第50話 遠くから届く力
全知は、アイラの剣筋を知っていた。
過去の戦闘記録。目撃者の証言。彼女が今どこへ重心を移し、どの経路へ魔力を流しているか。問いを立てるたび、必要な答えがユリウスの意識へ届く。
それでも、身体が間に合わない。
刃を受けた腕は、とうに痺れていた。次の一撃を躱した脇腹へ、アイラが放つ魔力の圧力が叩き込まれる。ユリウスは土の上を転がり、剣を杖に立ち上がった。
「まだ立つのねぇ」
アイラは息を弾ませながら笑っていた。
戦場焼却術式とリタの暴走を生き延びた彼女も、無傷ではない。魔力は大きく減り、片脚を引きずっている。
だが、亜神である愛の精霊はなお圧倒的だった。
周囲の兵を退かせたため、ユリウスに援護はない。兵たちを、アイラが強いる愛へ巻き込むより、生かして帰すことを選んだ結果だった。
退いた兵たちは、遠巻きに二人の戦いを見守っている。ここへ呼び戻せば、アイラの注意を散らすことはできるかもしれない。だが彼らが彼女への愛を強いられれば、味方だった人数がそのまま敵の盾になる。
ユリウスは一人で勝てるから残ったのではない。ほかの者を危険へ戻さないため、自分が勝つ責任を引き受けたのだ。
アイラが左脚を引いた。
踏み込む前の癖だと、過去の記録は示している。ユリウスは右から来る刃を想定し、重心を移した。
だが、アイラは踏み込まなかった。
傷ついた左膝を折り、そのまま低く沈む。剣ではなく、地面へついた掌から魔力を放った。
土が下から弾けた。
ユリウスは跳ね上げられ、空中で身体を捻った。追ってきた刃を剣の腹で受ける。受け切れず、肩口の布と皮膚が裂けた。
「足を引いたから、斬ると思った?」
「以前は、そうした」
「今は違うわぁ」
アイラは得意そうに笑った。
全知が誤ったのではない。問うた過去と、目の前で生まれた現在が違った。
ユリウスは問いを変えた。
次に何をするかではない。今、どの傷が動きを妨げているか。どの足場が二人の体重を支えられないか。どこまで退けば、彼女の力が後方の兵へ届かないか。
未来の答えを求めず、いま存在する事実だけを集める。
アイラが再び距離を詰めた。
ユリウスは一歩目を退き、二歩目で右へずれた。アイラの左脚が追いつかず、上体だけが先へ出る。その一瞬に剣を返し、彼女の右腕を浅く切った。
初めて、アイラの血が地へ落ちた。
「できるじゃない」
痛みに顔を歪める代わりに、彼女は嬉しそうに傷口を見た。
すぐに大きな魔力が押し返してくる。ユリウスは焼け残った石壁の陰へ滑り込み、直撃を避けた。壁は半ばから砕けたが、その向こうに人はいない。
アイラは西へ回ろうとする。
ユリウスは先に立った。
「退いてよいと言われたのでしょう?」
「退く場所は、私が選ぶ」
「そこを通してくれたら、追わないかもしれないわよぉ」
「君が決める『かもしれない』へ、兵の命は預けない」
剣と剣が噛み合った。
魔力の差が、そのまま腕へかかる。ユリウスの踵が土を削った。肩の傷が開き、握った柄へ血が伝う。
「帰りたいのでしょう?」
至近距離で、アイラが囁いた。
「誰のところへ帰るのぉ?」
「君へ渡す答えじゃない」
ユリウスは剣を外へ流し、間合いを切った。
残る魔力を数える。
問いをあと二つ。身体強化を維持できるのは、ほんのわずか。
勝つための答えがあっても、それを実行する力が足りない。
一人で残ると決めたことと、一人だけの力で戦い抜くことは同じではない。
遠くに、共にこの日の備えを作った者がいる。
渡せる量を測り、返す方法を確かめ、どちらかが必要としたときの言葉まで決めた。助けを求めることは、その相手へ決定を委ねることでもあった。
アイラの剣が振り上げられた。
ユリウスは、残る力の一部を答えではなく知らせへ使った。全知の精霊へ、エレナにだけ届く短い言葉を託す。
――力を借りたい。必ず帰って返す。
同じころ、遠く離れたカルディス家の一室で、エレナは胸元を押さえていた。
全知の精霊を介して、託された言葉がエレナの意識へ届いた。遠隔譲渡を確かめた訓練の折、非常時にはこの言葉で知らせると二人で決めていた。ユリウスの居場所も、傷の数も分からない。だが、彼が今、力を必要としていることだけは分かった。
