第1話 二つの生の朝
初投稿です
夢の中には、顔のない人々がいた。
見上げるほど高い建物の谷間を、金属でできた箱が列をなして走っている。道の上には白い線が引かれ、柱の先で赤い光が明滅していた。赤なら止まり、青なら進む。誰に教わったのかは分からない。それでも、その決まりをユリウスは知っていた。
では、あの人々の中に自分はいたのだろうか。
そう考えた途端、夢は朝日に溶けた。
目を開けると、石造りの天井があった。窓を覆う薄布が風を孕み、その向こうで鳥が鳴いている。扉の外には、廊下を行き交う使用人たちの足音。夢にあった耳障りなほど多くの音は、どこにもない。
ユリウス・カルディスは寝台の上で身を起こした。
七歳の身体には大きすぎる寝台も、枕元に畳まれた白い衣も、彼にとっては生まれたときからそこにあるものだった。ルクシオン帝国の十三王家、その第三家に生まれた第二子。それが今の自分であることに、疑いはない。
けれど、夢の街もまた、作りものとは思えなかった。
地球。日本。
その二つの名を、彼は知っている。水を沸かせば病を避けやすいことも、遠い土地の者と瞬時に言葉を交わす道具があったことも、多くの人が統治する者を選ぶ仕組みも知っている。
なのに、そこで自分が何と呼ばれていたのかは思い出せない。男だったのか、女だったのか。どんな顔で、誰と暮らし、何を仕事にしていたのか。探ろうとすると、その部分だけを切り取ったような空白に指が触れる。
知識はある。価値観らしきものもある。
だが、それを身につけた一人の人間だけが、どこにもいなかった。
「ユリウス様、お目覚めですか」
扉の外から声をかけられ、ユリウスは思考を打ち切った。
「うん。今、起きた」
返事をすると、湯と衣服が運び込まれる。三人がかりで着替えを手伝おうとするのを、彼はいつものように二人断った。一人でできる、と言うたび、使用人は困った顔をする。
王家の子が身の回りの世話を受けるのは、帝国では当然だ。ユリウス自身にも、それを当然だと思う感覚がある。一方で、靴紐まで他人に結ばせることを落ち着かなく思う自分もいる。
二つの感覚は、いつも喧嘩をせずに同居していた。だから余計に厄介だった。
食堂へ向かう途中、中庭から規則正しい打撃音が聞こえた。
朝靄の中で、姉のリヴィアが木剣を振っている。十三歳の身体はまだ父ほど大きくない。それでも剣の軌道には迷いがなく、踏み込むたび、結い上げた髪が背で小さく跳ねた。
ユリウスが目を覚ますより前に、いったい何度振ったのだろう。
声をかけようとしたところで、リヴィアはこちらを見ずに言った。
「八十七」
「え?」
「今、何度目か数えようとしたでしょう」
木剣が風を切る。
「八十八」
姉は彼の考えを読むのが妙にうまかった。
「僕が来たことにも気づいていたの?」
「足音で。あなたは考えごとをしていると、右足だけ少し擦るから」
ユリウスは自分の右足を見下ろした。そんな癖は知らなかった。
知らなかったことを一つ知る。その瞬間、胸の奥に小さな明かりが灯るような喜びがあった。
「朝食に遅れるわよ」とリヴィアは言った。「私は百まで終えたら行くわ」
「あと十二回なら待つ」
「そう。なら数えていて」
最後の一振りまで、速さも姿勢も変わらなかった。
食堂では、父マルクスがすでに属州から届いた報告に目を通していた。母クラウディアはユリウスを見るなり、彼の袖口を指でつまんだ。
「また糸を引っかけましたね」
「どこでだろう」
「それを尋ねても袖は答えません。腕を」
クラウディアの指先で、淡い魔力が糸の間を走った。小さなほつれが寄り合い、布地へ戻っていく。大きな奇跡ではない。母の繕いの精霊が行うのは、壊れかけたものを、もう一度使えるようにする仕事だった。
父は報告書から目を上げずに問うた。
「昨日の課題は考えたか」
「水路の修復のことですか」
「そうだ。農繁期に人手を出せという命令へ、村から延期の願いが出ている。お前ならどうする」
後継者教育のために用意された仮の事例だった。命令に従わせなければ水路の損傷が広がる。だが、今すぐ人を出せば畑の収穫が遅れる。
「村の人に、いつなら出せるか決めてもらいます。先に危ない場所だけ、家の費用で職人に直させる」
「なぜ村に決めさせる。命じるほうが早い」
帝国王族として育ったユリウスの中にも、同じ答えはあった。必要なら王家が命じればよい。大きな力を持つ者が危険を取り除き、その代わりに従わせる。それが秩序というものだ。
けれど別の常識が、それをひどく乱暴だと告げていた。
「畑のことは、私より村の人のほうが知っているからです。それに、働く日を自分で選べるほうが……たぶん、いい」
「何にとって、いいのだ」
ユリウスは口を閉じた。
村にとってか。王家にとってか。それとも、自分が知る別の世界の基準に照らしてか。
「分かりません」
正直に答えると、父はようやく顔を上げた。
「ならば、分からないまま終えるな。誰にとって、何がよいのか。次はそこまで考えてこい」
叱責ではなかった。答えを一つ増やすための、新しい問いだった。
「はい、父上」
向かいの席で、リヴィアがわずかに笑った。彼女なら、命令を出す時期、必要な人数、代わりに与える食糧まで考えて答えるのだろう。ユリウスより六年早く学び始めた姉は、すでに多くの答えを持っている。
父が卓上の書板を閉じた。
「契約の儀まで、あと五日だ」
食堂の空気が、ほんの少しだけ変わった。
ユリウスにも、精霊との契約が王家の子の将来を決めることは分かっている。どの概念を司る精霊に選ばれ、どれほどの格の相手と結ばれるか。家臣たちが最近、彼を見るたび妙に口数を減らす理由も、その日が近いからだ。
「どのような精霊を望む」と父が尋ねた。
ユリウスは窓の外へ目を向けた。朝の光の中で、さっきまで姉が剣を振っていた場所だけ、土が濃く踏み固められている。
「知らないことを、教えてくれる精霊がいいです」
答えた途端、リヴィアが小さく息を吐いた。
「それなら、あなたは一生眠れないわね」
「どうして?」
「知らないことなら、いくらでも見つけるはずよ」
その通りだと思うと、なぜか胸が躍った。
自分が誰だったのかは分からない。この世界のことも、分からないものばかりだ。
けれど、問いならある。
そして五日後、その尽きない問いに応えるものが現れることを、この朝のユリウスはまだ知らなかった。




