第47話 退いてよい
マルクスが立ち上がろうとすると、右脚が動かなかった。
鎧の脇腹は焼け、割れた金具が肉へ食い込んでいる。呼吸のたび胸の奥で濁った音がした。それでも彼は、地面へ突いた剣を杖にして身体を起こした。
視界の右半分が赤く滲んでいた。治療術師が止血の魔法を重ねても、焼却術式に傷つけられた魔力の流れまでは戻らない。忍耐の力を解けば意識を失うと、自分の身体だからこそ分かった。
周囲には、命令を待つ顔がある。ティトゥスが倒れた場所へ駆け寄りたい者、追撃を恐れて剣を握る者、担いだ仲間をどちらへ運ぶべきか迷う者。マルクスが黙れば、その迷いが軍全体へ広がる。
「ティトゥスの身体を回収しろ。だが列を止めるな。前衛は追撃を阻み、治療術師は歩ける者に手を割くな。歩けぬ者から診ろ」
命令が復唱され、人が動く。それを見届けてから、マルクスはようやく自分の傷へ視線を落とした。
「閣下、動いてはなりません」
駆け寄った治療術師が肩を支える。
「治せるか」
問われた術師は答えなかった。
沈黙で十分だった。
マルクスは西へ伸びる退却の列を見た。ティトゥスが命と引き換えに開いた道を、傷ついた兵たちが進んでいる。焼却術式は弱まったが、戦場の各所ではなお炎が上がり、パルティア軍も混乱の中で動き始めていた。
まだ指揮官が必要だった。
副官を呼び、残存戦力と退却先を確認する。術式の構造を記した板は別の伝令へ持たせた。今日ここで自分が死んでも、同じ仕掛けで次の軍が焼かれてはならない。進軍の判断に私情が混じったことは、記録板へ書かせる時間がなかった。だが生きて戻れれば、自分の口で王院へ報告するつもりだった。
帰る道を、まだ閉じてはいない。
「馬を使える伝令は」
「三騎、残っています」
「一人をここへ」
若い騎士がすぐに膝をついた。兜の片側が潰れ、額から血を流している。それでも背筋を伸ばし、主君の命令を待った。
マルクスは口を開き、止めた。
当主として伝えるべきことなら、いくらでもあった。軍の再編、東部の防衛線、王院へ提出すべき戦況、パルティアの術式、死者の名。
だが、それらは副官と記録官へすでに命じてある。
今から託すのは、父の言葉だった。
「リヴィアとユリウスへ伝えろ」
騎士が顔を上げる。
マルクスは、いつもの号令を思い出した。
恐れるな。退くな。勝利は、立ち向かう者の先にある。
兵を前へ進ませるため、幾度も叫んできた。リヴィアは幼いころから知っている。ユリウスも、あのダンジョン侵攻の戦場で初めて直接聞いた。
あのときの息子は、退くことを知らなかった。
全員を助けようとし、自分を数の外へ置いていた。その姿に、帰らなかった弟を何度重ねただろう。
リヴィアもまた、後継者だからと安全な場所へ残されることを嫌った。二人とも、恐れず、退かず、選ばれるのを待とうとする。
それを強さだと教えたのは、自分かもしれない。
戦場で恐怖を口にすれば列が崩れる。だから兵には、恐れるなと命じた。退路ばかり見れば前線は支えられない。だから、退くなと叫んだ。
しかし子供たちは兵ではない。少なくとも、父の言葉を受け取るときまで軍人である必要はなかった。怖いと言ってもよい。勝てない場所から離れてもよい。決めるべきなのは、恐れがないふりでも、死ぬまで前へ出続けることでもない。
恐れた自分を含めて、どちらへ進むか選ぶことだ。
それでよいのだ。
「恐れてよい」
若い騎士が、聞き間違いかと瞬きをした。
マルクスは一語ずつ、刻むように続けた。
「退いてよい。だが、選ぶことから逃げるな」
焼けた空気を吸い込み、咳を押し殺す。
「二人で選べ」
姉に任せろとも、弟に従えとも言わなかった。
当主を決める言葉ではない。それぞれが何者として生きるかを、自分たちで決めるための言葉だった。
アウレリウスはかつて、自分は剣になり、兄が家を率いればよいと選んだ。マルクスはその選択を信じきれず、弟に譲らせたのではないかと悔やみ続けた。
同じ悔いを、子供たちへ遺してはならない。リヴィアが弟を小さくして席を得ることも、ユリウスが姉を哀れんで自分を捨てることも望まなかった。だから答えは残さない。選ぶ責任と、二人なら選べるという信頼だけを残す。
「二人とも、生きて帰れ」
騎士の唇が震えた。
「必ず、お伝えします」
「一字も変えるな」
「はい」
「復唱しろ」
騎士は言葉を繰り返した。恐れてよい。退いてよい。だが、選ぶことから逃げるな。二人で選べ。二人とも、生きて帰れ。
マルクスは二度聞き、頷いた。
「リヴィアは、言葉の裏を読もうとする。ユリウスは、足りない問いを探そうとするだろう」
血に濡れた手で騎士の腕を掴む。
「裏はない。続きもない。それが全部だと伝えろ」
「承知しました」
「行け」
騎士が馬へ向かう。数歩進んだところで振り返った。
「閣下も、どうか」
その先を言わせず、マルクスは手を上げた。
帰る、と約束することはできなかった。
帰らない、と決めたわけでもない。
今なお、自分が生きて戻る手を探している。それがアウレリウスの死を美談へ変えまいとしてきた兄の、最低限の誠実さだった。
だが、自分の身体の状態も理解していた。
伝令が馬を駆り、煙の向こうへ消える。
蹄の音が聞こえなくなるまで、マルクスは立っていた。父としての言葉は送り出した。残る時間は、再び当主として使う。
マルクスはその背を見送ってから、退却路へ向き直った。
兵の列が止まりかけていた。
「精霊よ」
彼の傍らで、忍耐の気配が立ち上がる。
「もう少しだけ、付き合え」




