第49話 奪う愛、生かす愛
父の死を告げる伝令は、泥と血にまみれていた。
ユリウスは報告を最後まで聞いた。
途中で遮らなかった。問い返しもしなかった。マルクスがどこを負傷し、何時まで魔法を維持し、何人を退却させたか。全知に問えば、記録された事実はさらに詳しく知ることができる。
だが今は、父が最後に選んだ言葉だけを聞いた。
「恐れてよい。退いてよい。だが、選ぶことから逃げるな。二人で選べ。二人とも、生きて帰れ」
伝令は一字も変えずに復唱した。
ユリウスは目を閉じた。
泣くには、戦場が近すぎた。
閉じた瞼の裏に、父の手が浮かんだ。褒めるときにも頭を撫でず、失敗したときにも答えを与えず、いつも考えるべき問いだけを置いた手。その手が戦場で何時まで剣を握り、どこで命令を出したか。記録に残る範囲なら、全知へ問うことはできる。
ユリウスは問わなかった。
知らないまま逃げるためではない。今ここで問えば、父の死を記録された細部へ分け、正しい順番に並べることへ縋ってしまう。記録をどれほど正確に読み直しても、父が戻らないという事実だけは変わらない。
まず、託された言葉を受け取る。それが今選ぶべきことだった。
東の防衛線はまだ破られていない。彼の周囲には、命令を待つ兵と、治療を待つ負傷者がいる。父の死に膝をつけば、その時間にも誰かが死ぬ。
かつての自分なら、それもすべて自分の責任だと思っただろう。
今は違う。
父が進軍を選び、父が軍を帰した。その選択を自分の罪として奪うことは、父が背負った責任まで奪うことになる。
「報告をありがとう」
ユリウスは伝令の肩へ手を置いた。
「休んでくれ。ここからは私が引き受ける」
伝令は立ち去る前に、もう一度だけ深く頭を下げた。父の最後の言葉を託された者へ何と返せばよいのか、ユリウスには分からない。感謝も労いも、喪失より小さく思える。それでも言葉にしなければ、相手は何も受け取れない。
「父の最後の言葉を、届けてくれてありがとう」
騎士は唇を噛み、今度は声を出さずに礼をした。
風向きが変わった。
甘い花の香りが、血臭を押しのけて流れてきた。
兵たちが一斉に東を見る。
焼けた平原の向こうから、アイラが歩いてきた。衣服は焦げ、白い足は傷だらけだった。腕の中にリタはいない。道中でリタの亡骸を、彼女に付き従う兵へ預けたと、前方の見張りが報せていた。頬には乾ききらない涙の跡がある。
それでも、楽しげに微笑んでいた。
「まだ、こんなにいるのねぇ」
彼女の視線はユリウスを通り越し、西へ退こうとしている兵たちへ向いた。
「みんな、どこへ帰るのぉ? その先にも、わたしを愛してくれる人はいる?」
探していた相手を見つけた者の声ではなかった。行く手に残っているものを、これから自分のものにしようとする声だった。
「リタはどうした」
「わたしのものになったわ」
それだけで、死んだのだと分かった。
アイラは、伝令が抱えていた血のついた兜を見た。
「さっきまで軍を動かしていた人も、死んだのねぇ」
「私の父だ」
「そう。あなたも、置いていかれたのね」
ユリウスの周囲で兵が身構える。
アイラが指先を振ると、花の香りが濃くなった。数人の兵が武器を落とし、熱に浮かされた目で彼女の名を呼びかける。
花の香りが原因なのか、ただ力の顕れに伴うものなのかは分からない。ユリウスは見た現象だけをもとに命じた。
「作用の出た者を前列から離して! 周りは傷つけずに武器を預かれ! 残りも、力の届いていない位置まで後退!」
各隊の見張りが寄せる「武器を落とした」「彼女の名を呼び始めた」という報告を全知で照合し、兆候が出た地点の外縁を絞る。整理した情報を隊長たちへ知らせ、影響の外にいる部隊から順に距離を取らせた。
力が作用する詳しい条件も、完全に解く方法も、まだ存在する答えとして得られない。分からない条件を勝手に決めず、観測できた作用範囲から兵を出す。それが今できる最も確かな対処だった。
武器を落とした兵の一人が、押さえる仲間を振り払い、アイラのもとへ行こうとする。ユリウスは自ら間へ入り、第1級の力で傷つけないよう地へ伏せさせた。
「その人を連れて下がって。これは本人が選んだ愛じゃない」
「あなた、みんなを生かしたいのねぇ」
アイラは嬉しそうに言った。
金色の瞳がユリウスの肩口に浮かんでいる。アイラはそれを見て、初めて彼自身へ興味を向けた。
「その目。あなたが全知の子なのねぇ」
「それがどうした」
「あの人の家族でしょう? 顔も、少し似ているわ」
