第42話 隠された火点
進軍から三日目、帝国軍は双子を視界に捉えた。
低い丘が連なる広い戦場の東端で、パルティア軍が退路を狭められている。北からリヴィアの軍が圧力をかけ、中央からマルクスが進む。南へ回る道は、ユリウスが別働隊を押さえたことで使えない。
好機に見えた。
実際、戦況は帝国へ傾き始めていた。
ただし、それは帝国軍が一度も押し返されなかったという意味ではない。
朝、中央軍の最初の盾列を破ったのはリタ一人だった。
全身を覆う魔力は、炎や光の形さえ取っていない。長い年月をかけて嗜虐の大精霊と育てた膨大な力を、そのまま筋肉と骨へ流し込んでいる。踏み込んだ足の下で乾いた地面が割れた。
リタは両手で盾を受け止めた。
押し合う気などなかった。腕を振り抜くと、三人の兵と盾がまとめて横へ飛んだ。後ろの槍兵まで巻き込まれ、列の中央に人二人分の穴が開く。
リタは腰の剣を抜いた。
帝国兵の槍が脇腹を掠めた。リタは避けず、むしろ傷口を見て笑った。
「それだけかよ」
返す刃が、槍兵の籠手を浅く裂く。
傷は指二本分だった。
だが、攻撃された兵は腕を断ち切られたような声を上げ、槍を落とした。嗜虐の精霊が、リタに傷つけられた者の痛覚を広げている。実際の傷が浅くても、身体は耐え難い損傷を受けたものとして硬直する。
リタはその兵の胸を蹴った。
穴がさらに広がる。
左右の盾列が内側へ閉じようとした。リタは肩からぶつかり、盾ごと押し開く。槍を受ければ穂先を折り、剣が届けば持ち主の手首へ一筋だけ傷を返す。一筋で十分だった。傷つけられた兵は痛みに膝をつき、後ろの者がそれを避けた瞬間に列が崩れる。
三十歩。
中央軍は、リタ一人に押し込まれた。
その後ろから、アイラに愛を強いられた兵たちが続いた。腕を失っても前へ出ようとし、倒れた仲間を踏んで双子を守ろうとする。
リタの力で穴を開け、アイラの兵が広げる。
力任せでありながら、その力だけで通常の軍略を押し潰せる攻勢だった。
マルクスは前列の悲鳴を聞き、忍耐の精霊魔法を広げた。
痛みは消えない。
裂かれた皮膚も、折れた骨も治らない。それでも痛みに奪われた呼吸を一度だけ取り戻し、崩れかけた膝を立たせ、次の命令を聞くための意識を残す。
「第一列、左右へ退け! 第二列、穴を埋めろ!」
兵たちは、叫びながら動いた。
立てる者も下げた。リタの攻撃を一度でも受けた兵は、二人一組で後ろへ運ぶ。まだ剣を握れると訴えても前へは戻さない。空いた場所へ、痛覚を増幅されていない新しい列を入れる。
耐えられることと、戦わせ続けてよいことは違う。
忍耐は、一人へすべてを背負わせるための力ではなかった。
「何人替えても同じだ!」
リタが笑い、片腕へ魔力を集めた。
人の胴ほどある魔力の塊が放たれる。盾列へ届けば、今度は穴では済まない。
「下がれ!」
命令と同時に、ティトゥスが前へ出た。
放たれた魔力の軌道が曲がる。奔流の大半が男の両腕の間へ引かれ、その身体へ吸い込まれた。消えたのではない。引き受けた魔力は契約者の内側へ蓄積され、時間をかけて処理される。
吸い切れなかった力が左右の地面を抉った。
それでも、中央の盾列は直撃を免れた。
「二度目は受けられません」
ティトゥスは後退しながら言った。声は平静だったが、指先が震えている。
「一度でよい」
マルクスは答えた。
その一度に別の部隊を動かした。
左右から騎士隊が入り、リタに開けられた穴を広げようとする敵兵を分断する。前列が一撃を受けて退き、第二列が進む。第二列が傷つけば第三列へ替えた。下がった兵は治療を受け、まだ動ける者は戦闘ではなく負傷者の搬送へ回す。
北軍が敵の左を削る間、中央軍は正面を支えた。最初の大きな魔法は吸収の契約者が受け流し、その後は別の第1級保持者たちが牽制を重ね、リタに次の一撃を組み上げる時間を与えない。騎士が敵兵を切り離し、平民の軍団が確保した土地を守る。
リタが一か所を押すたび、その場所だけが退く。
だが、その隣の列は退かなかった。
