第48話 最後の忍耐
忍耐の力は、傷を治さない。
失った血を戻さず、折れた骨をつながず、焼けた肺を新しくもしない。
ただ、もう立てない者を立たせる。
あと一歩を踏み出せない者に、その一歩を与える。
マルクスから広がった鈍い光が、退却路を覆った。
倒れていた兵が肘をついた。脚を負傷した騎士が、折れた槍を杖に立った。仲間を担いで力尽きた男が、歯を食いしばってもう一度歩き出す。
光は命令のように一律には働かなかった。立てる者には立つ力を、担ぐ者には肩を上げる力を、声を失った隊長には部下を呼ぶための一息を与える。マルクスが一人ずつ選んでいるのではない。彼の率いる軍が、帰るために耐えようとする意思へ、忍耐の精霊が応えていた。
深手を負った者が突然戦えるようになる力ではない。歩けば傷口は開き、折れた脚へ体重をかければ激痛が走る。それでも、痛みに身体を奪われるまでの時間だけが延びた。
痛みは消えていない。
彼らの顔が、それを示していた。それでも列は再び動いた。
「西の丘を越えろ!」
マルクスの声が戦場を走る。
「丘の向こうで隊を組み直せ! 歩ける者は負傷者を支えろ。武器は捨ててよい、旗も置け。人を連れて帰れ!」
第三家の軍旗が炎の中へ倒れた。
誰も拾わなかった。
それでよい、とマルクスは思った。旗は縫い直せる。武具は作り直せる。人だけは、失えば戻らない。
妻なら、焼けた旗の残りを見て、まだつなげられる部分を探すだろう。小さな精霊の力で一針ずつ繕い、完全に元どおりでなくても、再び掲げられる形にする。
クラウディアに人の命は繕えない。だから自分が、彼女の手へ帰る人間を一人でも増やす。
魔力を広げるたび、脇腹の傷から血が溢れた。術式の衝撃で傷ついた魔力核も、警告するように軋んでいる。
治療術師が何度も止めようとした。
「これ以上は、閣下の命が」
「では、残っている兵を数えろ」
「ですが」
「俺の命を数えるのは、その後だ」
言い切った直後、自分もまた全員の中の一人だと思い直す。息子へ、自分を数の外へ置くなと叱ったことがある。ここで同じ過ちを選べば、あの叱責まで嘘になる。
魔力核の軋みを探り、残りを測った。軍へ広げる力を少し絞れば、担架まで歩く分は残せる。だが列の途中には、まだ丘を上りきれない者がいる。
計算の結果を見たうえで、マルクスは今必要な側へ力を渡した。それは自分の死を目的にした選択ではない。全員が帰る可能性を最後までつなぎ、その中で最も危うい場所を先に支えただけだった。
かつて、同じようなことを弟も言ったのだろうか。
いや、とマルクスは打ち消した。
アウレリウスは、自分の命を数から外してはいなかった。全員という言葉の中に、いつも自分を含めていた。
ならば自分も、帰る可能性を捨ててはならない。
「担架を一つ、最後尾へ残せ」
治療術師が息を呑んだ。
「俺を載せるためだ。全員が抜けたら、俺も運べ」
それは虚勢ではない。本当に、最後まで生きて帰る段取りを残した。
列が丘を上っていく。
一人。また一人。
マルクスは全員の背を見た。名を知る者も、知らない者もいる。今日初めて指揮下へ入った兵もいる。それでも今は、すべて自分の軍だった。
パルティア側の一隊が追撃しようと動いた。
「方陣!」
残った騎士が盾を並べる。忍耐の力がその腕へ流れ、炎で歪んだ盾が打撃を受け止めた。
反撃して敵を討ち取る力は残っていない。
それでも崩れない。
一撃。二撃。三撃。
盾の一枚が割れた。持ち手の騎士がよろめく前に、隣の兵が半歩ずれて穴を埋める。命令は出していない。長く同じ隊で繰り返した動きが、考えるより先に身体を動かしていた。
マルクスはそこに、自分が率いてきた年月を見た。忍耐の力だけで軍が立っているのではない。訓練し、互いを知り、命令が届かなくても支え合える者たちだから、与えたあと一歩を生かせる。
最後の一隊が丘を越えた。
「閣下、全員です!」
副官の声が聞こえた。
マルクスは力を緩めようとした。
そのとき、膝が折れた。
担架を残した場所まで、わずか十歩だった。
手を伸ばす。土を掴む。身体を前へ押し出そうとする。
忍耐の力は、率いる軍へほとんど渡してしまった。自分のためのあと一歩が、残っていない。
大きな手が脳裏に浮かんだ。
乱暴に笑う弟の手だった。
――兄貴、最後まで帰る算段をしろよ。
実際にそう言われた記憶があるのか、今になって作った声なのか、マルクスには分からなかった。
「している」
誰もいない場所へ答えた。
「俺も、そのつもりだった」
後悔はあった。進軍を選んだ瞬間へ戻れるなら、同じ根拠をどう量るか。弟の影を振り払い、撤退を命じられたか。答えはもう存在しない。
だが失敗を悔いることと、今いる兵を帰すことは両立する。自分を責めるために彼らを置き去りにはしない。それが、破綻した後を引き受ける自分の戦い方だった。
後方から副官たちが駆け戻ってくるのが見えた。
戻るな、と命じなければならない。声を出そうとしたが、もう息が続かなかった。
代わりに手を上げ、西を指した。
副官が足を止める。
命令を理解し、歯を食いしばって踵を返した。
それを見届けて、マルクスはようやく忍耐の力を解いた。
痛みが一度に戻ったわけではない。最初からずっと、そこにあった。
ただ、それに耐え続ける理由を果たした。
遠くで、兵たちの足音が続いている。
帰っていく音だった。
マルクスはその音を聞きながら、静かに目を閉じた。
第三家カルディス王家の当主は、最後の一兵を退却させた後、戦場で息を引き取った。




