第44話 愛された者の絶望
リタは、痛みを知っていた。
骨が折れる痛み。刃が肉を裂く痛み。火が皮膚を焼く痛み。幼いころから他人へ与え、自分にも返してきた。どれほど強い痛みでも、名前をつけ、笑いながら受け入れることができた。
初めて人を傷つけさせられたころは、笑えなかった。自分が上げさせた悲鳴を夜になって思い出し、同じ痛みを自分の身体へ刻んだ。それで許されるとは思わなかった。ただ、相手だけに負わせたまま眠ることができなかった。
他者の苦痛と、罪悪感で軋む心と、自らへ返した傷。嗜虐の精霊はそのすべてを区別せず受け取り、幼い契約者へ力を返した。力が増えれば、次はもっと多くを傷つけるよう求められた。繰り返すうちに、苦痛へ意味を与える心のほうが先に壊れた。
最後に残った意味が、アイラだった。
だが、その言葉が作った痛みだけは、どこにあるのか分からなかった。
――いちばん愛しているから、殺す。
胸を押さえても、傷はない。頭を抱えても、割れてはいない。それでも彼の内側で、これまで世界を支えていたただ一つのものが崩れていく。
自分だけは違う。
誰も信じなくなった後も、それだけは残っていた。アイラに愛を強制された兵とも、使い捨てられる臣下とも、自分は違う。二人は共犯者で、家族で、互いの隣に立つ唯一の存在なのだと。
違わなかった。
自分もまた、アイラが愛し、最後には殺して所有する者の一人だった。
「ふざけるな……」
声を絞り出すたび、嗜虐の精霊が歓喜した。
目には見えない何かがリタの背後で膨れ上がる。苦痛を糧とする大精霊は、相手に与えた痛みと契約者が受けた痛みを区別しない。戦場を満たす負傷者の苦痛も、リタ自身の絶望も、すべてを力へ変えた。
魔力が増えた。
増えた魔力が契約の経路を押し広げ、裂いた。
裂けた経路が、新たな痛みを生んだ。
「あ、ああ……っ」
リタの背が反る。皮膚の下を黒い筋が走り、傷口から赤黒い光が噴き出した。
一人の兵が腹を押さえて倒れた。その痛みがリタへ流れ、増幅され、波となって戦場へ返る。十人が叫び、百人が膝をつく。生まれた苦痛がさらに精霊へ注がれ、魔力となって膨れ上がった。
戦場焼却術式が傷を作る。
傷が苦痛を生む。
苦痛がリタの魔力を増やす。
増えた魔力が、より大きな苦痛をばらまく。
二つの力が噛み合い、互いを際限なく回し始めた。
焼却の炎に腕を灼かれた兵が叫ぶ。その叫びを嗜虐の力が深くし、深くなった苦痛がリタへ魔力として流れ込む。膨れた魔力は傷ついた契約経路をさらに押し裂き、そこに生じたリタ自身の苦痛までまた力へ変える。
敵も味方もなかった。倒れたパルティア兵の火傷も、退却する帝国兵の負傷も、同じ循環へ引き込まれた。炎から離れたはずの負傷者が突然傷口を押さえ、増幅された自分の痛みに絶叫する。戦場全体が一つの傷口へ変わっていった。
帝国軍の退路の先で、ティトゥスが両腕を広げた。
「帝国軍へ向かう流れを、こちらへ寄せる!」
足元に渦が生まれ、焼却術式の赤い魔力が曲がった。彼一人の身体へ吸い込まれたことで、西へ続く退路に細い空白ができる。
だが直後、リタの暴走から伸びる黒い流れまで渦へ絡みついた。契約者の肩が揺れ、口元から血が落ちる。
「止めれば、すべて軍へ戻る! 新たな増幅が止まるまで先へ進め!」
「リタ?」
アイラが初めて瞬きをした。
彼女はリタを殺すつもりだった。しかし、こんなふうに壊れることまでは考えていなかった。
「苦しいのぉ?」
「来るな!」
リタがまだ動く片腕を振ると、通常の爆裂魔法が大地を抉った。アイラの足元まで亀裂が走る。
それでも彼女は術式を止めなかった。リタが死ねば、その愛は最後の形で自分のものになる。苦しみが長いか短いかは、彼女にとって愛の正しさを変えなかった。
帝国軍側では、マルクスが歯を食いしばって立っていた。
リタの声を聞けば、弟を持つ者として、その絶望の形は分かった。唯一だと信じた相手に、自分は唯一ではないと突きつけられたのだ。
だが、理解することと、救うことは同じではない。
「リタから離れろ!」
マルクスは命じた。
「接近を禁ずる! 暴走をこちらへ導くな! 負傷者を西へ!」
敵国の第1級契約者を救うために、自軍をさらに危険へ晒すことはできない。リタを止める手段があるかもしれないと探す間にも、兵は死ぬ。
それが当主の判断だった。
「声に引かれるな、足を止めるな!」
マルクスは、リタへ向き直ろうとした兵の肩を押した。敵であっても、あれほど絶望した声を聞けば助けられるのではないかと思う者はいる。まして暴走を止めなければ自分たちも死ぬ。
それでも接近させなかった。救える保証のない一人へ軍を寄せれば、苦痛の中心へさらに多くの負傷者を与えるだけだ。理解した苦しみを切り捨てる、その重さまで指揮官が負わなければならない。
忍耐の力を西へ絞る。増幅された痛みに膝をついた兵の身体が、再び退路へ向いた。
リタの膝が折れた。
「違う……俺は……」
否定しようとする言葉は、もうアイラへ届いていなかった。自分は捨てられていないと信じ直すこともできない。捨てた当人が、愛しているから殺すと微笑んでいるのだから。
黒い筋が首を越え、頬を走った。
リタは最後にアイラを見た。
助けを求める目ではなかった。怒りでも憎しみでもない。ただ、答えが変わることを待つ目だった。
アイラは両腕を広げたまま、優しく頷いた。
「違うと言え」
声になったかどうかも分からない。喉から漏れたのは、獣の唸りより弱い息だった。
一度だけでよかった。殺すのは愛ではないと、これは間違いだったと、アイラが言えばよかった。そうすれば砕けた世界を、嘘でも組み直せたかもしれない。
「愛しているわ、リタ」
その瞬間、リタの内側で暴走を支えていたものが砕けた。
音にならない絶叫が戦場を貫いた。制御を失った魔力が、黒い奔流となって噴き上がる。
リタの身体は糸を切られたように倒れた。
そして彼が死んでも、戦場へ放たれた苦痛の波だけは、すぐには消えなかった。