突出したリタの両側へ別の隊が入り、アイラの兵と引き離す。包囲される前にリタが戻れば、帝国兵は追わない。彼が振り返ったところで、後退していた列だけが同じ歩数を取り返す。
一人ひとりの力を、必要な場所へ置く。
一つの隊に勝たせず、軍団全体にも負けさせない。
昼までに、奪われた三十歩を帝国軍は取り戻した。
さらに十歩、パルティア軍を東へ押した。
「追い詰めています」
傍らの騎士が言う。
「まだだ」
マルクスは即答した。
追い詰められている者の退き方にしては、アイラが楽しそうすぎた。
白い馬はすでに失われ、衣も血と土で汚れている。それでも彼女は、ときおり歌うように兵の名を呼び、笑顔で東へ歩いていく。
リタは苛立ちを隠さない。自分を止める列へ痛みを刻み、姉を急かし、何度も後方を振り返る。
二人の様子は一致していなかった。
姉だけが、何かを待っている。
「司令官、残滓の追加報告です」
伝令が書板を差し出した。
進軍初日から記録させていた、小さな魔力の痕跡。新しく見つかったものも、量はごくわずかだった。
いずれも戦闘の跡に紛れた異常にすぎず、位置にも現れ方にも明らかな共通点はない。どれもアイラの精霊魔法か、リタの濃い魔力の余波と重なり、その下に別の魔力が混じっていても判別しにくかった。
「個別に調べた結果は」
「多くは戦闘の残滓として説明できます。由来を絞れないものもありますが、発動の兆候も、周囲への影響もありません」
どれも説明できる。
説明できない一つも、脅威と呼べるほどではない。
「印を追加しろ」
地図へ小さな黒点が増えた。
副官が首を傾げる。
「散らばっていますな」
「ああ」
「敵の退路とも、補給路とも重なりません」
それも事実だった。
報告地点は散らばり、共通する形も、戦術上の意味も読み取れない。
何かの準備だとすれば、あまりにまとまりがない。
マルクスは地図を閉じ、前線へ戻った。
昼過ぎ、パルティア軍は戦術上の価値が見えない場所へ兵を集めた。
守りやすくもなく、退却の助けにもならない。にもかかわらず、アイラの兵たちはそこを渡すまいと、次々に身を投げ出した。
「あの場所に何かある」
マルクスは正面攻撃を止め、騎士を迂回させた。
敵兵を排除して調べると、そこにもこれまでと同質の、ごく微かな異常が確認された。
量は小さい。
それまでの黒点と同じく、単独では何も起こさない。
「基点ではありませんか」
「何のための」
答えられる者はいなかった。
一つの術式に属するなら、何らかの規則性が見えるはずだった。だが黒点は散らばり、つながる先がない。アイラたちが立つ場所を基準にしても、共通点はつかめなかった。
マルクスは、点を一つずつ見た。
それぞれが何であるかを考えた。
単独の作用から用途を推定しようとしたが、どの仮説にも決め手がない。一つの答えを無理に当てはめず、可能性を検討した。
その慎重さが、かえって点を点のままにした。
夕刻を前に、リタが退却をやめた。
中央軍の奥に立つカルディスの軍旗を見つけ、血に濡れた歯を見せる。
「替わりがいなくなるまで壊せば、終わりだろうが!」
再び魔力が膨れ上がった。
マルクスは、前へ出ろとは命じなかった。
「中央を二列、下げろ。旗は動かすな」
副官が息を呑む。
「司令官までの道が開きます」
「開けるのだ」
朝から繰り返した交代で、リタは帝国軍の動き方を知ったつもりになっている。攻撃すればその列が退き、次が出る。ならば退く列を追い続ければ、最後には指揮官へ届く。
そう思わせた。
角笛が二度鳴った。
中央の盾列が割れ、軍旗まで細い道が開く。
リタは迷わず飛び込んだ。
最初の隊は、正面から一撃だけを受けた。盾が砕け、二人が倒れる。忍耐の力で意識をつなぎ、残る者は左右へ退いた。後ろで待っていた搬送役が倒れた兵を引きずり出す。
二つ目の隊は止めようとせず、長槍を斜めに揃えた。リタが三本を折る間に、穂先の一本が腿を裂く。彼が槍兵へ腕を伸ばす前に、隊は道を譲った。
三つ目の隊は、左右から盾をぶつけた。
リタは片方を殴り飛ばした。だが反対側を向いた瞬間、背後で盾列が閉じる。追ってきたアイラの兵たちは、騎士隊とその壁に遮られた。
