第2話 六年先の姉
翌朝、ユリウスは鳥より早く起きた。
正確には、起こされた。
「昨日、私が何度振ったか気にしていたでしょう」
薄暗い寝室で、リヴィアは寝台の脇に立っていた。すでに髪を結い、稽古着に着替えている。
「なら、最初から見ればいいの」
「姉上は、いつから人の部屋に音を立てず入れるようになったの」
「六年前には、あなたより上手だったわ」
たぶん嘘だ、とユリウスは思った。七歳のころの姉が寝室へ忍び込む訓練をしていたとは考えにくい。けれど、眠気に負けて問いただせないうちに毛布を剥がされた。
訓練場には、まだ夜の冷たさが残っていた。
リヴィアは準備運動から始めた。首、肩、手首、腰、膝、足首。順序は決まっているらしく、一つひとつの動きに淀みがない。次に足運び、それから木剣。昨日と同じ上段からの振り下ろしを、昨日と同じように百回行う。
「毎日、同じことをして飽きない?」
「同じじゃないわ」
剣を止めず、リヴィアは答えた。
「昨日の七十二回目は、右肩が上がった。今朝はまだ上がっていない」
「七十二回目だけ?」
「八十九回目にも少し」
ユリウスには、どれも同じ見事な一振りに見えた。
百回を終えると、リヴィアは鍛錬の精霊へ意識を向けた。淡い魔力が彼女の周囲へ集まり、次の鍛錬を、先ほどまでより厳しいものへ変えていく。
精霊の力で身体へ強い負荷を加えているらしい。何をどのように生み出しているのか、ユリウスにはまだ見分けられなかった。
「僕も同じ鍛錬をしていい?」
「今のあなたには早いわ」
「姉上は何歳から?」
「契約してから、少しずつ。最初から今朝と同じ鍛錬ができたわけじゃない」
今日だけ真似をして追いつけるものではないらしい。
精霊の力を受けながら、リヴィアは再び剣を構えた。厳しさが増しても、剣先は揺れない。昨日できなかったことを一つ探し、今日できるようにする。鍛錬の精霊が彼女を選んだ理由を、ユリウスは言葉ではなく姿で理解した。
朝食後の予定も、姉弟ではまるで違った。
ユリウスが教師から帝国史の初歩を学んでいる間、リヴィアは隣室で軍団の配置を盤上に再現していた。ユリウスが数字の書き取りを終えるころには、彼女は家の収支報告へ目を通す。昼には父の後ろに控え、家臣からの報告を聞いた。正式な軍務や政務を担えるのは成人してからでも、その日に備える時間はすでに始まっている。
ユリウスは空いた扉から、その横顔を何度も見た。
報告の途中、伝令役の家臣が道順を一つ取り違えた。リヴィアは叱らず、卓上の地図を示した。
「この橋は先月から修復中です。荷車なら南へ回すべきでしょう。徒歩の伝令だけ旧道を使わせれば、知らせは遅れません」
ユリウスは橋が壊れていることさえ知らなかった。もし自分なら、もっと速く知らせを運ぶ仕組みが要る、と考えただろう。けれど今ここで、どの道を誰が通るべきかは答えられない。
思いつくことと、実際に動かせることは違う。
リヴィアには、六年分の地図があった。
午後、廊下の角を曲がろうとしたユリウスは、向こう側から聞こえた声に足を止めた。
「長子様の先行は揺るがぬ」
「今のところはな。だが、第二子様の魂の器がもし大きければ」
「儀式の前に憶測を口にするな」
低く抑えた家臣たちの声は、近づいてきた足音に気づくと途切れた。三人はユリウスへ深く頭を下げ、何事もなかったように通り過ぎる。
魂の器。
精霊から受け取れる力と、その顕れ方を決めるものだとは習った。けれど器は目に見えず、儀式まで正確には分からない。家臣たちは、まだ見えないものをもう比べ始めているらしい。
「盗み聞きは感心しないわね」
背後から声がして、ユリウスは振り返った。
「聞こうとしたわけじゃないよ」
「分かっているわ」
リヴィアは去っていく家臣たちの背を一瞥した。その表情は静かだったが、腰に提げた木剣の柄へ指が触れている。
「僕が契約する精霊のことで、姉上が困るの?」
「あなたがまだ契約してもいない精霊を、私が恐れると思う?」
「思わない。でも、あの人たちは比べていた」
「家臣は比べるのが仕事よ。精霊の格、魔力量、実績、人からの支持。十三王家は、生まれた順だけで当主を決めないから」
声に揺らぎはない。けれどユリウスには、これ以上尋ねてほしくないのだと分かった。姉は自分の考えを読むのに、自分は姉の考えをほとんど読めない。それが少し悔しかった。
「僕は、姉上のものを取りたくない」
リヴィアの眉がわずかに寄った。
「当主席は、まだ私のものじゃない」
「でも、姉上はずっと頑張ってきた」
「だから何。あなたが遠慮して、小さな精霊を選べばいいと?」
「そうは言ってない」
「同じことよ」
姉の声が、木剣より鋭く落ちた。
「六年かけた私の努力は、あなたの手加減がなければ守れないほど頼りないものじゃない」
その言葉に、ユリウスは返事を失った。
リヴィアは怒っている。けれど、彼を責めたいのではないらしい。胸元に置かれた拳が、小さく震えていた。
「よい精霊が現れたなら選びなさい。大きな力を得たなら、隠さず使いなさい。私の弟が、自分を小さくすることを、私は誇りには思えない」
「……姉上を困らせても?」
「困るかどうかは、私が決めるわ」
ずるい答えだった。だが、いかにも姉らしい。
ユリウスが頷くと、リヴィアはようやく柄から手を離した。
夕刻、訓練場に一人残ったリヴィアは、朝と同じ振り下ろしを始めた。
一度。二度。三度。
昼間の家臣たちの声が、耳の奥へ残っている。
弟がどれほど優れた精霊に選ばれても、嬉しいと思える自分でいたかった。その才能を誇る姉でいたい。けれどいつか、自分の名より先に「あの者の姉」と呼ばれる日が来るのではないか。その恐れまで、きれいに消すことはできなかった。
だから振る。
弟を弱くするためではなく、自分を強くするために。
訓練場の入口で、ユリウスが黙って回数を数えている。リヴィアは気づいていたが、振り返らなかった。
弟の最初の一歩が、どれほど大きいかはまだ分からない。
それでも彼女は、六年先で次の一歩を踏み出した。




