↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
全知の精霊は王冠の行方を知らない  作者: Tatsumaru


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
48/57

第47話 退いてよい

 マルクスが立ち上がろうとすると、右脚が動かなかった。


 鎧の脇腹は焼け、割れた金具が肉へ食い込んでいる。呼吸のたび胸の奥で濁った音がした。それでも彼は、地面へ突いた剣を杖にして身体を起こした。


 視界の右半分が赤く滲んでいた。治療術師が止血の魔法を重ねても、焼却術式に傷つけられた魔力の流れまでは戻らない。忍耐の力を解けば意識を失うと、自分の身体だからこそ分かった。


 周囲には、命令を待つ顔がある。ティトゥスが倒れた場所へ駆け寄りたい者、追撃を恐れて剣を握る者、担いだ仲間をどちらへ運ぶべきか迷う者。マルクスが黙れば、その迷いが軍全体へ広がる。


「ティトゥスの身体を回収しろ。だが列を止めるな。前衛は追撃を阻み、治療術師は歩ける者に手を割くな。歩けぬ者から診ろ」


 命令が復唱され、人が動く。それを見届けてから、マルクスはようやく自分の傷へ視線を落とした。


「閣下、動いてはなりません」


 駆け寄った治療術師が肩を支える。


「治せるか」


 問われた術師は答えなかった。


 沈黙で十分だった。


 マルクスは西へ伸びる退却の列を見た。ティトゥスが命と引き換えに開いた道を、傷ついた兵たちが進んでいる。焼却術式は弱まったが、戦場の各所ではなお炎が上がり、パルティア軍も混乱の中で動き始めていた。


 まだ指揮官が必要だった。


 副官を呼び、残存戦力と退却先を確認する。術式の構造を記した板は別の伝令へ持たせた。今日ここで自分が死んでも、同じ仕掛けで次の軍が焼かれてはならない。進軍の判断に私情が混じったことは、記録板へ書かせる時間がなかった。だが生きて戻れれば、自分の口で王院へ報告するつもりだった。


 帰る道を、まだ閉じてはいない。


「馬を使える伝令は」


「三騎、残っています」


「一人をここへ」


 若い騎士がすぐに膝をついた。兜の片側が潰れ、額から血を流している。それでも背筋を伸ばし、主君の命令を待った。


 マルクスは口を開き、止めた。


 当主として伝えるべきことなら、いくらでもあった。軍の再編、東部の防衛線、王院へ提出すべき戦況、パルティアの術式、死者の名。


 だが、それらは副官と記録官へすでに命じてある。


 今から託すのは、父の言葉だった。


「リヴィアとユリウスへ伝えろ」


 騎士が顔を上げる。


 マルクスは、いつもの号令を思い出した。


 恐れるな。退くな。勝利は、立ち向かう者の先にある。


 兵を前へ進ませるため、幾度も叫んできた。リヴィアは幼いころから知っている。ユリウスも、あのダンジョン侵攻の戦場で初めて直接聞いた。


 あのときの息子は、退くことを知らなかった。


 全員を助けようとし、自分を数の外へ置いていた。その姿に、帰らなかった弟を何度重ねただろう。


 リヴィアもまた、後継者だからと安全な場所へ残されることを嫌った。二人とも、恐れず、退かず、選ばれるのを待とうとする。


 それを強さだと教えたのは、自分かもしれない。


 戦場で恐怖を口にすれば列が崩れる。だから兵には、恐れるなと命じた。退路ばかり見れば前線は支えられない。だから、退くなと叫んだ。


 しかし子供たちは兵ではない。少なくとも、父の言葉を受け取るときまで軍人である必要はなかった。怖いと言ってもよい。勝てない場所から離れてもよい。決めるべきなのは、恐れがないふりでも、死ぬまで前へ出続けることでもない。


 恐れた自分を含めて、どちらへ進むか選ぶことだ。


 それでよいのだ。


「恐れてよい」


 若い騎士が、聞き間違いかと瞬きをした。


 マルクスは一語ずつ、刻むように続けた。


「退いてよい。だが、選ぶことから逃げるな」


 焼けた空気を吸い込み、咳を押し殺す。


「二人で選べ」


 姉に任せろとも、弟に従えとも言わなかった。


 当主を決める言葉ではない。それぞれが何者として生きるかを、自分たちで決めるための言葉だった。


 アウレリウスはかつて、自分は剣になり、兄が家を率いればよいと選んだ。マルクスはその選択を信じきれず、弟に譲らせたのではないかと悔やみ続けた。


 同じ悔いを、子供たちへ遺してはならない。リヴィアが弟を小さくして席を得ることも、ユリウスが姉を哀れんで自分を捨てることも望まなかった。だから答えは残さない。選ぶ責任と、二人なら選べるという信頼だけを残す。


「二人とも、生きて帰れ」


 騎士の唇が震えた。


「必ず、お伝えします」


「一字も変えるな」


「はい」


「復唱しろ」


 騎士は言葉を繰り返した。恐れてよい。退いてよい。だが、選ぶことから逃げるな。二人で選べ。二人とも、生きて帰れ。


 マルクスは二度聞き、頷いた。


「リヴィアは、言葉の裏を読もうとする。ユリウスは、足りない問いを探そうとするだろう」


 血に濡れた手で騎士の腕を掴む。


「裏はない。続きもない。それが全部だと伝えろ」


「承知しました」


「行け」


 騎士が馬へ向かう。数歩進んだところで振り返った。


「閣下も、どうか」


 その先を言わせず、マルクスは手を上げた。


 帰る、と約束することはできなかった。


 帰らない、と決めたわけでもない。


 今なお、自分が生きて戻る手を探している。それがアウレリウスの死を美談へ変えまいとしてきた兄の、最低限の誠実さだった。


 だが、自分の身体の状態も理解していた。


 伝令が馬を駆り、煙の向こうへ消える。


 蹄の音が聞こえなくなるまで、マルクスは立っていた。父としての言葉は送り出した。残る時間は、再び当主として使う。


 マルクスはその背を見送ってから、退却路へ向き直った。


 兵の列が止まりかけていた。


「精霊よ」


 彼の傍らで、忍耐の気配が立ち上がる。


「もう少しだけ、付き合え」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。