「叔父を語るな」
思わず低い声が出た。
アイラは首を傾げる。
「どうして? あなたより、わたしのほうが知っているのに」
否定できなかった。
ユリウスが知るのは記録だ。アウレリウスの最後の表情も、声も、伸ばした手の温度も、目の前の敵だけが覚えている。
「あの人も、わたしを生かそうとした。だから死んだの」
「違う」
ユリウスは剣を抜いた。
「叔父は君を生かして、自分も帰ろうとした」
「同じでしょう?」
「同じじゃない」
「死んだという答えは同じよぉ」
「最後だけを切り取ればね」
ユリウスは、父の遺言を胸の中で繰り返した。生きて帰れ。アウレリウスもまた、帰る道を最後まで組んでいた。二人の死を、美しい結末としてアイラへ渡してはならない。
「生かそうとしたことと、死なせて自分のものにすることは、反対だ」
「でも死んだら、もう愛は逃げないわ」
アイラの笑みが深くなる。
アイラは、遠ざかっていく兵と、一人そこへ残ったユリウスを交互に見た。
「あなたのも、きれいねぇ。あの人たちを逃がして、自分だけ残った」
「愛と呼んで飾るな。指揮を引き受けた者の責任だ」
「名前が違うだけでしょう? 大切だから、生かしたい。大切だから、自分が傷ついても残る」
「私は、あの人たちを私のものにしたいわけじゃない」
「そこが不思議なの」
アイラは無邪気に首を傾げた。
「あなたを殺したら、最後に誰を思うのかしら。お父さま? 叔父さま? さっき逃がした人たち?」
「誰を思っても、それは君のものにはならない」
彼女の背後で、愛の精霊の気配が膨れ上がった。
「なら、確かめるわ。最後の一つを、わたしのものにするの」
「渡さない」
「それなら、奪うわ」
「愛は奪って持てるものじゃない」
「試してみましょう?」
アイラが一歩踏み出した。
大地が沈んだ。
後方で最後の部隊が作用の外へ退く。これで、アイラの力へ不用意に巻き込まれる兵を増やさずに済む。ユリウスは前へ出る者を自分一人に絞った。
父を失った直後に戦うことが正しいのか。退き、別の第1級保持者と合流すべきではないか。恐れを認めれば、選択肢はいくつも見える。
それでもアイラをここで通せば、退却中の軍と、その先で待つ人々へ彼女の愛が届く。今戦うのは、悲しみから目を逸らすためでも、父の仇を討つためでもない。
ユリウスは全知へ問いを投げ、彼女の踏み込み、魔力の流れ、既知の戦闘記録を一瞬で引き寄せる。
父を失った悲しみも、エレナへ帰りたい願いも、今は剣を握る手の中へ収めた。
恐れてよい。
退いてよい。
それでも今、彼は戦うことを選んだ。
アイラが地を蹴った。
最初の一撃は、知っていた。
焼却術式の前に目撃された剣筋と同じ、右上からの袈裟斬り。ユリウスは半歩だけ内へ入り、刃の根元を受けた。衝撃が腕を痺れさせたが、剣は止まる。
そのまま押し返せるはずだった。
アイラは、刃が触れたあとで手首を返した。
過去の記録にない選択だった。鍔元で滑った剣先がユリウスの腕を浅く裂く。身を引いたところへ、アイラの掌から放たれた魔力が追いかけてきた。
ユリウスは地を転がり、立ち上がる。
全知は、すでに起きたことを答えられる。アイラがこれまでどのように戦ったかも、今どちらの脚へ重心を置いているかも分かる。
だが、彼女が次の瞬間に新しく選ぶことは、まだ答えとして存在していない。
「今のは、知らなかったのねぇ」
アイラが笑う。
ユリウスは返事をせず、焼けた地面の東側へ位置を変えた。背後の兵から遠ざかる方向だった。アイラは彼の意図に気づいても、楽しそうについてくる。
二撃、三撃。
剣を受けるたび、足元が沈んだ。完全に躱せば、後ろへ魔力が抜ける。ユリウスは受ける角度を選び、衝撃を人のいない焼け跡へ流した。
それもまた、アイラには面白いらしい。
「自分が勝つことより、後ろへ届かないことを先に選ぶのね」
「両方選ぶ」
「欲張りだわぁ」
横薙ぎを屈んで避ける。直後に膝が上がった。肩で受けた身体が大きく傾き、追撃の切っ先が脇腹を掠めた。
浅い傷が増えていく。
一方で、アイラの左脚も万全ではなかった。踏み込むたびに、ごくわずかに腰が遅れる。焼却術式とリタの暴走を越えた傷は、大きな魔力で身体を支えても治ってはいない。
勝てない相手ではない。
けれど、今の魔力では、答えを勝利へ変える前に身体が尽きる。
アイラの剣が再び上がった。
「もっと見せて。あなたが誰を生かしたくて、どこへ帰ろうとしているのか」
ユリウスは血の伝う手で、剣を握り直した。




