第39話 愛に従わない軍
そのころのアイラは、まだ愛を恐れていた。
七歳の小さな身体を、パルティアの兵たちが幾重にも囲んでいる。守っているのではない。彼女を戦場の中心へ置き、その力が軍全体へ届くようにしていた。
「もう、やめて」
アイラは泣きながら言った。
「わたしを見ないで。帰って。痛いでしょう?」
兵たちは笑っていた。
腕から血を流す者も、折れた足を引きずる者も、満ち足りた顔でアイラの名を呼ぶ。
「アイラ様のために」
「あなたをお守りします」
「この命を受け取ってください」
愛の精霊魔法によって、彼らの行動はアイラへの愛へ向けられていた。
アイラを守り、喜ばせ、自分のすべてを捧げることが、痛みや恐怖や生きたいという願いより優先される。
傷が治っているわけではなかった。
身体の限界が消えたわけでもない。
ただ、壊れて動かなくなるその瞬間まで、愛のために限界を無視している。
パルティア国王は、それを軍の強さと呼んだ。
幼いアイラには、人が壊れていく音にしか聞こえなかった。
帝国軍が最初にその軍団と衝突したとき、正面の隊列は半刻も持たなかった。
槍で肩を貫かれた敵兵が、槍の柄を自分の身体へさらに食い込ませながら前進してくる。膝を斬られた者が、倒れたまま帝国兵の足へ噛みつく。致命傷を負わせても、息が止まるまで剣を離さない。
勇猛なのではない。
生きることを、行動の条件から外されているのだ。
「退け!」
アウレリウス・カルディスの命令で、帝国軍は距離を取った。
追撃してくる敵の列は乱れている。それでも止まらない。盾を捨て、負傷者を踏み越え、一番速い者から走ってくる。
アウレリウスは馬上で振り返り、その視線がどこへ向いているかを見た。
敵兵は、帝国軍を見ていない。
戦況も、隣の戦友も、自分の傷も見ていない。何度前を向かせても、目は軍列の奥にいる一人の少女へ戻る。
「あの餓鬼が核だ」
副官が、討ち取りますかと問うた。
アウレリウスは即座に首を振った。
「七つか、そこらだぞ。自分でここへ来た顔じゃねえ」
「しかし、あれを残せば兵が——」
「兵を動かしているのは、あいつじゃない。あいつへの愛だ」
似ているようで、違う。
少女の命令に従っているのなら、命令を届かなくすればよい。魔法で身体を強くしているのなら、強化を剥がせばよい。
だが彼らは、愛しているから戦っている。
ならば制約すべきものは、少女でも、命令でもなかった。
次の衝突までに、アウレリウスは帝国軍へ一つのことを徹底させた。
「愛国心で戦うな。家族を守るために剣を振るな。隣の戦友を助けようと勝手に列を離れるな」
兵たちは戸惑った。
国を、家族を、仲間を思う心は、戦う者を支える。それを捨てろという命令に聞こえた。
「捨てろとは言ってねえ。今から俺が解くまで、それを理由に動くなと言っている」
アウレリウスは地面へ線を引き、隊列を組み直した。
「角笛が一度なら盾を上げろ。二度なら三歩退け。赤旗が上がれば左列は止まり、右列が前へ出る。理由を考えるな。隣が倒れても、指示された者だけが運べ。お前らを帰すのは気持ちじゃない。命令と、身体へ叩き込んだ訓練だ」
同じ動きを、何度も繰り返させた。
盾を上げる。三歩退く。列を閉じる。負傷者を運ぶ。
愛に頼らなくても軍が動く形を、先に作った。
パルティア軍は、その準備を臆病な守勢と見た。翌朝、アイラを中央へ置き、全軍で押し寄せた。
兵たちは笑っていた。
愛する少女へ勝利を捧げるため、死ぬことを喜びながら走ってくる。
アウレリウスは、自軍へ停止を命じた。
帝国兵の足が止まり、盾が並ぶ。
自分も馬から下り、息を整えた。制約の精霊へ、範囲と対象と、何を禁じるのかを明確に定める。他者を巻き込む制約は、自分一人へ課すものとは比べものにならないほど魔力を食う。敵だけを選んで外から縛ることはしない。
自分も、帝国兵も、パルティア兵も。
同じ場にいるすべての者が、同じ不利益を受ける。
そのうえで勝つために、準備をした。
「この戦場で——愛に従うことを制約する」
精霊の力が広がった。
光も爆音もなかった。
ただ、走っていたパルティア兵の足が、次々に止まった。
アイラへの愛が消えたわけではない。胸の中には、変わらず強い愛情がある。だが、それを理由に一歩を踏み出すことができない。
そして愛によって押しのけていたものが、一度に戻ってきた。
痛み。
恐怖。
失った血と、砕けた骨と、動かない筋肉。
剣を振り上げたまま倒れる者がいた。自分の傷を初めて見たように叫ぶ者がいた。死にたくないと泣き、我先に逃げだす者もいた。愛に従って保たれていた隊列は、戻ってきた恐怖と痛みのままに崩れた。
一方、帝国軍にも愛を理由とした行動はできない。
それでも角笛が一度鳴ると盾が上がった。
二度鳴ると、前列が三歩退く。
赤旗が上がり、右列が進む。
祖国への思いではなく命令で。家族の顔ではなく訓練で。愛に従えなくても、軍は軍として動き続けた。
勝敗は、そこで決まった。
帝国兵は動けない者を殺さず、武器を奪って拘束した。アウレリウスは制約を維持したまま敵陣の中央へ進む。
七歳のアイラは地面に座り込み、両手で耳を塞いでいた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
誰へ向けるでもなく、何度も繰り返している。
アウレリウスが近づくと、少女は濡れた顔を上げた。
「わたしを、殺すの?」
「殺さねえよ」
「でも、わたしを愛してないでしょう」
制約の中では、愛を理由に彼女を助けることもできない。
アウレリウスは剣を鞘へ収めた。
「子供を戦場から連れ出すのに、お前を愛している必要があるか」
少女には、その言葉の意味が分からなかった。
国王は愛を力として求め、兵は愛によって命を差し出した。愛さなければ、誰も何もしてくれない。それがアイラの知る世界だった。
「立て。飯を食わせる。話はそれからだ」
差し出された手を、アイラは怯えながら見つめた。
愛に従えない戦場で初めて、一人の大人が、何も差し出させずに彼女を子供として扱った。




