第45話 涙を知らない愛
リタが倒れると、アイラは術式の中心を離れた。
彼の絶叫が途切れたあとも、戦場の者たちはすぐには動けなかった。苦痛の波に身体を強張らせ、次に何が起こるかを待っている。燃え続ける術式の音だけが、耳の奥で鳴っていた。
アイラの周囲には、彼女を守ろうとするパルティア兵がまだ残っていた。愛を強いられた者たちは、自分の皮膚が焼けても彼女へ近づこうとする。だがアイラは一度も振り向かなかった。今、彼女が愛していると意識しているのは、動かなくなったただ一人だけだった。
帝国兵もパルティア兵も、もはや彼女の目には入っていなかった。燃える地面を裸足で歩き、足裏が焼けても歩調を変えず、弟のそばへ膝をつく。
「リタ」
返事はない。
頬に触れる。まだ温かい。けれど、あれほど荒々しく渦巻いていた魔力は、動かない身体から急速に散っていた。
指を頬へ押し当てても、リタは鬱陶しそうに払わない。名を呼んでも、乱暴な返事がない。生きている間には決して得られなかった従順さを、アイラは拒絶ではなく完成として受け取った。
アイラは弟の上体を抱き起こした。
「終わったわぁ」
嬉しそうに囁き、汚れた髪を指で梳く。
「これでもう、誰にも取られないわね。リタが最後に見たのはわたし。最後に呼んだ名前も、わたし。最後までわたしを愛していたもの」
リタの顔には、答えを得られなかった者の苦悶が残っていた。
それさえアイラには、美しい愛の証だった。
「ずっと一緒よ」
どこへ行くかを尋ねる必要はない。何を望むかを聞く必要もない。死者は選ばず、離れず、愛を取り消さない。アイラが長い年月をかけて信じた愛の形に、リタはようやく完全に収まっていた。
そのはずだった。
彼女は笑った。
その頬を、透明なものが伝った。
一滴がリタの額へ落ち、煤に小さな跡を作る。続いてもう一滴、もう一滴と落ちた。
アイラは不思議そうに自分の頬へ触れた。
指先が濡れている。
「雨?」
空は焼却術式の赤に染まり、雲一つなかった。
近くで倒れていた帝国兵が、掠れた声を漏らした。
「泣いて……いるのか」
アイラは兵を見た。敵であることを思い出すまで、少し時間がかかった。
「泣いていないわぁ」
「弟が、死んだから……」
「違うの」
彼女はきっぱりと否定した。
「リタはわたしのものになったのよ。もう離れない。悲しいことなんて、何もないでしょう?」
兵は返事をしなかった。自分の火傷を押さえながら、ただアイラの頬を見ている。その視線に責める色はない。そこにあるものを、そのまま見ていただけだった。
アイラは確かめるように笑みを深くした。
「ほら、嬉しいもの。わたし、ちゃんと笑っているでしょう?」
声も弾んでいる。抱く腕も穏やかだった。なのに涙は顎から落ち続け、リタの胸元を濡らしていく。
拭っても新しい滴が溢れた。止まれと命じても、身体は従わない。愛を強制できる彼女が、自分の涙一つ支配できなかった。
笑顔は崩れなかった。
涙も止まらなかった。
その矛盾を、アイラは矛盾として認識できない。言葉と意識はリタを手に入れたと歓喜し、身体だけが、たった一人の弟を失ったと知っていた。
彼女はもう一度リタの名を呼んだ。
当然、返事はない。
「眠っているだけみたいねぇ」
耳を胸へ寄せる。鼓動はない。アイラはそれを聞こえないのではなく、聞く必要のない音なのだと決めた。眠っているのなら、いつか目を覚ます。しかし死んでいるのなら、永遠に自分のものだ。その二つを同じ微笑みの中へ閉じ込める。
抱き締める腕に力を込める。リタの身体から残りの魔力が抜け、その身体が少しずつ冷えていく。
アイラの背後では、死者の残した暴走がなお渦巻いていた。
新たな魔力はもう生まれない。だが、それまで増幅された力は焼却術式と絡み合い、逃げる兵を追うように地表を走っている。
赤い炎へ黒い脈が混じり、触れた負傷者それぞれの痛みを何度も増幅していた。倒れた者が苦痛に身を反らし、その隣で支える負傷者も自らの傷の痛みに顔を歪める。リタという中心を失った力は行き場をなくし、戦場へ広がろうとしている。
マルクスの号令で帝国軍は西へ動いていた。その退路の先で、ティトゥスはなお両腕を広げている。
帝国軍へ向かっていた赤黒い奔流は、足元の渦へ引かれ続けていた。炎が曲がり、苦痛を孕んだ魔力が一人の身体へ流れ込んでいく。リタが倒れたことで増幅は止まっても、それまでに生まれた量まで消えたわけではない。
「新しい流れは増えていません! ですが、残っている量だけでも――」
「分かっている。先に行け」
ティトゥスは両腕を下ろさなかった。
アイラはようやく顔を上げた。
涙に濡れた目で、遠くの契約者を見る。
「あの人も、みんなを愛しているのかしら」
アイラには、一人であれほどの苦痛を引き受ける理由が分からなかった。命じられたからか、守りたいからか、それとも死んだ後まで兵の心に残りたいからか。彼女の中では、どの道も最後には所有へつながる。
だが男は誰一人、自分のそばへ縛ろうとはしていなかった。むしろ叫び、遠くへ逃がしている。その姿を見ても、アイラは違いに名前をつけられない。
愛するなら近くへ置くはずだという彼女の理屈では、その背中を説明できなかった。
誰も答えなかった。
彼女はリタを抱いたまま、微笑んだ。
「だったら、きっと死ぬのねぇ」




