第40話 全員で帰る作戦
アイラは、差し出された手を取らなかった。
アウレリウスも無理にはつかまず、携帯食を一つ足元へ置いた。
「毒は入ってねえ。俺も同じものを食う」
言って、自分の分を先に噛みちぎる。
七歳のアイラは、しばらく彼の口元を見ていた。死なないと分かるまで待っているらしい。やがて泥のついた手で食べ物を拾い、小さくかじった。
「まずい」
「戦場の飯に何を期待してやがる」
「王宮のは、もっと甘いわ」
「なら帝国へ来い。甘いものくらい食わせてやる」
捕虜へ告げる言葉ではなかった。
アイラは食べるのを止める。
「わたしを、連れていくの?」
「ここへ置いておけるか。お前の王は、七歳の餓鬼に軍を狂わせて戦わせたんだぞ」
「帰らないと、怒られる」
「帰ったって怒られるだろ。負けたんだから」
乱暴な言い方だったが、声に責める響きはない。
アウレリウスは、彼女へ軍団の敗北を負わせなかった。愛の精霊魔法を使ったのはアイラでも、それを命じ、少女を戦場の中央へ置いたのは大人たちである。その区別を、彼は最初からしていた。
「帝国へ行ったら、どうなるの」
「話を聞かれる。精霊のことも調べる。すぐ自由に歩き回るのは無理だろうな」
「やっぱり、閉じ込めるのね」
「保護と監視はされる。だが、少なくとも兵の命を背負わせたりはしねえ」
助かると約束して機嫌を取ることも、自由になると嘘をつくこともしなかった。
「俺には、お前と同じ年の姪がいる」
「めい?」
「兄貴の娘だ。リヴィアという。剣を振り回す、気の強い餓鬼だ」
「戦うの?」
「練習はする。だが子供だから、戦場には出さん」
アイラは、本当に意味が分からないという顔をした。
「強いのに?」
「強くなる途中だからだ」
「精霊がいても?」
「いてもだ」
子供であることが、力を使わせる理由ではなく、戦場から遠ざける理由になる。
アイラが初めて知る考え方だった。
「帝国へ着いたら会わせてやる。たぶん喧嘩になるが、同じ年の話し相手くらいにはなる」
「リヴィアは、わたしを好きになる?」
「知らん。お前らで決めろ」
その答えも、アイラの知る大人とは違った。
愛させるとも、愛すべきだとも言わない。会った後の心を、二人の子供へ返した。
アウレリウスは、アイラだけを特別に扱ったわけではない。
捕らえたパルティア兵の傷を治療させ、歩けない者には担架を回した。帝国兵から不満が出ると、捕虜を死なせれば情報も交換材料も失うと実利で黙らせた。そのうえで帝国側の負傷者を先に安全な場所へ送り、帰還の順序を崩さなかった。
敵味方を問わず可能なかぎり生かす。
ただし、自軍を危険へ差し出してまで敵を優先はしない。
全員を帰すとは、順序も責任も投げ捨てて手を伸ばすことではなかった。誰をどの道から、いつ動かせば、最後に自分まで帰れるか。アウレリウスは最初からその形を考えていた。
異変に気づいたのは、撤収の準備が整いかけたころだった。
パルティア軍は退いている。にもかかわらず、守る価値のない丘へ兵を残していた。別の場所では、撤退路から外れた石積みを、負傷者まで使って守っている。帝国軍に奪われた補給地には見向きもせず、両軍の兵が密集する場所だけを囲むように動いていた。
勝つための配置ではない。
人間を、一定の範囲へ集めるための配置だった。
アウレリウスは戦場に残る魔力の流れを確かめた。戦いの余波に紛れるほど薄い異常が、離れた場所にも断片的にある。何に仕込まれ、どう働くものかまでは、まだ判別できなかった。
「全隊、撤退を早めろ」
立ち上がったときには、もう命令を発していた。
「敵の負傷者も動かせ。荷は捨てろ。異常が報告された場所には近づくな」
「何が起きるのです」
「戦場ごと焼く気だ」
問い返した者の顔から血の気が引いた。
パルティア国王は、捕らえられたアイラを奪還しようとしているのではない。帝国へ渡るくらいなら、自国兵も、アイラも、帝国軍も、まとめて消すつもりだった。
「間に合いますか」
「間に合わせる。俺も最後に出る」
それは勇ましい慰めではなく、すでに組み始めた手順だった。
最も傷の重い者から外へ出す。歩ける捕虜は帝国兵と組にし、勝手に戻らせない。騎兵を外周へ回し、術式の兆候を伝えさせる。アウレリウスは広い範囲へ制約を維持し、アイラへの愛に引かれて敵兵が彼女のもとへ戻ることも、帝国兵が家族や戦友を思って命令から外れることも防いだ。
愛に従わなくても、命令と訓練で全員が出口へ進む。
列は、少しずつ危険な範囲の外へ抜けた。
最後の帝国部隊が境を越える。
捕虜の列も続く。
アウレリウスは後方を確かめ、アイラの背を押した。
「走れ。外で待ってろ」
「あなたも来る?」
「当たり前だ」
嘘ではなかった。
彼自身が通る道も、残り時間も計算に入っている。大規模な制約と連戦で魔力を消耗していても、最後の列とともに走れば間に合うはずだった。
そのとき、崩れた防壁の向こうから声がした。
取り残されたパルティア兵が、倒れた石材の下でアイラの名を呼んでいる。
アイラが振り返った。
強制した愛だと知っていた。自分の魔法がなければ、その兵が同じ声で呼ぶ保証などない。それでも、自分の力でこの戦場へ縛りつけた相手を、置き去りにはできなかった。愛に引かれたのではない。自分が負わせたものへの罪責が、小さな足を引き戻した。
「待て!」
アウレリウスの手が届く前に、小さな身体が危険な側へ駆け戻った。
彼は一瞬も迷わなかった。
アイラを追い、石材を押しのけ、兵を引きずり出す。二人を両側へ抱え、出口へ走った。
散っていた異常が一つの術式として動きだし、戦場を呑む熱が膨れ上がる。
外までは、あと数歩だった。
アウレリウスは兵を先に投げ、次にアイラの身体を押し出した。
自分も続くつもりだった。
けれど、最後の一歩だけが足りなかった。
アイラが振り向いたとき、熱と光が二人の間を引き裂いた。
アウレリウスは何かを叫んだ。その短い言葉も、最後に浮かべた表情も、最も近くにいたアイラだけが覚えている。
次の瞬間、彼の姿は崩れる戦場の向こうへ呑まれた。
死によって制約が消えた。
助けられたパルティア兵の中に、再びアイラへの愛が行動として溢れ出す。兵は泣き叫ぶ少女を抱え上げ、混乱の中を東へ走った。
帝国軍は大部分が生還し、戦線も守られた。パルティア軍は撤退した。
アウレリウスの作戦は、最後の一人を除いて成功した。
彼は死ぬことで皆を救おうとしたのではない。
最後まで、自分も帰るつもりだった。
だが幼いアイラが覚えたのは、別の答えだった。
愛した者は、自分を追って危険へ戻る。
愛は、その人を逃れられなくする。
そして死んだ者の最後の愛は、もう取り消されることなく、永遠に自分のものになる。
長い年月を経て戦場へ戻ったアイラは、その誤った答えを、幸福そうに抱きしめ続けていた。




