↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
全知の精霊は王冠の行方を知らない  作者: Tatsumaru


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/57

第2話 六年先の姉

翌朝、ユリウスは鳥より早く起きた。


 正確には、起こされた。


「昨日、私が何度振ったか気にしていたでしょう」


 薄暗い寝室で、リヴィアは寝台の脇に立っていた。すでに髪を結い、稽古着に着替えている。


「なら、最初から見ればいいの」


「姉上は、いつから人の部屋に音を立てず入れるようになったの」


「六年前には、あなたより上手だったわ」


 たぶん嘘だ、とユリウスは思った。七歳のころの姉が寝室へ忍び込む訓練をしていたとは考えにくい。けれど、眠気に負けて問いただせないうちに毛布を剥がされた。


 訓練場には、まだ夜の冷たさが残っていた。


 リヴィアは準備運動から始めた。首、肩、手首、腰、膝、足首。順序は決まっているらしく、一つひとつの動きに淀みがない。次に足運び、それから木剣。昨日と同じ上段からの振り下ろしを、昨日と同じように百回行う。


「毎日、同じことをして飽きない?」


「同じじゃないわ」


 剣を止めず、リヴィアは答えた。


「昨日の七十二回目は、右肩が上がった。今朝はまだ上がっていない」


「七十二回目だけ?」


「八十九回目にも少し」


 ユリウスには、どれも同じ見事な一振りに見えた。


 百回を終えると、リヴィアは鍛錬の精霊へ意識を向けた。淡い魔力が彼女の周囲へ集まり、次の鍛錬を、先ほどまでより厳しいものへ変えていく。


 精霊の力で身体へ強い負荷を加えているらしい。何をどのように生み出しているのか、ユリウスにはまだ見分けられなかった。


「僕も同じ鍛錬をしていい?」


「今のあなたには早いわ」


「姉上は何歳から?」


「契約してから、少しずつ。最初から今朝と同じ鍛錬ができたわけじゃない」


 今日だけ真似をして追いつけるものではないらしい。


 精霊の力を受けながら、リヴィアは再び剣を構えた。厳しさが増しても、剣先は揺れない。昨日できなかったことを一つ探し、今日できるようにする。鍛錬の精霊が彼女を選んだ理由を、ユリウスは言葉ではなく姿で理解した。


 朝食後の予定も、姉弟ではまるで違った。


 ユリウスが教師から帝国史の初歩を学んでいる間、リヴィアは隣室で軍団の配置を盤上に再現していた。ユリウスが数字の書き取りを終えるころには、彼女は家の収支報告へ目を通す。昼には父の後ろに控え、家臣からの報告を聞いた。正式な軍務や政務を担えるのは成人してからでも、その日に備える時間はすでに始まっている。


 ユリウスは空いた扉から、その横顔を何度も見た。


 報告の途中、伝令役の家臣が道順を一つ取り違えた。リヴィアは叱らず、卓上の地図を示した。


「この橋は先月から修復中です。荷車なら南へ回すべきでしょう。徒歩の伝令だけ旧道を使わせれば、知らせは遅れません」


 ユリウスは橋が壊れていることさえ知らなかった。もし自分なら、もっと速く知らせを運ぶ仕組みが要る、と考えただろう。けれど今ここで、どの道を誰が通るべきかは答えられない。


 思いつくことと、実際に動かせることは違う。


 リヴィアには、六年分の地図があった。


 午後、廊下の角を曲がろうとしたユリウスは、向こう側から聞こえた声に足を止めた。


「長子様の先行は揺るがぬ」


「今のところはな。だが、第二子様の魂の器がもし大きければ」


「儀式の前に憶測を口にするな」


 低く抑えた家臣たちの声は、近づいてきた足音に気づくと途切れた。三人はユリウスへ深く頭を下げ、何事もなかったように通り過ぎる。


 魂の器。


 精霊から受け取れる力と、その顕れ方を決めるものだとは習った。けれど器は目に見えず、儀式まで正確には分からない。家臣たちは、まだ見えないものをもう比べ始めているらしい。


「盗み聞きは感心しないわね」


 背後から声がして、ユリウスは振り返った。


「聞こうとしたわけじゃないよ」


「分かっているわ」


 リヴィアは去っていく家臣たちの背を一瞥した。その表情は静かだったが、腰に提げた木剣の柄へ指が触れている。


「僕が契約する精霊のことで、姉上が困るの?」


「あなたがまだ契約してもいない精霊を、私が恐れると思う?」


「思わない。でも、あの人たちは比べていた」


「家臣は比べるのが仕事よ。精霊の格、魔力量、実績、人からの支持。十三王家は、生まれた順だけで当主を決めないから」


 声に揺らぎはない。けれどユリウスには、これ以上尋ねてほしくないのだと分かった。姉は自分の考えを読むのに、自分は姉の考えをほとんど読めない。それが少し悔しかった。


「僕は、姉上のものを取りたくない」


 リヴィアの眉がわずかに寄った。


「当主席は、まだ私のものじゃない」


「でも、姉上はずっと頑張ってきた」


「だから何。あなたが遠慮して、小さな精霊を選べばいいと?」


「そうは言ってない」


「同じことよ」


 姉の声が、木剣より鋭く落ちた。


「六年かけた私の努力は、あなたの手加減がなければ守れないほど頼りないものじゃない」


 その言葉に、ユリウスは返事を失った。


 リヴィアは怒っている。けれど、彼を責めたいのではないらしい。胸元に置かれた拳が、小さく震えていた。


「よい精霊が現れたなら選びなさい。大きな力を得たなら、隠さず使いなさい。私の弟が、自分を小さくすることを、私は誇りには思えない」


「……姉上を困らせても?」


「困るかどうかは、私が決めるわ」


 ずるい答えだった。だが、いかにも姉らしい。


 ユリウスが頷くと、リヴィアはようやく柄から手を離した。


 夕刻、訓練場に一人残ったリヴィアは、朝と同じ振り下ろしを始めた。


 一度。二度。三度。


 昼間の家臣たちの声が、耳の奥へ残っている。


 弟がどれほど優れた精霊に選ばれても、嬉しいと思える自分でいたかった。その才能を誇る姉でいたい。けれどいつか、自分の名より先に「あの者の姉」と呼ばれる日が来るのではないか。その恐れまで、きれいに消すことはできなかった。


 だから振る。


 弟を弱くするためではなく、自分を強くするために。


 訓練場の入口で、ユリウスが黙って回数を数えている。リヴィアは気づいていたが、振り返らなかった。


 弟の最初の一歩が、どれほど大きいかはまだ分からない。


 それでも彼女は、六年先で次の一歩を踏み出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。