ使えるうちに手を入れるのです。完全に裂けてからでは、元どおりにはなりません」


 クラウディアが指先へ魔力を集めると、切れかけた糸が互いを探すように動いた。離れていた縫い目が寄り、革の裂け目を塞いでいく。繕いの精霊の力は小さい。失ったものを無から作ることも、粉々になったものを新品へ戻すこともできない。


 だからこそ、傷みが小さいうちに見つけなければならなかった。


「これで、しばらくは持ちます」


「ありがとうございます、母上」


 手袋をはめ直したリヴィアは拳を握っては開き、指の感触を確かめた。その掌には、革越しにも分かるほど硬いところがある。


 剣を握り続けてできたものだ。


 クラウディアは、娘の手がもっと小さかったころを思い出した。


 当時のリヴィアは、まだ椅子へ深く腰かければ足が床に届かなかった。書字の稽古で同じ文字を一枚埋めるだけでも、終わるころには指が赤くなっていた。


『もう一枚です』


 若いクラウディアは、書き終えたばかりの板を娘の前から取り上げた。


『最初の列はよくなりました。けれど最後は形が崩れています。疲れても同じように書けなければ、身についたとは言えません』


 厳しすぎると、周囲は思っていたかもしれない。マルクスも、ときおり何か言いたげに母娘を見ていた。


 それでもクラウディアは、やめられなかった。


 娘を、自分のようにしたくなかった。


 第十一王家セウェル家で育ったころ、クラウディアはいつも誰かの少し後ろにいた。法を覚えても、兄弟姉妹にはもっと早く覚える者がいた。礼法を繰り返しても、同じ年頃には一度で美しくこなす者がいた。誰より長く机へ向かった日にさえ、褒められるのは先に答えへ着いた者だった。


 精霊との契約を果たしたときもそうだった。


 現れたのは、小精霊である繕いの精霊。


 役には立つ、と言われた。よい力だとも言われた。けれど親族の声に混じった慰めを、クラウディアは聞き分けてしまった。


 努力が足りないのだと思った。


 足りないところを見つけて直し続ければ、いつか欠点のない自分になれる。比べられても、劣っていると証明されない自分になれる。そう信じて、他人の倍、三倍と繰り返した。


 けれど努力を重ねるほど、先に進む者の背もよく見えた。


 自分にとって努力とは、喜びではなかった。立ち止まった瞬間に価値を失うという恐怖から、逃げ続けることだった。


 だから娘には、最初から遅れてほしくなかった。


『もう一枚、ですね』


 幼いリヴィアは唇を結び、新しい板を引き寄せた。


 泣くなら、それでもやらせるつもりだった。嫌われても、この子が将来軽んじられずに済むならよいとさえ思った。


 ところがリヴィアは、二枚目の半ばで小さく笑った。


『どうしました』


『ここ、さっきより上手に書けました』


 並んだ二つの文字を指さして、誇らしげに胸を張る。


『もう一度書いたら、もっと同じにできますか』


 クラウディアは、すぐには答えられなかった。


 娘は、叱られないために書いているのではなかった。母に認められることだけを求めてもいなかった。昨日できなかったことが今日できる。その小さな変化そのものを、見つけて喜んでいた。


 同じ努力をしていると思っていた。


 けれど娘が歩いている道は、自分の道とは違った。


「母上?」


 今のリヴィアの声で、クラウディアは記憶から戻った。


「いえ。手袋を替える時期を考えていただけです」


「これなら、まだ使えます」


「ですから、しばらくは、と言ったでしょう」


 娘は笑い、訓練場へ戻っていった。いま直したばかりの手袋で、また剣を握るのだろう。繕ったそばから傷めるのだから、きりがない。


 不思議と、それを腹立たしくは思わなかった。


 回廊の柱の陰から、ユリウスが姉の背を見送っていた。


「見学は終わりましたか」


「見つかってた?」


「隠れるなら、衣の裾まで柱の後ろへ入れなさい」


 はみ出していた裾を慌てて引き寄せる息子へ、クラウディアは手招きした。近寄ってきた途端、今度は肩口の糸の緩みが目に入り、彼女の指は考えるより先にそこをつまんでいた。


「母上は、いつも直すところを見つけるね」


「見つけようとしているわけではありません。見えてしまうのです」


「姉上にも?」


 クラウディアの指が止まった。


「姉上に直すところが見えるから、ずっと鍛錬させるの?」


 無邪気な問いだった。だが、胸の奥に残る古い傷を、正確に押された気がした。


「昔は、そうだったのかもしれません」


 認めると、七歳の息子は黙って次を待った。


「欠けているところを埋めなければ、あの子に価値がないと思われるのが怖かった。けれど今、リヴィアは自分で鍛錬を選んでいます。あの子にとって努力は、欠けた自分を隠す布ではありません。自分の手で、自分を育てることなのです」


「母上は、もうさせてない?」


「止める役のほうが多いくらいです」


 言ったそばから、訓練場で木剣の音が再開した。ユリウスが吹き出し、クラウディアも口元を緩めた。


 自分の努力は、自分を一番にしてはくれなかった。


 それでも、何も残さなかったわけではない。繰り返すこと。小さな傷みに気づくこと。昨日より少しだけ先へ進めると信じること。それらは形を変え、娘へ渡っていた。


 報われなかった過去まで消す必要はなかった。その端と端をつなぎ直せば、今を支えるものになる。


「はい、終わりました」


 息子の肩から手を離すと、緩んでいた糸はきれいに収まっていた。


「ありがとう、母上」


「今度は、どこへ引っかけたか覚えておきなさい」


「分からないことが増えた」


「喜ぶところではありません」


 叱られたのに、ユリウスは嬉しそうだった。


 理解できないものを見つけると、恐れるより先に近づいていく。その性質もまた、直すべきほつれではないのだろう。そう思えるようになるまでに、クラウディアには長い時間が必要だった。


 そして娘だけではない。


 才能があり、自由に見える者にも、外からは見えない傷みがあることを、彼女はかつて一冊の帳面から教えられていた。

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