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全知の精霊は王冠の行方を知らない  作者: Tatsumaru


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第46話 吸収し続ける者

 息を吸うたび、肺が焼けた。


 それでも吸い込む力を緩めなかった。


 彼の背後では、焼けた脚を引きずっていた兵が急に呼吸を取り戻した。退路へ伸びていた炎が曲がり、傷口を抉っていた黒い魔力が抜けていく。一人の身体が壊れていくのと引き換えに、何百もの身体へ散るはずだった力が一点へ集められていた。


 ティトゥスは口元から血を流しながら、それでも両手を下ろさなかった。


 戦場焼却術式から帝国軍へ流れていた魔力が、目に見えるほど太い赤い濁流となって彼へ集まる。そこへリタの暴走が残した黒い流れが絡みつき、肉体の奥へ押し込まれていった。


 吸収とは、消滅ではない。


 受け入れた力は、すべて彼の魔力核と契約経路を通る。処理できる量なら自分の力へ変えられる。限界を超えれば、器のほうが壊れる。


 すでに指先の感覚はなかった。


 契約経路へ流れ込んだ異質な魔力は、互いに反発しながら内側を巡った。焼却の熱が血を沸かせ、嗜虐の残滓がその苦痛を拡大する。新たな魔力が生まれているのではない。すでに膨れきった二つの力が、狭い器の内側でぶつかり合い、壊れかけた経路をさらに傷つけていた。


 男は変換を諦めた。整える時間はない。ただ空いている場所へ押し込み、外へ漏らさず、次の一息のための隙間を作る。戦場の全員へ薄く広がるはずだった死を、一人分の器へ無理やり畳み続けた。


「道が開いたぞ! 負傷者から行け!」


 彼は背後へ叫んだ。


 炎の向きが変わったことで、帝国軍の西側に細い空白ができていた。兵たちは仲間を担ぎ、そこへ殺到する。


 マルクスは退却する列を見ながら、ティトゥスのそばへ寄った。


「あとどれほど保つ」


「焼却術式だけなら、皆が抜けるまで」


 ティトゥスは息を吸い、血を吐いた。


「あの双子の弟が残したものまで含めれば、分かりません」


「止めればどうなる」


「今まで私へ集めた流れが、軍へ戻ります」


 彼が笑ったのか、苦痛に顔を歪めたのか、煤に汚れた横顔からは判別できなかった。


「ですから、これは質問ではありませんな」


 近くの騎士が、自分にも一部を渡せと手を伸ばした。男は首を振る。


「触れるな。これは荷ではない。途中から担ぎ手を替えられるものではない」


 すでに流れは彼の魔力核を中心に組み替わっている。無理に分ければ、制御を失った奔流が周囲へ弾ける。できる援護は、彼の代わりに力を持つことではなく、開いた道から一人でも多くを出すことだけだった。


 マルクスが即座に命じる。


「この者の周囲を空けろ。守るために残るな。全隊、退却を継続!」


 それはマルクス一人を庇うための吸収ではない。前列も、負傷者も、伝令も、軍団の中核も、まとめて生かすために作られた細い時間だった。


 マルクスは一瞬だけ目を閉じた。


 あの日も、ティトゥスはマルクスとアウレリウスへ向かった爆発を、許可も求めず引き受けた。あのときは、治療を重ねながら叱れた。


 あれだけ駄目だと言ったのに、勝手に吸収するな。


 同じ言葉が喉まで上がった。今それを口にすれば、司令官の命令になる。


 途中で止めろとは命じられない。続けろとも、容易には命じられない。だが当主が口にせずとも、戦場は選択を迫る。


「新たな増幅は止まった」


 マルクスは告げた。


「リタは死んだ。今ある分を越えれば、終わる」


「なら、簡単です」


 ティトゥスは前を向いた。


 終わりのあるものなら、そこまで耐えればよい。その理屈が、忍耐の契約者であるマルクスには痛いほど分かった。


 忍耐の力が男を包む。


 傷は塞がらない。裂けた契約経路も戻らない。ただ、崩れ落ちるはずの身体が、あと少しだけ立ち続ける。


「借りますぞ、カルディス卿」


「返さなくてよい」


「では、兵に返してください」


 赤黒い魔力がさらに流れ込んだ。


 男の腕に亀裂のような光が走った。皮膚ではない。内側の経路が壊れ、その光が肉を透かして見えていた。


 一隊が空白を抜けた。次の一隊が続く。歩けない兵は担架に載せられ、それさえ間に合わない者は二人がかりで引きずられた。


 男は一人ずつ数えていた。


 自分が救った数ではない。まだ残っている数を。


 十人減り、また十人減る。列の最後には、歩けない仲間を置いていけず進みの遅い一団がいた。男の視界は黒く欠け始めていたが、その影だけは見失わなかった。


「急がなくてよい!」


 血に濡れた声で叫ぶ。


「落とさず、連れていけ!」


 急げと命じれば担架から誰かが落ちる。自分が保つ時間を一息増やすほうを、男は選んだ。


 最後の負傷兵が境界を越えたとき、地を這っていた黒い流れが細くなった。


「負傷者は抜けた!」


 マルクスが叫ぶ。


 ティトゥスは吸収を緩めなかった。


 軍の最後尾には、伝令と指揮官たちが残っている。ここで手を放せば、蓄積された魔力が彼らを飲む。


「まだ、あなたがいる」


 マルクスは唇を開き、閉じた。止めれば流れは軍へ戻る。その事実を聞いた自分が、命令の形で覆せる選択ではなかった。


 マルクスは残る指揮官と伝令へ退路を示した。


「全員、境界を越えろ。私も続く」


 男は静かに頷いた。


 次の瞬間、最後の奔流が彼の胸へ吸い込まれた。


 戦場を覆っていた赤黒い光が、初めて弱まった。


 同時に、男の魔力核が耐えられる限界を越えた。


 胸の奥で乾いた音がした。


 一つでは終わらなかった。細い枝を折るような音が、胸から肩、背へ続く。魔力核に押し込められなくなった光が皮膚の下へ溢れ、全身へ亀裂の模様を作った。


 それでも、外へ向かう流れはなかった。壊れた器の破片にさえ魔力を引っかけ、軍のいる方向と反対へ押し留める。


 彼は膝をつき、それでも両手を地面へついて倒れることを拒んだ。


「軍は」


「抜けた」


 マルクスが答えた。


「おまえが救った」


 ティトゥスは小さく息を吐いた。


「なら、よろしい」


 それが最後の言葉だった。


 身体から力が抜ける。マルクスは倒れる肩を受け止め、そっと地へ横たえた。


「ティトゥス」


 一度だけ、司令官ではなく友人として名を呼んだ。


 返事はなかった。


 帝国軍は即時の壊滅を免れた。


 だが、その代価を抱き起こしたマルクス自身の鎧からも、止めようのない血が流れ落ちていた。

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