リタだけが、中央軍の内側へ残された。
「小細工を!」
周囲へ魔力を放とうとする。
朝、吸収の契約者が命を削って作った一度が、ここで生きた。あの魔力を受け止められたことで、中央軍は壊滅せず、配置を組み直す時間を得ている。二度目を同じ男へ求める必要はなかった。
散開していた第1級保持者たちが、別々の方向から魔法を撃ち込んだ。
リタは自分の身体を守るため、集めた魔力をそちらへ向ける。帝国兵をまとめて吹き飛ばすはずだった一撃が、いくつもの迎撃へ裂かれた。
その隙に、四つ目の隊が入った。
狙うのは首ではない。片腕、片脚、踏み込む足元。誰か一人が打ち勝つ必要はない。槍で軌道を変え、盾で半歩ずらし、次の一撃を別の隊へ渡す。
リタが一人を傷つけるたび、その兵は耐えて一歩だけ退いた。
次にリタが向き直ったとき、傷ついていない別の兵がいた。
彼が五人へ勝つ間に、五つの隊がその身体へ一撃ずつ残した。
頬が裂けた。
腿の傷が深くなった。
盾の縁が肘へ入り、続いて反対側から長槍の柄が叩き込まれる。骨の折れる音がして、片腕が不自然な角度に垂れた。
それでもリタは止まらなかった。
蓄えた魔力を身体へ注ぎ、動かない腕ごと肩を振り回す。盾兵が三人まとめて倒れた。刃を受けた者たちの小さな傷へ、嗜虐の力が耐え難い痛みを流し込む。悲鳴が重なり、中央の一角がまた崩れかける。
マルクスは忍耐の力を絞った。
軍団全体へ薄く広げるのではない。今リタと接している隊へ、次の命令を果たすための一歩だけを与える。
「第五隊、退け。第六隊、右から押せ。騎士隊、背後を閉じたまま三歩前へ」
痛みに顔を歪めた兵が動く。
リタの前だけが開き、左右と背後が狭まった。
前にいるのはマルクスだった。
リタは笑った。
「ようやく出てきたな、腰抜け!」
マルクスは答えなかった。
ここまでリタを運んだのは、彼一人の剣ではない。盾を砕かれても命令を伝えた兵、痛みを抱えて退いた隊、魔力を受けた契約者、左右を閉じた騎士、その全員だった。
軍団が作った一瞬を、司令官が受け取る。
リタが踏み込む。
傷ついた腿が、わずかに沈んだ。
マルクスはその一歩だけを待っていた。横薙ぎの刃を受け流し、動かない腕の側へ回る。剣の柄で顎を打ち上げ、膝裏を蹴った。
リタの片膝が地につく。
帝国兵の槍が同時に四方から入り、残る腕と両脚を留めた。リタは一本をへし折ったが、二本目を折る前にマルクスの剣が喉元へ下りる。
そのとき、北軍からの伝令が前線へ駆け込んだ。
「北軍にも同じ残滓! 我々が通過した後、背後から見つかったものもあります!」
伝令が握る地図には、中央軍のものよりさらに多くの黒点が散らばっていた。
剣を振り下ろすマルクスの視界の端で、アイラが笑った。
弟を助けに走るのではない。
両腕を、ゆっくりと広げる。
「駄目よぉ」
戦場の喧騒に消えそうな声だった。
「リタは、わたしのものだもの」
その声と同時に、マルクスの足元でごく小さな赤い光が灯った。
剣先がリタの喉へ届く寸前、大地が脈打つ。マルクスは斬撃を止めた。
アイラは敗北からリタを救おうとしたのではない。
他人の刃に奪われる前に、自分の手で殺す。最後に誰を見て、誰の名を呼び、誰を愛したのか。そのすべてを自分のものにするため、最愛の弟ごと術式へ入れた。
一つ。
また一つ。
前線の異常が、伝令の報告にあった遠い残滓へ呼びかけるように脈打つ。
離れていた点の意味が、マルクスの中で初めて一つにつながった。
マルクスの脳裏に、中央軍、北軍、退却中のパルティア軍、そして負傷者を集めた後方の位置が重なる。
黒点が囲んでいたのは、土地ではなかった。
人間だった。
敵は重要な地点を守っていたのではない。戦いながら両軍を誘導し、無意味に見える点の内側へ集めていた。
十五年前、アウレリウスが見抜いたものと同じだ。
勝つためではない布陣。
敵味方を、一定の範囲へ収めるための戦場。
過去の記録にあった、戦場焼却術式。
気づいた。
弟より、一手遅れて。
マルクスは剣を引き、振り返った。
「全軍、退却!」
号令と同時に、赤い光が戦場へ走った。