寝台の脇には、夫婦で作った記録が開かれていた。
遠隔で渡せる量。安全に自然回復できる下限。越えてはならない線。そのすべてを、自分たちで測り、書き残した。
訓練では、線を越えたことは一度もない。離れた場所へも魔力を渡せること、ユリウスが戻って手を取れば滑らかに返せることを、何度も確かめた。そのたび彼は、借りたままにするのは落ち着かないと笑った。
返還だけは遠くからできない。
だからこそ、それは単なる欠点ではなく約束になった。渡すと決めることは、彼が自分のもとへ帰ってくる未来まで選ぶことだった。
エレナは線の上へ指を置いた。
「ここまでなら、待っていれば戻る」
献身の精霊は何も命じない。
「ここを越えれば、自分では戻せない」
それでも、止めない。
そばにいた治療術師が、記録の線とエレナの手を見比べた。
「これ以上はお止めください。魔力核が自力で回復を始められなくなります」
「承知しています」
「では――」
「止めるよう命じる権限は、私にあります」
声は静かだった。死に急ぐ者の熱も、悲劇の主人公になろうとする陶酔もない。研究者として危険を測り、患者として自分の身体を知り、そのうえで選んでいる。
「核を壊すつもりはありません。生命を維持できるよう処置を続けてください。ユリウスが戻ったら、何より先に私へ直接触れさせて」
戻らなくてもよい計画ではない。
戻ることを前提にした計画だった。
この力は、身を捨てるためにあるのではない。相手の選択を支え、生かすために渡すものだ。
ユリウスは帰ってくる。
根拠のない願いではなかった。彼が帰り、直接触れれば、渡した魔力を経路に沿って返せる。それを二人で確かめた。彼は受け取った力を自分のものにしない。
「お願いします」
誰にともなく言い、エレナは目を閉じた。
「あの人が選んだことを、最後まで選ばせてください」
献身の経路を開く。
魔力が身体から抜けた。
安全限界へ達する。指先が冷たくなる。
そこで止めなかった。
生命を保つため魔力核が抱え込んでいた分まで、ユリウスへ送る。視界が暗くなり、鼓動が遠のく。
侍女が叫び、倒れる身体を支えた。
エレナは最後まで、自分の意思で経路を開いていた。
戦場で、アイラの剣が振り下ろされた。
その瞬間、ユリウスの胸へ熱が届いた。
見間違えようがない。
何度も訓練で受け取り、何度も彼女へ返した、エレナの魔力だった。
だが、量が違う。
身体強化が一息に蘇り、尽きかけた核へ第1級の魔力が満ちていく。力とともに、細い経路の感触がはっきりと残った。
返すための道だった。
ユリウスは経路を逆に辿ろうとした。だが力は遠くへ戻らない。研究で確かめたとおり、返すにはエレナのもとへ行き、その手へ触れなければならない。
彼女の魔力がどこまで減ったかを正確に問う余裕はなかった。それでも、普段なら決して渡さない深さから力が来たことは分かる。勝つだけでは足りない。急ぎ、生きたまま帰らなければ、この力は献身ではなく喪失で終わってしまう。
「エレナ」
何をしたのか理解した。
彼女は、帰ってくると信じている。
「それが、あなたの帰る場所の名前?」
アイラは振り下ろしかけた剣を止めずに尋ねた。
「私の妻だ」
「この力も、その人のもの?」
「エレナが、自分で渡すと決めた力だ」
命じて差し出させたのではない。奪ったのでもない。遠くにいる一人が、危険を知ったうえで、自分の力を彼へ託した。
アイラの目が見開かれる。
「あなたを生かして、帰ってくるのを待つのねぇ」
「帰って、返す」
「返したら、その人も生きる?」
「二人とも生きる」
アイラは、初めて見るものに触れた子供のように笑った。
「きれいねぇ」
その言葉だけなら、喜びにも聞こえた。
「あなたを殺したら、最後までその人を思うのでしょう? そのあとでエレナも殺したら、二人の最後がどちらもわたしのものになるわ」
「ならない」
「欲しくなったの」
戦場で偶然出会った男への興味が、そこで初めて、ユリウスとエレナの愛を奪うという目的へ変わった。
ならば、受け取った者がすべきことは一つだった。
ユリウスは踏み込み、アイラの刃を正面から受け止めた。
「帰る」
金色と白い光が、重なって爆ぜた。




