第54話 知っていた
朝の訓練を終えたリヴィアは、剣を置かずに弟の話を聞いた。
ユリウスは、自分が当主にならないと告げた。
姉のほうが家臣を率い、家を背負い続けることに向いていること。自分の異質な視点と全知の力は、外敵や未知の脅威へ向けるほうが生きること。第三家の当主ではなく、その剣として姉と帝国を守りたいこと。
リヴィアは黙っていた。
言葉を選んでいるのではない。弟が、まだすべてを話していないと待っていた。
ユリウスは乾いた唇を舐めた。
「もう一つ、伝えなければならないことがあります」
「聞こう」
「僕は――」
何度も胸の内で組み立てた言葉が、喉につかえた。
前世の名前は知らない。どんな顔で、どんな仕事をし、誰と生きていたのかも思い出せない。だからこれは、過去の身分を告げる話ではなかった。
今の自分の中に、別の世界が存在していると認める話だった。
「僕は、この世界で初めて生まれたのではありません」
リヴィアの表情は動かない。
「地球という別の世界で、一度生きていた。そこでの名前も、顔も、ほとんど覚えていません。ただ、日本という国の知識や、人は身分だけで価値を決められるべきではないという感覚が残っている」
言葉にするほど、自分がこの世界から遠ざかる気がした。
母に抱かれた記憶も、姉に剣を教わった日々も、エレナと積み上げた研究も消えるわけではない。それでも、別の生を持つと知られた瞬間、これまで向けられた愛情に条件がつくのではないかという恐れがあった。
この世界の者ではなかったから異質なのだ、と距離を置かれるかもしれない。全知の精霊に選ばれた理由まで、七歳のユリウスではなく、名前も分からない前世の者へ帰されるかもしれない。
だからこそ、当主を辞退する話と秘密の告白を同じ日にした。自分の出自を、都合のよい最後の理由として隠したままにはしたくなかった。
「始祖も、おそらく同じです。僕は、始祖と同じ転生者です」
言い終えた。
風が訓練場の砂を撫でていく。
リヴィアは一度だけ瞬きをした。
「知っていた」
ユリウスは、全知の精霊に初めて会ったときより驚いた顔をした。
「……何を?」
「おまえと始祖が、同じ種類の秘密を持っていることを」
「地球を?」
「それは今、初めて聞いた。日本という名も知らない。以前のおまえが何者だったかも知らない」
「それなら、どうして」
リヴィアは呆れたように息を吐いた。
「全知の精霊と契約しておきながら、本当に人のことは分からないのだな」
始祖伝には、身分、教育、労働、命の扱いをめぐり、当時の常識を当然とせず問い直した記録が残っている。
ユリウスも同じところで足を止めた。
孤児が教育を受けられない理由を問うた。生まれついた魔力だけで婚姻の価値が決まることに戸惑った。皆が当然とする制度を、なぜ、と見つめた。
「始祖伝を読めば、似ているとは誰でも思う。だが皆は、おまえが始祖を真似ていると考えた」
「姉上は違った」
「私は、おまえが始祖伝を読む前から、おまえを見ていた」
「いつから疑っていたのですか」
「一日を挙げろと言われても困る。違和感は、答えのように突然現れたものではない」
幼い弟が身分の低い者へ向けた視線。帝国では当然とされる説明を聞いたあと、納得ではなく理由を探す顔。知らないはずの仕組みを、思い出しかけるように語る瞬間。
一つなら子供の気まぐれで済んだ。始祖伝の一節だけなら、敬愛ゆえの模倣とも考えられた。それらが年月の中で重なり、同じ世界を二つの角度から見ている者の輪郭になった。
姉として、六年遅く生まれた弟を見続けた。
言葉を覚える前の目。知らないはずのものを懐かしむ沈黙。この世界の常識に馴染んでいるのに、ときおり一歩離れた場所から眺めるような顔。
それらは記録ではない。
全知へ問える答えにもなっていない。
「僕より、僕のことを知っていたのですね」
「姉だからな」
「怖くはないのですか」
「何がだ」
「僕の中に、姉上の知らない生があることが」
リヴィアは訓練用の布で剣の汗を拭った。
「今聞いて、知らないことが増えた。だが、おまえが私の弟であることについて、知らないことは増えていない」
地球の名を知らなくても、転んだときにどんな顔で立ち上がるかは知っている。前世の職業を知らなくても、誰かが傷つけば自分の責任まで広げる悪癖を知っている。
「秘密を言わなかったことは腹立たしい。だが、私が知りたいからといって、おまえの口から奪ってよい話でもない。今日、自分で言った。それで十分だ」
全知より姉のほうが、自分を知っている。その事実は不思議な敗北であり、救いでもあった。
胸の奥で固まっていたものが、少しだけ解けた。
だが、姉はそこで許してくれなかった。
「それで?」
「それで、とは」
「転生者だから、この世界の当主にはふさわしくない。そう言いたいのか」
「違います」
「なら、前の生を持つことは、おまえを偉くもしなければ劣らせもしない。それを理由に席へ上がることも、下りることも許さない」
「私を哀れんで、席を譲るのか」
「違う」
「争いたくないから、自分の力を小さく見せるのか」
「それも違う!」
声が訓練場へ響いた。
リヴィアはようやく満足そうに目を細めた。
「ならば、証明しろ」
彼女は足元に置いてあったもう一本の剣を、弟へ放った。
ユリウスは反射的に柄を掴む。
「私は、おまえより弱いから当主になるのではない。おまえが別の世界から来たから、残り物の席を受け取るのでもない」
リヴィアが剣先を向ける。
「おまえが本当に私を当主と認め、自分の道を選んだのなら――一切、手加減するな」
ユリウスも剣を構えた。
姉の目に、迷いはなかった。
「分かりました」
この戦いの勝敗で、答えを決めるのではない。
すでに選んだ答えから、同情と逃避と手加減を取り除くために戦う。
「本気でいきます、姉上」
「来い、ユリウス」




