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全知の精霊は王冠の行方を知らない  作者: Tatsumaru


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第41話 一手遅れの決断

 進むべき理由は、十分にあった。


 退くべき理由も、同じだけあった。


 中央軍の幕舎で、マルクスは卓上の駒を見つめていた。


 北ではリヴィアが敵の街道を押し返し、南ではユリウスが別働隊と避難民を切り離した。パルティア軍の主力は補給拠点を一つ失い、東へ退き始めている。


 アイラとリタの位置も判明した。


 双子は北から中央へ移り、撤退する主力の後方にいる。ここで中央軍が進めば、北のリヴィアと挟む形になる。愛の亜神と嗜虐の大精霊という、帝国にとって最大の脅威を討つ機会だった。


「追撃すべきです」


 進軍を支持する騎士が、地図の一点を指した。


「敵の前衛は崩れ、負傷者を収容する余裕もない。今退けば、双子は東で態勢を立て直します。再び愛の軍団を作られてからでは遅い」


「北軍と呼応できるのも今だけです。日を置けば、敵は街道を壊し、合流を妨げるでしょう」


「国境内の土地を、これ以上敵の手に置くべきではありません」


 どれも正しかった。


 今なら勝てる可能性が高い。敵の最大戦力を残して退けば、次はどの都市へ向かうか分からない。戦線を押し戻すだけでなく、侵攻を終わらせるには進む必要がある。


「私は、一度退くべきだと考えます」


 ティトゥスが静かに言った。


 吸収の精霊と契約する彼は、戦場へ放たれた魔力を引き受け、軍団への被害を減らす役を担っている。敵の魔力の流れを、誰より近くで感じてきた。


 ここにいるのは、若いころから軽口を交わしてきた友人ではない。進退の判断材料を告げる第1級保持者と、それを聞く現場司令官だった。


「理由を」


 マルクスが促す。


「敵の退き方が、敗走にしては揃いすぎています。捨てた補給拠点にも、焼くことのできた物資が残されていた。追わせるための餌である可能性を否定できません」


「斥候は伏兵を発見していない」


「伏兵だけが罠とは限りません」


 吸収の契約者は、地図の広い範囲へ手を置いた。


「ここ数日、戦場の各所で小さな魔力の残滓が報告されています。どれも脅威とは呼べない量で、種類も一定しない。戦闘の跡と説明はできます。ですが、分からないものを残したまま、第1級二人が待つ奥へ進むのは危険です」


 退却を支持する声が続いた。


 中央軍の補給線は伸びている。兵はマルクスの精霊魔法で戦線を保っていても、傷も疲労も消えてはいない。北軍との挟撃も、予定どおり連絡が届くことを前提としている。


 パルティアは、過去に敵味方を区別せず戦場を焼いた国である。


 普通ならしない、という考えこそが最も危険だった。


「進軍にも合理性があります」


 吸収の契約者は付け加えた。


「敵の残した魔力が、撤退時の妨害や愛の精霊魔法を補うものなら、時間を与えるほうが危険になる。私が感じたものにも、一つの術式と断定できる共通点はありません。ゆえに、強く退却を求めるものではありません」


 意見は割れた。


 どちらかが臆病で、どちらかが勇敢なのではない。どちらにも救える命があり、失う命がある。


 最後に選ぶのは、現場司令官であるマルクスだった。


 全知の力を持つユリウスがここにいたとしても、代わりに答えを出すことはできない。既にある敵情は調べられても、まだ誰も選んでいない進軍の結果までは存在しない。分からない未来を引き受けて命令することが、司令官の役目だった。


 彼は一度、全員を幕舎から下がらせた。


 一人になると、卓上の新しい地図の下から、古い作戦記録を取り出した。


 アウレリウスが死んだ戦場の記録である。


 敵の不自然な配置から焼却の企みを見抜いた時刻。最初の撤退命令。危険な範囲を出た部隊。最後に弟が確認された地点。


 何度読んでも、そこに自己犠牲の計画はない。


 アウレリウスは、自分を含む全員が帰る手を選んでいた。


 それでも帰らなかった。


 記録の中に、アイラの名がある。


 マルクスは、彼女が真の元凶ではないことを知っていた。当時は七歳の子供で、国王に戦場へ出され、自分の力に怯えていた。危険へ戻ったことは事実でも、それを理由に弟の死をアイラへ負わせるつもりはない。


 恨むべきは、子供と自軍まで焼こうとした王であり、そのような手段を許す国のあり方だ。


 理解している。


 理解していても、現在の戦場に立つアイラの姿へ、弟が帰らなかった日が重なった。


 ここで退けば、彼女はまた東へ戻る。


 愛を強いる軍を作り、別の戦場へ現れる。そして今度も、誰かが彼女を止めるために帰らなくなるかもしれない。


 それは進軍を正当化する、軍事的な危険だった。


 同時に、兄として終わらせたい過去でもあった。


 マルクスは二つを完全には切り分けられなかった。


 普段の自分なら、一度退いて残滓を調べ、補給を整えてから進んだかもしれない。


 だが今は、進むことで双子を討てる根拠のほうが、わずかに重く見えた。


 幕舎へ全員を戻す。


「中央軍は進む」


 マルクスは告げた。


「北軍と呼応し、敵主力の退路を狭める。目的はアイラとリタの無力化だ。深追いする部隊を出すな。斥候を増やし、魔力の残滓を発見した場合は大小を問わず報告せよ」


 退却を進言したティトゥスも、異を唱えなかった。


「承知しました」


「この決断の責任は私が負う」


「ならば私は、決断の後で兵を守ります」


 短い応答の後、命令は全軍へ伝えられた。


 忍耐の精霊の力が広がり、疲れた兵たちが立ち上がる。痛みは残っている。足の重さも、戦場への恐怖も消えてはいない。それでも盾を持ち、列を組み、前へ進む。


 進軍は順調だった。


 敵の小部隊を退け、捨てられた陣地を越え、北軍との距離を縮める。報告される魔力の残滓は、どれも小さく、それぞれに説明がついた。


 戦闘の余波として説明できるもの。


 既存の術式の残りと見えるもの。


 アイラの愛とリタの嗜虐、その濃い魔力に紛れて判別できないもの。


 一つずつ見れば、進軍を止めるほどのものではない。


 マルクスはすべて報告させ、地図へ印を置かせた。


 印の間には、ひとつの術式だと断定できる規則性が見えなかった。


 少なくとも、そのときの彼には、そう見えていた。


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