第43話 アイラ、俺もいる
戦場全体へ最初に伝わったのは、音ではなかった。
足裏から這い上がる震えだった。地中深くで巨大な獣が身じろぎしたように大地がうねり、次いで、戦場のあちこちに赤い光が灯った。
リタを押さえていた槍の穂先が跳ねた。兵たちはなお押さえ直そうとしたが、マルクスが怒鳴る。
「捨て置け! 術式の外へ走れ!」
槍兵が一斉に離れた。リタは地へついた片膝を起こし、退いていくマルクスたちを見て笑う。「わたしのもの」というアイラの言葉を、他人には殺させないという意味に受け取っていた。自分を殺す寸前だった男が逃げたのは、アイラが助けたからだと思った。
一つ一つは小さく、戦闘の残滓へ紛れていた。先ほどまでなら、誰もが意味のない魔力の名残と見過ごしただろう。
その光が、線で結ばれた。
「退却を続けろ!」
マルクスの命令が轟いた。
「隊列を保ったまま西へ走れ! 負傷者を置いていくな! 北軍にも即時撤退を伝えろ!」
命令が角笛となり、旗となって戦場へ走る。
兵たちは即座に背を返した。忍耐の精霊の加護に支えられ、傷ついた足を動かす。だが、命令が届くより早く、赤い線は幾重もの輪となって戦場を囲んだ。
空気が燃えた。
前列の盾が赤くなり、革紐が煙を上げた。倒れていた兵の鎧の隙間から火が噴き、まだ息のある者が土を掻く。炎に触れていない者まで喉を押さえた。熱せられた空気を一息吸うだけで、肺の内側を焼かれる。
西へ続いていた退路にも、赤い線が一本横切った。後方にいるから安全なのではない。術式の内側にいるかぎり、戦場のどこも起点になり得る。
それを理解した瞬間、整然としていた帝国軍の列が膨らみかけた。誰もが、まだ火の上がっていない狭い場所へ殺到しようとする。
炎はどこか一か所から押し寄せたのではない。戦場の至るところから同時に噴き上がった。隠されていた基点のすべてが、初めから一つの術式であったことを明かしたのだ。
「陣形を捨てろ! 西へ走れ! 負傷者は担げ、武具は置いていけ!」
マルクスは命令を重ねた。
勝つための陣ではない。人を生きて外へ出すための流れを作る。弟なら、これが結ばれる前に見抜いた。その考えが一瞬だけ脳裏を掠めた。
だが、ここにいるのは自分だ。
遅れた一手を悔いる時間さえ、今は兵の命である。
「押すな! 火のない場所ではなく、輪の外を目指せ!」
近くの隊長が同じ命令を復唱する。伝令が炎の隙間を走り、別の隊へ伝える。マルクスは術式の形が見えた今、最も薄い西の一角へ人の流れを集めた。密集すれば焼かれたときの被害は増す。それでもばらばらに逃げれば、負傷者は確実に置き去りになる。
彼は忍耐の力を広げた。
熱は消えない。焼けた皮膚も戻らない。ただ、恐怖に折れかけた膝がもう一度伸びた。兵たちは悲鳴を上げながら仲間の腕を肩へ回し、命令された方角へ足を動かす。
前へ出た判断へ私情が混じった。その結果まで、他人のせいにはできない。マルクスは自分の胸にだけそう言い、次の命令を探した。
術式の中心近くで、リタが笑っていた。
「派手にやるじゃねえか、アイラ!」
頬には戦いで受けた裂傷が走り、片腕は不自然な角度に垂れている。それでも痛みを楽しむように口角を上げ、姉のほうへ歩いた。
アイラは炎の向こうで、両手を広げていた。白い頬を朱に照らされ、祝宴の灯を眺める少女のように微笑んでいる。
「きれいでしょう、リタ」
「ああ。帝国の連中をまとめて焼く気か。だったら俺が、逃げる奴から壊して――」
そこでリタの足が止まった。
炎の線が、彼の靴先を通り抜けていた。
熱が靴を焦がし、皮膚を焼く。それだけなら、リタは笑っただろう。だが彼は、自分の身体の内側に入り込んだ術式の流れを知覚していた。
それは敵味方を分けていなかった。
帝国兵も、パルティア兵も、アイラ自身も。そしてリタも、一つの巨大な炉へ投げ込むように組まれていた。
「……おい」
初めて、その声から愉悦が消えた。
「アイラ」
「なぁに?」
「俺もいる」
アイラは不思議そうに首を傾げた。
リタは焼ける足を引きずり、もう一歩近づいた。
「聞こえなかったか。アイラ、俺もいる」
彼はこれまで、アイラが誰を愛し、誰を壊しても笑って見てきた。自分たちは二人で一つだった。他の者はアイラに愛され、所有されるもの。自分だけは違う。自分は隣に立ち、同じ景色を見る者だった。
だから、これは手違いだと思った。
他の者がアイラの前へ跪くときも、リタだけは隣に立った。彼女が誰かを抱き締め、壊し、もう要らないと手放すたび、二人で笑った。アイラが世界のすべてを自分のものと呼んでも、その世界を一緒に見下ろす場所だけは、自分のために空いていると疑わなかった。
炎の線は、その場所まで等しく焼いていた。
「術式を止めろ。俺を外して、もう一度やれ」
「しないわぁ」
「なら俺のところだけ切れ。アイラならできる」
「しないの」
アイラの声は、子供を諭すように優しかった。
リタの顔から血の気が引いた。
周囲で悲鳴が上がった。焼かれた者の中には、先ほどリタが傷つけ、痛覚を増幅した兵もいる。その苦痛が嗜虐の精霊を通して彼へ流れ込む。いつもなら甘美な力となるはずのそれが、今は言葉の意味を理解する邪魔にしかならない。
「アイラ、俺だぞ」
焼けた足の痛みが、遅れて腰まで這い上がる。嗜虐の精霊がそれを拾い、甘い力へ変えようとした。だがリタは初めて、自分の痛みから力が生まれることを疎ましいと思った。欲しいのは強さではない。術式から自分の名が消えること、それだけだった。
返事の代わりに、炎が高くなる。
「他の奴らとは違うだろ。俺はアイラを裏切らねえ。俺だけは、ずっと――」
「知っているわぁ」
アイラは笑った。
その笑顔には嘘がなかった。嘲りも憎しみもない。リタが知るうちで、もっとも深い愛情があった。
だからこそ、彼はようやく気づいた。
忘れられていたのではない。
初めから、含まれていたのだ。
「アイラ、なんで……」
戦場で幾千の悲鳴を聞いても揺らがなかった男の声が、幼い子供のように震えた。
アイラは炎を越えて手を伸ばした。
届けば、いつものように頬を撫でるつもりなのだろう。その手つきまで優しい。リタは後ずさることも、その手を払いのけることもできなかった。拒めば、自分から唯一の場所を捨てることになる。それを認めるための足場は、彼の中にもう何一つ残っていなかった。
「リタだからよぉ」
赤い光が、二人の間を満たした。
「いちばん愛しているリタだから、最後まで、わたしのものにするの」




