第53話 二人で選ぶ
ユリウスは、父の執務室で一夜を過ごした。
机の上には、未決裁の文書が積まれていた。戦死者の遺族への補償、負傷兵の配置転換、東部防衛線の再建、失われた村への食糧。誰が当主になっても、最初に向き合うのは名誉ではなく、この重さである。
全知へ問えば、それぞれの問題に必要な情報を得られる。
不足している食糧の量。通行可能な街道。動かせる人員。過去に似た復興を行った際の記録。
だが、誰の不満を受け止め、どの家臣に責任を預け、失敗した者へもう一度仕事を任せるか。その答えは、まだ存在していない。
机の端には、同じ案件についてリヴィアが残した書き込みがあった。食糧を送る量だけでなく、それを運ぶ役人がどの村の出身か。配置を替える兵の家族がどこで暮らしているか。命令に従えなかった者が、怠慢だったのか、二つの責任の間で動けなかったのか。
全知なら、問われた事実を一つずつ集められる。姉は日々同じ机につき、人と話し、言葉にならない不満が表情へ現れる前から見続けてきた。
知っている量ではユリウスが勝る。人と人の間へ立ち続けた時間では、リヴィアが先にいる。
父は、それを毎日選んでいた。
姉も、父のそばで学んできた。
自分にできるだろうか。
できない、とは思わない。学べば一定のところまでは届く。全知の力を使えば、誰より早く多くを知ることもできる。
だが、それは自分がもっともふさわしいという意味ではなかった。
当主になれないから別の道へ逃げるのではない。求めれば、支持する者はいる。王院で争い、姉と実績を比べ、席を得る可能性もある。
その可能性があると認めたうえで、何に自分の力を使いたいかを考える。
扉が静かに開いた。
エレナが入ってくる。まだ長く歩けば息が上がるため、侍女が廊下で待っていた。
「眠っていないでしょう」
「少しは眠ったよ」
「少し、という答えは数字を隠す人の答えです」
机へ温かい飲み物を置く。献身の精霊の気配が、彼女の肩近くで穏やかに揺れた。
「君は、僕に当主になってほしい?」
エレナはすぐには答えなかった。
「あなたは、なりたいのですか」
「それを考えている」
「では、私が先に答えてはいけません」
彼女は向かいへ座った。
「私は、あなたを当主にするために治ったのではありません。あなたも、私を治すためだけに生きているのではないでしょう」
「うん」
「当主であるあなたを選ぶのでも、当主でないあなたを選ぶのでもありません。自分で選んだあなたと生きます」
静かな言葉だった。
だからこそ、どの派閥の叫びより重かった。
「ただし」とエレナは続けた。
「当主にならないと決めて、あなたを支持した人々まで置いていくのは選択とは呼びません」
「分かっている」
「孤児院の方々も、軍の方々も、あなたが命じれば何でも納得するわけではありません。なぜ別の役割を選ぶのか、自分の言葉で伝えてください」
剣になるという言葉は、身軽になるための言い訳ではない。家の外へ向かう脅威を引き受け、自分が生んだ支持と期待にも責任を持つ役割だ。
「逃げずに話すよ」
エレナはそれを聞いて、初めて微笑んだ。
ユリウスは窓の外を見た。夜明け前の訓練場で、剣を振る音がする。
リヴィアだった。
父が死んでも、戦争が終わっても、継承審議の朝でも、姉はいつもの鍛錬を欠かさない。
「姉上は、この家の人たちと同じ地面に立っている」
ユリウスは呟いた。
「誰が何を誇りにして、何を恥じて、どういう言葉なら立ち上がれるかを知っている。知識としてではなく、一緒に生きた時間として」
自分は違う。
この世界で生まれ、王族として育った。それでも心のどこかに、別の世界から眺める距離がある。皆が当然とすることへ疑問を抱き、存在しない仕組みを思いつく。
その異質さは、家をまとめるときには溝になり得る。
だが、外から来る脅威や、誰も疑わなかった不合理と向き合うときには力になる。
「僕は、姉上より劣っているから退くんじゃない」
エレナは頷いた。
「僕の考え方が、この世界の常識から外れているから、ふさわしくないということでもない」
エレナは続きを待った。
「姉上が当主にふさわしい。そして僕には、僕の力がもっと生きる場所がある」
アウレリウスは兄を当主と認め、自分はカルディス家の剣になった。
同じ道を選ぶから正しいのではない。叔父の再現になるためでもない。
自分で考えた末に、たまたま同じ場所へ立つのだ。
「僕は、カルディス家の剣になる」
当主の命令だけを待つ武器という意味ではない。姉が家の中で人をまとめる間、まだ名もない危険を探し、既存の常識で守れない者のために道を作る。必要なら姉と異なる意見を口にし、それでも最後には同じ家へ帰る。
ユリウスにとっての剣とは、そのために前へ出る者だった。
席を譲るのではなく、役割を選ぶ。その違いを、姉にも示さなければならない。
初めて口にした答えは、不思議なほど自然だった。
エレナが微笑む。
「では、その答えをリヴィア様へ」
「受け入れてくれるかな」
「簡単には、受け入れてくださらないでしょうね」
窓の外で、木剣が空を切った。
長い鍛錬を一度も休まなかった姉が、弟の言葉だけで席を受け取るはずはない。
ユリウスは温かい飲み物を一息で干し、立ち上がった。
「二人で選んでくる」
「はい。帰ってきてください」
その言葉に、ユリウスは今度こそ迷わず頷いた。




